なっく

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[お題:ごめんね]
[タイトル:カナヅチには母親がいない]

 男三人と女一人でプールに行く。そこにある文脈の複雑さったらないと、三宅秋葉は思う。
 
 それを紅一点と見るならば、そこには男たちが取り合うマドンナの姿が浮かび上がる。しかし、オタサーの姫と見れば、なぜか女の魅力が二、三回り落ちているような気がしてくる。さらには男を侍らす悪女とか、取っ替え引っ替えとか、そんな見方をすればどうだろうか。
 けれどそんな解釈の多様性は、秋葉がある事実を見て見ぬふりしているから生まれるものだ。まるで池にブラックバスを放つように、秋葉は彼らの肩書を思い出した。
 父、上の兄、下の兄。まったく夢がないと、そう思う。
「いや、ほんとに夢がない」
 秋葉は自分が発したその言葉で目を覚ました。どうやら、ひどい悪夢を見ていたようだ。きっと現実は、もっと恋とか青春とかで溢れている、はず。
「おっ、起きたか秋葉」
 現実逃避は運転手である父の言葉ですぐに終わった。
 秋葉は八つ当たりのつもりでそれに返事をせず、そして寝起き特有の行動として、義務的に辺りを見渡した。
 助手席には上の兄である三宅夏樹が座っている。大学一年生であり、夏休みを利用して実家に帰ってきていた。家が狭くなるから邪魔! と、真剣に五分くらい考える程度の兄妹仲だ。そして秋葉の隣には、下の兄である三宅春久がいる。春久はブルートゥースのイヤホンで何やら音楽を聴きながら静かに目を瞑っている。見ての通り無口な性格で、家でもほとんど話さないので、兄妹仲という観点で言えば、普通としか言い表せない。
 そんな男三人、そして秋葉。身体が現実から再度逃げようとしたからか、自然とあくびが出てしまう。ただこんな風に遠慮なく接する事ができる点は悪くないかも知れない。
「もうすぐ着くから、今から寝るときついぞ」
「分かってるよ」
 本当に分かっている。その証明は運転席と助手席の間から見える青看板で十分だ。間も無く高速を降りて、そこから五、六分で目的地に辿り着く。眠気故の気怠さを彼方に吹き飛ばすには、ちょうどいい時間だ。現在、向かっているのは隣町で新しく出来上がったプール施設だ。プールに入る以上、多少の気怠さでも命取りになる。秋葉は念入りにと、思いっきり伸びをした。
 もう二度と、水に命を奪われてたまるか。


「んじゃ、秋葉を頼んだな」
 それぞれ更衣室で着替えを終え、再び集まった最初の父親の言葉としては、最低の部類だと秋葉は思う。
「分かった」
「楽しんでー」
 春久と夏樹はそれだけ言って父を見送った。もっと何か言うことあるだろ、と思わなくもない。しかし結局、秋葉も父の背中に「頑張って」と声をかけたので同じ穴の狢である。
 父は新しい出会いを求めている。七年前に離婚し、そこから男手一つで三人兄妹を育ててきたのだ。一番下の秋葉も現在中学三年生で、来年には義務教育を終える。そろそろ自分のことを考えてもいい時期だと、去年家族会議で話し合ったばかりだ。もちろん、家事に仕事に奔走する父に思うところがない訳がない。最大限の応援をしようと思っている。
 だからって、四十代がプールでナンパはどうなんだ。

「じゃあとりあえず、秋ちゃんはビート版とってきなよ」
 父の背が見えなくなった後、夏樹がそんな風に言った。
 ビート版。色々と使い方はあるが、秋葉にとっては初心者用の補助具である。
「分かった」
 今回、プールに来た理由は父のナンパの為ではない。それは秋葉のカナヅチの克服だ。そのために男三人を駆り出した。淡い色恋の文脈よりも、秋葉には成さなくてはならない事がある。

