なっく

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[お題:ただ、必死に走る私、何かから逃げるように]
[タイトル:打算的恋愛逃避行]

 一

 打算で人を愛せる人間は、打算で人を殺せる人間だ。
 父が母を殺した動機が保険金だったという事を知った小野寺凛檎はそんな事を考える。
「あーっ、見なきゃよかったぁ・・・・・・」
 一人暮らしのマンションの一室でスマホの画面を見ながら呟く。表示されているのは、虚実入り混じるニュース記事だ。
 当事者の娘として、当然知るべき事だと、そう思ったのが間違いだった。大学生になったから、心は十分強くなったと勘違いしていた。
 空いていないダンボールが多々ある入居一日目の一室で、凛檎の心は地の味を覚える。もう片付けのやる気は起きやしない。
「だからじいじもばあばも、教えてくれなかったんだ・・・・・・もぉー」
 その保険金殺人が起きてから、もう十年目になろうとしている。その間、凛檎は祖父、祖母の元で育った。
 その祖父母は母方で、事件以降、父方の祖父母とは会っていない。確かに、こんな理由なら会うことなんて出来ないだろう。父方の祖父母はお年玉の気前が良く、そんな理由で会いたいとせがんでいた小学生の頃の自分が、途端に邪悪なモノに思えてくる。
 人を打算でしか見れない遺伝子が、きちんと自分の中にもあると、そう思わされる。
 その時、動かしていないはずのスマホの画面が急に切り替わる。アイフォンのスクリーンタイムだ。いつの間にか、時刻は十二時になっていた。
 ふぅ、と一息吐いて、凛檎はスマホを掲げていた手をだらりとベッドに置いた。少し跳ねてから静止する。
 それはスマホを買って貰う際の約束事だった。十二時を越えて使ってはいけないと、よくある子と親の約束。今に思えば小学生の決まりとしては、少し遅い時間かもしれない。けれどその分、中学高校での寝不足は無かった。果たしてその約束をした父親は、そこまで考えて時間を設定していたのだろうか。今となっては分からない。
 聞こうと思えば聞けるのだろうか。凛檎は思う。母は死んだが、父はまだ檻の中で生きている。先ほどのニュース記事にも載っていたが、父は無期懲役だ。
「いや、ないね。ない。絶対無い」
 実のところ、一度調べたことがある。無期懲役でも親族であれば会うことは比較的容易いらしい。それでも今まで一度として会うことが無かったのは、何も祖父母の意思を汲んだからというだけじゃない。凛檎は犯罪者の娘であり、被害者の娘なのだ。母を殺した男を、許す道理は何一つない。顔を見たいと思う瞬間は一秒だって無かった。先ほどの考えは、深夜十二時ゆえの惚けでしかない。
 そう、深夜十二時なのだ。凛檎が普段寝る時間としては、むしろ遅れている方。
 明日は大学の入学式がある。そろそろ寝るべきだ。
 そして凛檎は静かに目を閉じた。五分ほどで意識が落ちる。凛檎は寝付きに困ったことが無い。母が死んでも、父が逮捕されても、その日の凛檎はその日のうちには眠っていた。それが良い事だと思えるようになったのは、大学受験の年になってからだった。

 ※

 凛檎は雨の中を駆けている。
 雨ガッパも傘も無い。濡れたロングスカートは、想像よりもずっと走りにくい。それでも速度を落とす訳には行かなかった。
「待ちなさい!」
 警察官が声を荒げる。凛檎は今、警察官に追われている。あの日の父のように。
 けれど父と違う点がひとつだけある。凛檎は人を殺していない。
 凛檎は祈るように叫ぶ。
「違う、私じゃない。葉山を殺したのは私じゃない!」
 けれどそれが警察官の耳に届くことは無い。増すばかりの雨音の中では、凛檎のか細い叫びは散り散りになって消えしまう。

 二

 入学式で自分がする事なんて何もない。ただ話を聞いて、何とか寝ないように堪えるだけだ。
 それでも凛檎はかつてない緊張感に襲われていた。
 会場のパイプ椅子に座りながら、凛檎は絶対に目立たないよう、細心の注意を払って辺りを見渡す。
 スーツ。スーツ。スーツ。
 紺、黒、それらより数は少ないグレー。
 大学の入学式において、服装の規定はない。だというのに、ものの見事に九十九パーセントがスーツだった。
 こういうのを慣例とか、慣習とか言うのだろうか。もちろん、必ずこれに合わせなくてはならない理由はない。
 だから、こうして私服で参加する凛檎に、糾弾される余地はない。あるとしたら、それは空気を読めていない人を見る好奇の目線だ。
 もちろん、スーツがほとんどである事を知らなかった訳じゃない。凛檎が私服で参加した理由は二つある。
 一つはスーツを買うお金が勿体無いと感じたからだ。大学生活の後半には、就活というイベントがあり、そこでもスーツ買う必要がある。そちらは入学式と違って、企業によっては必須になる。大学生がスーツを使うタイミングはそのくらいだ。つまり、数年は使わない。その間にサイズが合わなくなれば、二着目を買う必要が出てくる。それならば、今は買わなくてもいいんじゃないかと思ったのだ。凛檎は私服ですら一週間七着のローテーションで過ごしているほど、服にお金を出す事を渋っていた。
 そして二つ目の理由。これは完全に間違いだった。私服参加は、もっと多いと思っていたのだ。
 結果はこの有様。少なくとも凛檎が見える範囲で、私服の大学生は自身を含めても片手で数えられる程度だ。
 だからだろうか、凛檎の隣には未だに誰も座らない。
 学校という場所は、大抵初日が肝心である。中学も高校もそうだ。少なくとも、凛檎はそうだった。
 実は大学の入学式で会った人のことなんて、後期になればラインも動かなくなることはザラにある。さらに言うなら、そもそも誰が私服だったかなんて覚えている人はいない。そういう話を聞いていても、浮いている当人からすれば、気持ちが前のめりになる事は無いのだ。
 もう誰でもいいから、隣に早く来てほしい。凛檎がそう思うのも無理はない。ただえさえ私服で浮いているのに、露骨な歯抜けがあるとさらに浮く。
 果たして、その願いは届いた。
 端に座る凛檎の前を横切って、そのまま隣に一人の女子が座った。それもスーツじゃない。しかし、私服でもない。
 彼女は着物だった。緑を基調とした花柄の着物。そしてそれを入学式で着るだけの説得力が、その佇まいにある。
 悠然と、堂々と。ただ美しいだけじゃない。浮き方にも色々とあるが、彼女のそれは地球から飛び出すエベレストのようなものだった。
「・・・・・・あの、どうかしましたか?」
 その彼女が、凛檎に話しかける。それに思わず肩が揺れてしまった。どうやら、ずっと見ていたのがバレたらしい。
「あぁ、えと、ごめんなさい。その、綺麗だな、って思って」
 言い終わって、ハッとする。一体私は何言ってんだ。
 当の彼女は、それに困ったような表情を見せて、直後に笑った。軽く握った手を口元にやって、優しく微笑んでいる。
「ふふっ、ありがとう」
 魂は細部に宿る。彼女の所作を見て、そんな言葉を思い出す。決して人に使うべきではないが、確かにそんな印象を受けた。彼女の魂は、間違いなく彼女と同じ形をしている。対して自分のそれは、よくある火の玉だ。
「ところで、あなたのお名前は? 何とお呼びすればいいかしら」
「えと、小野寺凛檎です。小野寺でも凛檎でも好きに呼んで貰って大丈夫です。それであの、あなたは・・・・・・」
「三峰です。三峰弥生」
 その着物がよく似合う名前だと、素直に思った。

 ※

 凛檎は急転回し、ビルとビルの隙間に吸い込まれるように入った。ゴミと泥まみれの不快感よりも、今は警察官を振り切ることの方が優先だ。
 所々で飛び出たパイプや室外機を飛び越えて、とにかく奥に進む。
 あまりに狭くて、時折りコンクリの壁に顔を擦ってしまう。その傷に雨や泥水が染みてくる。悪臭も酷い。服も汚れて、髪もぐちゃぐちゃ。
 それでもそれを犠牲にするだけの価値があった。
「っ、おい!」
 警察官の怒声が響く。彼は犯罪者を捕らえるためであろう、その筋肉のために、隙間に入ることができない。入り口から手を伸ばせる程度の場所は、すでに通り過ぎている。
 横目でその姿を確認すると、警察官はトランシーバーのようなもので話しているのが分かる。
 急いで抜けた方がいいかも知れない。
 できる限りの全速力でそこを抜けた時、凛檎は人に迫害された野良犬のような様子になっていた。
 悪臭の不快感と、一瞬振り切れた安心感が入り混じって、胃の中をぐるぐる回す。
「うぇっ! はぁ、はぁ」
 何とか、吐瀉物は出さずに済んだ。口の端のよだれを拭いて、凛檎はまた走り出した。
 今の凛檎に目的地はない。むしろ、それを探している。凛檎が目指しているのはとある人物の居場所だ。
「あの人がっ、弥生さんがっ、いるとしたら!」
 そしてスマホを取り出し、凛檎は電話をかけた。