 ここの施設には、流れるプールやウォータースライダーもあり、若者の多くがそちらの方で楽しくよろしくやっている。一方で、秋葉たちは屋内の普遍的な二十五メートルプールの中にいた。
「とりあえず、顔をつけるところからやってみようか」
 夏樹はそう言うと、大きく息を吸って潜水した。その後、五秒ほどで浮上する。
「こんな感じで、まずは十秒くらいからやろっか」
「十秒・・・・・・」
 頭の中でそれを数えてみるが、あまり難易度は高くないように思える。夏樹の言い回しも『まずは』と基礎の基礎である事を表していた。これが出来なくては、泳ぎの練習なんて夢のまた夢である。
 なので、先ほど取ってきたビート版も秋葉の手元にはない。それは春久が持っていて、彼は現在、プールのヘリに座ってパシャパシャと足で水を弾いている。
 春久の役割は、言わば監視員だ。そして指導員が夏樹である。二人いれば、まぁ大丈夫だろうとの判断の元、父親はナンパに行ったのだ。
「やれるか?」
 中々入らない秋葉に、夏樹が心配そうに声をかける。
 彼が心配になるのも当然のことだ。秋葉は筋金入りのカナヅチである。七年前にお風呂場で一回、三年前に川で一回、そして去年、海で一回溺れたのだ。それだけのトラウマに当てられながら、しかし秋葉はプールに来た。
 やれるか? ではない。やらなくちゃいけない。これは秋葉のできる唯一の贖罪なのだ。
「やる」
 トラウマの数だけ手足が動かなくなっているような気がする。右手と両足が、まるで枷でもつけられたかのように動かない。秋葉は唯一動く左手で鼻を摘んだ。
 そしてここにきた理由を思い出した。どうして克服しようと思ったのか? どうして海や川に二度と行かないではダメなのか?
 その答えを、決して兄二人には聞こえないように極限まで声を抑えて呟く。
「ごめんなさい。カノンちゃん」
 トプン、と全身が水の中に収まった。
 きちんとゴーグルをつけているのに、なぜか瞼が開けられない。すぐに水面へ出たがる手足をなんとか押さえつける。まだ出てはいけない。まだだ。まだ、十秒も経っていない。
 まだ三秒しか経っていない。言いようもない不安感に襲われる。真下の暗闇から無数の腕が数百本飛び出している気がする。
 まだ五秒しか経っていない。既に息苦しくなってきた。あぶくが漏れて、水を飲みそうになってしまう。
 まだ七秒しか──
 その時、秋葉の身体は謎の力によって水上にまで引き上げられた。
「大丈夫か!? 秋葉!」
 夏樹だ。秋葉は夏樹に抱えられたまま、荒々しく呼吸を繰り返す。肌という肌が空気を欲して喘鳴を上げている。
「はぁっ、はぁっ、うぇ、はぁ。なんで、まだ、七秒だけ、じゃん」
「いや、今もう十五秒くらい経ってたよ」
 いつのまにか近くに来ていた春久がそんなことを言う。
「ごめん、十秒経って、案外いけると思ってたら引き上げるの遅れた」
 夏樹は表情に後悔を滲ませている。
 ようやく、秋葉は事態を理解した。溺れていたのだ。きっとそういうことだ。だから春久はすぐに駆け寄り、夏樹は近くにいながら、溺れさせてしまった事を悔やんでいる。
「秋ちゃん、一回プールから出よう。ちょっと休憩してから──」
 夏樹は宥めるような声で言った。きっと夏樹は正しい。恐らく彼は、秋葉がもう出来ないと判断したのだ。秋葉のトラウマは想像よりもずっと根強い。
 でも、だからなんだと秋葉は思う。そんなの分かっててここに来た。
「待って。やだよ、そんなの。だって、まだプールに入って二分も経ってない!」
 秋葉はそう叫んで、夏樹から無理矢理離れると、もう一度鼻を摘んだ。けれど、それだけだ。足は動かず、身体は曲がらない。いつまで経っても、鼻を摘んだままの滑稽な姿でいる。
「秋ちゃん・・・・・・」
 名前を呼んだだけの夏樹の声が心臓に突き刺さる。
 ふと、目を開けて水面を見ると、そこには顔が映っていた。ただし、それは秋葉の顔ではない。そこにいたのは、紛れ間なく幼馴染の早乙女カノンの顔だ。驚いて一瞬目を瞑り、次に開けた時には秋葉の顔に戻っていた。恐怖に怯えて、ゴーグルの内側に水を溜める秋葉の姿だ。


 最近の市民プールでは、悲鳴や絶叫は当たり前のものらしい。目の前に広がるウォータースライダーや流れるプールの盛況っぷりを見ると、自分の不甲斐なさを自覚して吐きそうになる。
 家族連れや、友人グループ、果てはカップルまでが水に入っている。一度波に飲まれても、また出てきた時には大抵笑顔だ。
 その時、ふと秋葉が座るテーブルの横を掠めて、男女の二人組が流れるプールに向かっていた。見たところ秋葉と同い年くらいだ。
「見て、アマネ! すごい、すごくない!?」
「うるさい。ハルトうるさい」
 二人は楽しそうにそこへ向かう。その文脈は色々と想像の余地が多い。秋葉は恋人だったらいいなと思いながらも、一方で妬ましくもあった。もちろん彼らに限った話ではない。今ここで、プールに入る全員が妬ましいのだ。
 秋葉は結局、それから水に潜ることは出来なかった。プールから上がった直後に『もう今日は無理なんじゃない』と春久に言われた時は内心激怒したが、時間が経つにつれて、それが事実だと嫌でも思わされてしまう。
 秋葉は今、屋外にあるパラソル付きのテーブルで、夏樹に買って貰ったかき氷を食べている。たった一人でだ。
 二人は父親を探しつつ、少し遊んでくる事になった。と言っても、それは秋葉の方から頼んだことだ。自分で連れ出しておきながら、こんな結果に終わったことへの贖罪の意だと言っておいた。しかし実のところは、あんな無様な姿を、楽しい思い出でさっさと上書きして欲しかっただけだ。
 シャリシャリと、かき氷を端から崩していく。その音は流れるプールではしゃぐ人々の声でかき消えてしまう。
 ちょうどこんな具合だろうと、秋葉は思う。溺れるというのは、案外静かで、気づきにくいものなのだ。
 一年前。あの時、秋葉が溺れていたことに気づいていたのは、早乙女カノンだけだった。