 三

 凛檎と弥生が出会ってから二週間。二人の交流は未だに続いている。凛檎にとって弥生は大学で最初の友人になった。
「お待たせ、弥生さん」
「ぜんぜん待ってないから、気にしないで小野寺さん」
 そう言って、弥生はにっこりと笑う。どうやら弥生は次の授業の予習をしていたようだ。シャーペンでノートに書かれた字は、まるで星座のように直線的な美しさを持っている。
 凛檎はそんな弥生をずっと見ていたので中々気づかなかったのだが、大学で予習をする人間はその実かなり少ない。特に文系学部の、一年生であれば尚更だ。
「それじゃあ、行きましょうか」
「はいっ」
 二人は空き教室を出ると、学食に向かった。二限、三限に授業がある弥生は、三限にしか授業を入れていない凛檎よりも早く着いていたのだ。
 そして、食堂に着いた時、そこは既に蠱毒のように人間たちがひしめいていた。
「すいません、弥生さん。私がもっと早く来ていれば・・・・・・」
 無論、凛檎が待ち合わせに遅れた訳では無い。むしろちょうどに来ている。ただこうして弥生を立ち往生させていることに、申し訳なさが湧き出てくるのだ。
「謝らないで。コンビニで買って、ベンチで食べましょうか」
 弥生はカラッとして言う。
 この二週間で、弥生の印象は随分と変わった。端々に滲み出る美しさはそのままに。しかし、たった一人着物で入学式に乗り込んだ、その孤高さはあまり感じない。一つのアイドルグループにおけるエースでは無く、キャプテンのような、あくまで集団を引っ張って輝くタイプだ。
 そして二人して食堂を出ようとした時、ふと二人組の男子学生に話しかけられた。
「あっ、すいませーん! よかったらここ座ります?」
 そう言って、その男子は四人がけの椅子に置いていたカバンを手に取った。
「えと、いいんですか?」
「はい、全然大丈夫っすよ。あっ、俺こっち来ますね」
 そして席を立ち、男子二人は対面から横並びに変わった。こうして移動されると、いよいよ断れない。
「じゃあ、まあ、お言葉に甘えて」
「どうぞどうぞー」

 そしてそれぞれ定食やカレー、うどんや麻婆豆腐などを食べる中、二人ずつで喋るのも気まずくなって、お互いに自己紹介をした。
「葉山学です」
「藤宮清吾っす」
 弥生と凛檎を引き留めたのが大学二年生の清吾だ。清吾は積極的に人に話しかけるタイプで、その話も鬱陶しく感じない。恐らく、ナンパにかなり慣れている。よく見れば、ギターのような荷物もある。
 一方で、大学一年生の学は無口だ。いわゆる、ガリ勉の真面目系。パッと見では、二人の共通点は見えない。まぁ、それはこちらも同じかも知れないけれど。
「俺たち、ジャズ研なんすよ」
「ジャズ研?」
 そう言われて目につくのはギターだ。清吾いわく、ジャズギターなんてものがあるらしい。
「ただ、うちのジャズギターは人が少ないんすよ。それで、新歓に来たコイツを逃さないように、こうして飯に」
 なるほど、と納得すると同時に、一つ気になることもある。清吾の分のギターはあるが、学のギターが見当たらないのだ。
 そのことについて聞くと、清吾が答えてくれた。
「まあ、ジャズギターは高いっすからね。今は部室に置いてある練習用使って貰ってるんす。ただまぁ、ここだけの話、やっぱり自分のギター持った方が上達早いんで、さっさと買って欲しいんすけどね。どうにも踏ん切りがつかないようで」
 それについて、学は曖昧な返事しかしない。「まぁ、そのうち」とかそんな事を言っている。
 とはいえ、踏ん切りがつかないその気持ちはよくわかる。凛檎は成長期後の、数年の成長を信じてスーツを買わなかったのだ。そのうち辞めるかも知れないサークルで、高いギターを買うのにももちろん抵抗がある。
 だから、清吾に「二人も入りません? ジャズ研」と言われたら時は、曖昧に笑うしかなかった。
 対して、弥生の反応は違った。
「確かに、いいかも知れないわね。ジャズ研」
 弥生はきちんと目を見てモノを言う。彼女が見ているのは清吾ではなく、学だ。
「ジャズギター、すごくかっこいいと思うわ」
 それを聞いた学の顔といったら!

 それからというもの、たまに校内で学に会うと、その背中にはギターがあるようになった。ケースから取り出したところを見たことが無いので推測になるが、恐らく、ジャズギターだろう。
 その当初は、単純に学が弥生に惚れていて、彼女の言葉を真に受けたのだろうと思っていた。
 それが違うと知ったのは、前期の終わり頃。
「僕とデートしてくれませんか?」
 学が言う。真っ直ぐな瞳で。その目の中には驚き顔の凛檎が写っている。

 ※

「ありがとうございます、藤宮先輩。あと、すみません。急に呼び出したうえに車汚しちゃって」
 凛檎は運転席に座る藤宮清吾に話しかけた。
 警察の応援というのが、どの程度呼ばれるものかは分からない。ただこの大雨の中、傘も雨ガッパも無いというのは本当に目立つのだ。加えて格好もバレている。このままだと時間の問題だと思い、凛檎は助っ人を呼んだ。もちろん、既に警察に追われていることは話している。
「いや、別にそれは全然いいんすけど」
 清吾は困惑しながらも、汚れること自体には本当に気にしてない様子でカラッと言った。ところで車を汚すだけでなく、タオルや帽子も借りている。本当に、こういうところがモテるんだなと凛檎は感心した。
「で、何がどうなってんすか?」
 清吾の問いは当然だ。ただ、凛檎も全てを把握している訳じゃない。真の意味で全てを理解しているのは、きっと弥生だけだ。
「私が葉山を刺したところを現行犯逮捕されかけた」
 だから、端的に話す。
 清吾は無言のまま、続きを待った。
「たぶん、弥生さんはそういう体でストーリーを作ってる」
「ストーリー?」
「そう。ストーリー」
 弥生は脚本家であり、演出家だ。彼女は友人、恋人だけでなく、国家権力すら巻き込んでそのストーリーを作っている。
「浮気をした男と、それを知って男を刺し殺す女のビターストーリーです」
『打算では無い愛の果てにあったのは、打算の無い殺人だった』
 これはストーリーでは無く、紛れもない現実に起きたことだ。
 清吾は苦々しく後悔を漏らす。
「本当に申し訳ない。俺が先輩として、もっとちゃんと目をかけてれば、二人にこんな思いを背負わせることは無かった」
「そんな、謝らないで下さい──」
 このストーリーにおいて、清吾には一切の非がない。物語の主人公は葉山学だ。そして彼と最初に付き合うのがヒロインA。遅れて、彼と浮気してしまうのがヒロインB。やがて学は浮気が発覚し、ヒロインAに刺し殺される。清吾の役割は、学と二人をくっつける無害な友人兼、先輩でしかない。
「悪いのは私たちです。私も、弥生さんも、葉山も。先輩だけが正しかった」
 浮気をした学とヒロインB、そして殺人を犯したヒロインA。そこに善性は何一つない。全員が悪で、けれどやはり、殺人だけは突出していると、凛檎は思う。
 殺人犯の娘であり、被害者の娘。そんな凛檎だからこそ、殺人には絶対の忌避感情が湧く。
 なら浮気は許されるべきだったのか? ヒロインBの語る、知らなかったは、果たして理由になるのか? 浮気と殺人はどちらが重い?
 量刑で語るなら、間違いなく殺人が重い。
 そして凛檎は、そんな考えは打算的だと吐き捨てた。少なくとも、このストーリーでは浮気と殺人は等価だ。
 だから凛檎は逃げている。自分の言葉を否定するには、行動で示さなくてはならない。内心の矛盾は、出力される現実によって解消される。

 問題は、現実と真実は無関係だという事だ。真実は主観で出来ているが、現実は客観で出来ている。
 これは現実を巡る争いだ。弥生の作った新たな現実を、凛檎は打ち破らなくてはならない。ヒロインAとヒロインBの配役はまだ決まっていない。