 早乙女家と三宅家は、父親同士が大学の友人であり、住まいも近かったため、二家族で出かけることも多かった。特に夏には、海辺でバーベキューをするのが恒例だ。
 毎年恒例、というのが油断を誘ったのかも知れない。また、浅瀬なら大丈夫なんて甘い考えもしていた。周りには大人がいて、人も十分にいた。
 それでも波に煽られて秋葉の乗っていた浮き輪が転覆した時、気付ける者は居なかった。たった一人、カノンを残して。
 本能的溺水反応と呼ばれるものらしい。突然のことで状況を理解できず、声も出せずに静かに溺れることだ。隣の部屋にいても気づけないほど小さいと、ネットの記事には書かれていた。
 だからカノンが気づいたのは、単純に見ていたのだろうと思う。カノンは水泳が得意であり、また心優しい性格の持ち主だった。だからカノンは真っ先に秋葉の元へ向かったのだろう。
 この辺りからカノンにも多くの誤算があった。一つ目は秋葉の身体が、波に引きずられて思っていたよりも奥に行っていたことだ。それによってカノンはより深い場所に誘われた。二つ目は、海は段々と深くなる訳ではないと言うことだ。海は岸から離れると、途端に地面が急落することがある。カノンはそこで、急に地面を失ったことでパニックになった。そこから先は秋葉と同じだ。カノンもまた、静かに海の底を目指した。
 果たして、秋葉は生還し、カノンは死んだ。二人も消えると流石に大人たちも気づき、引き上げられた二人は救急車で運ばれたが、結末はそれだ。

 なぜ片方だけが生きたのか。なぜ片方だけが死んだのか。これをただの運だなんて片付けたくはないが、やはり理由は思い浮かばない。
 単純に間違えた数なら同じくらいだ。秋葉は泳ぎが苦手だと自覚していながら海に出たのは間違いだった。カノンは自分で助けに行かずに大人たちを呼ぶべきだった。
 だから、やっぱりそこを追求しても仕方がない。結局、秋葉の中に残ったのはただの因果関係だ。
 秋葉が溺れなければカノンは死ななかった。
 周りがどれだけ秋葉のせいにしなくても、秋葉だけは秋葉を許せなかった。
 だから、秋葉はここにきた。確かに、泳げるようにはなりたい。あの女の子と男の子ように、恋人と流れるプールで揺れてみたい。けれどそれは目的じゃない。
 秋葉は知っている。ここが一番、自分を苦しめることができる。死ぬんじゃダメだ。生きて苦しまなくては。後追いは贖罪にならない。
 苦しみが無くなったとき、カナヅチを克服した時が贖罪の終わりだ。

「おー、秋葉。いいの食ってんな」
 秋葉が空っぽのかき氷のカップの中でスプーンを回していると、父がそんなことを言いながら寄ってきた。
「もう中身ないよ」
「ちぇ、じゃあ俺の分買ってこようかな」
 そう言いながら、父はテーブルについた。買いに行けよ、と一瞬思ったが、きっと父はもう自分が言ったことなんて気にしていない。恐らく、夏樹と春久から話を聞いていたのだろう。その顔には心配の色が滲み出ている。
 そんなんだからダメなんだ。
「ねぇ、お父さん。良い人はいた?」
「いや、やっぱりプールじゃ見つからないね。ま、秋葉が大人になる頃には見つけるよ」
 それじゃ遅い。今すぐにでも見つけて欲しい。
「うん。そうだね。期待してる」
 秋葉は間違いなく、自分自身を責めている。けれどその矛先が一つだけとは限らない。
 秋葉は思う。
 あと一人。あと一人だけでも大人がいれば違ったんじゃないか。大人の視野は当然子供よりも大きい。カノンが気づけた溺水のサインに、もう一人いたなら気づけたんじゃないか。
 母親さえいたならば、もしかしたら。

5/29/2023, 8:16:07 PM