 四

 凛檎と学は、間も無く付き合う事になった。タイミングもあったのだろう。大学一年の夏休み前。そんな一大イベントに、彼氏無しで突入するのも何だか寂しい。そんな考えが確かにあったのだ。
 なんて打算的だろうと、今にしては思う。打算的な愛の果てには、打算的な殺人が待っている。そのことを両親から十分学んでいたはずなのに。

 夏休みに入ってから四回目のデートで、凛檎はようやく過ちに気づいた。つい、今まで思っていたことがポロッと出てしまったのだ。そこが中華料理店であった事も関係しているかもしれない。
「葉山はてっきり、弥生さんのことが好きなんだと思ってたよ」
 果たして、返事は返ってこない。麻婆豆腐を口に入れ過ぎたからだと思って、しばらく待つ。奇妙な間を開けて、学が口を開いた。
「いや、そんな事ない、よ。はは」
 それを不審がれないほど、純粋じゃない。打算を嫌うのは、打算に敏感だからだ。
 そこですぐにスマホのパスワードを突破していれば、まだ傷は浅くすんだのかも知れない。凛檎は打算でない証明を、相手を信じる事でしか出来なかったのだ。

 そしてある日、決定的な瞬間を目撃する。
 たまたま映画を見に出掛けていた先で、学と弥生の二人を見かけたのだ。仲睦まじく、腕と腕で絡み合って歩いている。
『ねぇ、今日、弥生さんと一緒にいなかった?』
 その日の夜に、そんなラインをする。既読とほぼ同時に返事が来る。
『そんな訳ないよ』
 凛檎へのプレゼントを選んでいたとか、もっとマシな言い訳があるだろ。
『嘘つき』『今日見た』『絶対、嘘』
 その三つを送ったところで、学から電話が掛かってきた。
「違うんだ、話がしたい」
「いつから、付き合ってるの?」
 凛檎は一方的に質問する。この時はまだ、自分が最初だと思っていた。凛檎と付き合ってから、弥生と浮気したのだと。
「・・・・・・小野寺と付き合う二ヶ月前」
 その瞬間、大地がガラガラと崩れていくような気がした。
 浮気の犯人は、凛檎の方だった。学は弥生と付き合ってから、凛檎と浮気したのだ。それが真実だ。
「じゃあ、もう私たちの関係は終わりにしよう。無理、耐えられない。ましてや、弥生さんからなんて!」
「待って! 話し合いたいんだ! 三人で!」
 意味が分からなかった。三人で話し合って、何が解決するというのか。その先には地獄しか見えない。
 学は続ける。電話越しじゃ、言葉を尽くすしかない。
「ずっと黙っててごめん。それは、本当に俺が悪い。でも、俺はどっちも失いたくなかったんだ。三峰も小野寺も、心の底から愛してる」
 もはや返事ができない。頭が割れそうなほど痛くて、今の学の言葉は詐欺師の言葉にしか思えなかった。
 学はそのままの声で、ポリアモリーというものについて語った。
 ポリアモリー。複数人と恋愛関係を結ぶ関係のこと。もちろん、大前提はそこに含まれる全員の同意だ。現状の三人の関係は決してポリアモリーではない。浮気を選んだ時点で、彼の論理は壊れている。
 しかし学は語る。自分たちならそうなれると。一度終わらせて、ポリアモリーを始めようと。
 それを一通り聞き終えて、凛檎は思う。適当にネットで調べた、程のいい言い訳を持ってきただけだ。ジャズギターを買えないように、どちらも捨てられないだけだ。
 けれど、こうも思う。この完璧なバッドエンドを覆すストーリーは、もうそれしかない。それにだ、もしそれが完璧に成立するなら、そこに打算の余地はない。学の愛を相互監視し合えばいい。夫婦という関係は、客観のない一対一だからこそ打算の余地がある。それぞれへの打算のない愛を、客観的に証明し合えれば、保険金殺人は起きない。
 たっぷり三十分ほど悩んで、ようやく凛檎は口を開く。
「それを、私の前で弥生さんにも話して。弥生さんが受け入れるなら、私も考える」

 程なくして、日付が決まる。運命のXデーに、数日前から心臓が悲鳴を上げている。
 その日は水曜日。天気予報は生憎の雨模様。それが自分のたちの行く末だと、そう言われているかのようだった。

 ※

 凛檎の服や髪がようやく乾いた頃。清吾の手繰る車は、とある中華料理店の前で止まった。
「本当に、ここにいるのか?」
「わかんないけど・・・・・・いなかったら全部回るよ」
 全部、とは学と凛檎のデートスポットのことだ。恐らくそれらの何処かで、弥生はデートを発見している。
 思えば、学と弥生のデートを目撃した事が、浮気の発覚理由だ。つまり、浮気に関して学は碌な配慮をしていなかった。自分たちも知らないところで見られていた可能性は大いにある。
 中でもここは、恐らく、弥生のデートにも使い回されている。
 根拠は薄い。単純に彼女の好きな食べ物が、麻婆豆腐だというだけだ。
 果たして、中に入ると、そこには三峰弥生がいた。何でもないような顔で、平然と麻婆豆腐を食べている。
 凛檎は近づいてきた店員に連れが先に来てます、と言って店内を闊歩する。
 そして弥生の目の前に座った時、彼女は全く表情を変えず、平然と凛檎に話しかけた。
「流石に、今日は少し待ったかな」
「ごめんなさい。ちょっとしつこい汚れを落としてて」
 凛檎は店員を呼ぶと酢豚定食を頼んだ。この店では、まだ食べたことのないものだ。
「人を殺しておいてよく食べられるね」
 弥生のその言葉に、一瞬、沸騰したように怒りが湧き上がる。そして、それを冷ますために、お冷やを一気飲みした。
 弥生にとっては、それが現実だ。弥生こそが知らず知らずのうちに浮気をしたヒロインBで、それに耐えられず学を殺したヒロインAが、凛檎。
 しかし、真実は違う。
「・・・・・・葉山は救急車で運ばれた。まだ死んだとは限らないよ」
 これは不確定な情報だ。ただ、清吾の車に乗っている最中、サイレンを鳴らして通り過ぎる救急車を見ただけ。
「そう」
 やはり平然。悠然と、堂々と、麻婆豆腐を口に運ぶ。入学式の日、不安に押しつぶされそうだった凛檎を救ったその所作に、今度は押しつぶされそうになっていた。
 だからこそ、その余裕さえ剥がすことが出来れば、凛檎にもまだ勝ちの目はある。
「あなたの計画はいつから始まっていたの?」
「計画? 何のこと?」
「私の私服ローテーションを利用して、現行犯での殺罪をなすり付ける計画」
 服にお金をかけたくない凛檎は、一週間で私服をローテーションしている。曜日ごとに決めているため、恐らく、事前に水曜日に会うと決まった時点で、計画は始まっていた。
「弥生さんは、私が当日何を着てくるかを知っていた。その服を弥生さんも着てきたんだ。顔は半透明の雨ガッパで十分に誤魔化せる。そうやって、あなたは私になりすました」
 思えば日程や場所もきちんと調整されていた。雨の日であることは勿論、交番の近くかつ、警察官に追われても逃げやすい道をきちんと確保していた。
「私になった弥生さんは、そのまま学を包丁で刺した。返り血も雨ガッパで受ければ、本当の私に返り血がない事の理由にもなる」
 そしてそれを追われるには邪魔になると、投げ捨てる理由もきちんとある。
「そして私が来る地下鉄駅の方へ走った。お腹に包丁が刺さって崩れ落ちる学を私が見ると同時、二人の位置が入れ替わる。追ってきた警官は、服を見てまず私を捕えようとする。あなたはその隙に逃げた」
「だとしたら、すごい偶然ね。あなたがくるタイミングでちょうど入れ替わったなんて」
「偶然じゃない。弥生さんなら知ってるよね。私が集合時間ちょうどにいつも来てるの」
「そうだったかしら」
 この程度は、まだ弥生の想定内。なにせほとんど凛檎の目の前で行われたことだ。彼女の上を飛び越えるのは、ここから──
「そうだったよ。でもそんなのはどうでもいい。重要なのは決定的な証拠だ。そしてそれは、現場に、学のお腹に突き刺さったままになっている」
「包丁に指紋なんて残ってないわ。ちょうどすごい雨だったわけだし」
「じゃあ雨ガッパの方は?」
「雨ガッパ?」
 初めて、弥生が怪訝な表情を見せた。
「たとえ指紋が残っていなくても、髪の毛や皮脂、汗、色々と人間の証拠品はある。それが全部付いて無いって言える?」
 きっと言えない。弥生はそんなこと気づいていて、だから現行犯に拘ったのだ。現行犯逮捕であれば、そこまで高度な証拠探しはしないかもしれない。いや、そもそも最終的に誰が逮捕されたかはきっとどうでもいい。
「だとしても、でしょう? 犯罪者の娘が現行犯逮捕されれば、たとえ冤罪でも禍根は残る──ネットとかにね。一番悪いのは死んだ学で、あなたへの復讐は八つ当たりみたいなものだったから、ちょっと小突くくらいのトラウマで、それで良かったの」
 何がちょっと小突くだ、と凛檎は思う。凛檎にとって、これは遊園地のホラーアトラクションじゃ済まない。凛檎は母を奪った父が嫌いだが、父を奪った警察も嫌いだった。嫌い相手に追い回され、身体を泥だらけにしながら逃げたのだ。これがトラウマにならない訳がない。
「でも、あなたも十分酷いと思うの、私。大学一年目の友達に彼氏寝取られた気分が分かる?」
「・・・・・・」
 それに謝罪すら出来ずに押し黙ってしまう。知らなかった、なんて言った瞬間には、きっと麻婆豆腐を掬うスプーンで肌が抉られてしまうだろう。そのくらい、浮気はタブーだ。今まで、凛檎が上からモノを言えたのは、彼女がそれ以上のタブーを犯したからに過ぎない。
 その時、先ほど頼んでいた酢豚が届く。そう言えばこんなモノ頼んでいたなと、今更気づいた。
「ふふっ、それじゃあ、あなたがそれを食べ終わったら、自首するから」
「え?」
「何その声。そりゃあ、するでしょう? あなたのその顔見たら、十分トラウマになったってことは分かったし。それに今のうち自首をすれば、減刑の可能性がある。行かない理由がないわ。そもそも私は、自分の逮捕、不逮捕に興味はない。どっちでも良かったの。どうせ捕まるなら、短い方がいいでしょ?」
 打算的な弥生は勝ち誇ったように呟く。その口ぶりこそが殺人者の口である。
 それを聞いて凛檎は思う。彼女はどうして学と付き合っていたのだろうか。初めて会ったあの時から、彼女の学への態度は他の人へのそれとは違った。もしかしたら、そこには打算的な愛があったのかも知れない。あるいは逆に、最も打算的でない、いわゆる一目惚れだったのかもしれない。
 答えは分からない。聞こうと思わない。どれが真実でも、きっと嫌な気分になる。関わっていた三人のうち、一人が死亡、一人が逮捕、そして凛檎だけが残る。それは何というか、とてもデジャブで。
 
 そう言えばと思い出すのは両親のことだ。彼らの馴れ初めは、お互いに恋人がいないとダサいと思っていたから、らしい。なんて打算的!
 恋なんてのは実はそのくらい軽くていいのかも知れないと、凛檎は強く思った。

 五

 その時、凛檎はドッペルゲンガーの話を思い出した。
 ドッペルゲンガーとは自分自身の姿を成した分身である。俗説では、もし会ってしまったら死ぬらしい。
 でも死んだのは凛檎じゃない。こちらに向かう凛檎の分身の奥で、腹に包丁が深く突き刺さった学が見える。死んだのは、葉山学だった。
 ドッペルゲンガーはやがて変身を解いて──雨ガッパを脱ぎ捨てて──中からは三峰弥生が出てきた。
 あぁ、こうなったか。
 学は弥生に殺された。
 それを頭の中で冷静に受け止める。それを想定しなかった訳じゃない。なにせ、こうならないために三人で会おうしていた。相互監視があれば殺人は起きないと思っていた。
 結果はこれだ。やっぱり、大学一年生なんてまだまだ子供だ。思い通りに出来ることが少なすぎる!

 その時、凛檎の前に制服を着た警官が立ち塞がる。
 あの日の光景を思い出す。
 実家に──祖父母ではなく、父母の家に──何人もの警察官がやってきた時のこと。母が死んで暫くの父と二人の生活はそれなりに楽しくて、それを奪われたあのどうしようもなさを覚えている。
 父は家の中を逃げ回っていた。凛檎はは女性警官に連れられて一部始終しか見れていないが、あの父親の無様な逃げ方がいつまでも網膜に焼き付いている。
 あの遺伝子が自分にもある。もう無理なのに、それでも諦めない、馬鹿馬鹿しい精神が宿っている。

 そして凛檎もまた逃げ出した。
 遺伝子に逆らえず、けれどその行為は確かに遺伝子から逃げるつもりで──
 

5/31/2023, 2:55:40 AM