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[お題:天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、]
[タイトル:人よ、夏風を知れ!]

 そのゴールデンレトリバーが自分の名前をピーナッツ・ガルシアであると察したのは、そのアパートに着いて二週間ほど経ってからのことである。

 アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島先端の西方に海を望むアパートの一室。ピーナッツの特等席はそこにある。
 L字に折れ曲がった牛革のソファーだ。その長い方に寝そべって、風と陽を浴びるのが彼の趣味である。
 趣味というだけあって、彼はそれを最大限に楽しめる条件を知っている。その時期になるとソファーに座る主人を吠えて動かし、窓を開けさせるのだ。
 その時期とは夏の昼間。およそ十一時から十六時。
 サンフランシスコは夏季乾燥であり、冬は雨季になる。この点で冬には陽が入らず、雨ゆえに主人も窓を開けてくれないので、ピーナッツにとって最適とは言えなかった。もし、冬に風と陽があれば、それは片付けの最中に百ドル紙幣を見つけたようなものであり、彼は尻尾を振り回して主人に吠えるだろう。
 今すぐ窓を開けて!
 果たして、そこまで強い意思があったかどうか。ともかく主人がL字の短い方に動くと、ピーナッツは口角を上げてソファーに飛び乗る。
 ところで、昼間だというのにもワケがある。ここサンフランシスコは、俗に霧の街とも呼ばれる。特に夏の朝夕には濃い霧に包まれ、とても陽は望めない。だから、昼間。昼間には霧が出ない。
 こうして、彼の穏やかで、戦争を知らない時間が完成する。
 夏の昼間。
 この瞬間だけは世界が平和になるのだ。
 けれど平和を手に入れるには時に戦争が必要になる。ことピーナッツにおいてもそれは変わらない。
 ところで夏とか冬とか言っていることから分かるように、彼がこの知見を得たのはアパートに来て一年ほど経ってのことである。
 迎えられた当時、そこからほんの二週間程度の時にはまだ、主人のシャーロット・ガルシアが彼のために窓を開ける事はなかった。
 
 
 生後三ヶ月のゴールデンレトリバーにとって、彼に餌をやるシャーロットは動く給餌機である。
 そうした思いを抱くのも当然のことで、シャーロットはまだ子犬を迎えたばかりだというのに、あまり構ってあげられていなかった。
 ティッシュをぶちまけ、トイレを覚えず、餌をせがむ彼に対して、たった二週間で心が折れた──なんてことは決してない。シャーロットは大の犬好きであり、時に犬猫の保護活動家に多額の寄付を行うほどである。
 なので、理由はもっと切実なものである。ただひたすらに、仕事が重なっていたのだ。
 彼女が勤めるのは、サンフランシスコを含む地域一帯のシリコンバレーに相応しい大企業だ。肩に乗る責任も重く、グローバル企業ゆえの数多の海外拠点へ出向くことも少なくない。
 そんな彼女が、迎えたばかりの子犬を放っておくことに耐えられるはずもない。そこで彼女は、ゴールデンレトリバーが自身の名前や主人が誰であるかを覚えるよりも先に、ペットシッターを雇ってしまったのだ。
 そのお陰でゴールデンレトリバーが自分をピーナッツと知った時には、主人の名前がリリアン・ミラーであると勘違いしていた。リリアン・ミラーとは、シャーロットの雇ったペットシッターの名だ。

 朝九時。仕事に出かけるシャーロットと入れ替わる形で、リリアンは家にやってくる。
 リリアンの仕事は、ピーナッツのお世話としつけだ。適切な時間にフードを与え、イタズラをした時にはノーと教え、トイレの場所を工夫を凝らして教える。子犬のお世話を長年続けてきたリリアンにとって、ピーナッツはさほど手のかかる子犬ではなかった。時折りイタズラをするとは言え、ピーナッツはこの時から既におとなしかったのだ。
 窓際に座り、陽を浴びて海を見る。
 リリアンがそれに気づいて窓を開けると、入り込んだ涼やかな風に煽られて黄金の毛が揺れた。
 ピーナッツは穏やかに目を細める。まだ生後三ヶ月のこの子犬が、しかしリリアンには老人に見えていた。それほどピーナッツは、平穏を愛していた。
 けれどリリアンの仕事はピーナッツのお世話である。彼女はリードを持ってピーナッツに言う。
「そろそろ散歩に行きましょう!」

 一人と一匹が向かったのはクリッシー・フィールドというサンフランシスコ湾に面する公園だ。霧さえ無ければゴールデン・ゲート・ブリッジも望めるここは、犬の散歩コースとして人気である。リードも外して主人とはしゃぐ元気な犬を見ない日はない。
 そのうちの一匹が、ピーナッツに話しかける。体の小さな小型犬だ。
「やい、やい。この紐付きめ」
 その誹りのどこに腹を立てるだけの要素があったのか。ピーナッツ自身にも分からないまま、しかし彼はその子犬に噛みつこうとしてリリアンに止められた。リードを引っ張って静止させられている。
 結局、リードを外してはしゃぐことは終ぞなかった。あくまでシッターとしてペットを預かるリリアンにリードを外せるだけの度胸は無く、運動としてはリード付きで公園内を歩くだけで十分だったからだ。ゴールデンレトリバーは近年、生活習慣病が増加傾向にある。そんな知識があったからこそ、子犬として遊ぶことよりも、散歩による運動不足解消を優先していたのだ。
 そしてピーナッツもまたそれ以降、逆らう事はしなかった。この時のピーナッツにとって、主人はリリアンである。主人に従い、他の子犬を尻目に歩いていれば、それだけ褒められた。わしゃわしゃと撫でられ、オヤツのジャーキーを貰うと、それが主人の愛情表現だと気づいて嬉しくなった。
 その実、リリアンは主人ではないし、オヤツのジャーキーは仕事上の義務的なものである。

 そんなある日、シャーロットも毎日が仕事というワケでは無いので、休日である今日こそはピーナッツと共に過ごそうとしていた。
 既にしつけはあらかた終了している。ピーナッツがティッシュをぶち撒けるのは偶にのことになったし、トイレの場所は完璧に覚えた。
 それだけ、リリアンと共に過ごしていた。シャーロットがソファーで寝ているピーナッツに抱きつくと、ピーナッツは少しばかり体をくねらせて、何とか脱出しようとする。
 もちろん、全く嫌だというわけではない。それなりに顔は見たし、匂いも覚えた。ただピーナッツにとって、従ったり喜ばせたりといった感情を覚える対象では無かった。こちらへ興味を持った子供に自らの毛を触らせるように、主人のはずのシャーロットに毛を触らせた。それ以上のスキンシップを許可してはいない。

 こんな少し距離のある関係がピーナッツが迎えられて八ヶ月ほど経ってのこと。そんな微妙な状況が一変する事態が起こる。新型コロナウイルスの流行である。


 三月頃からリリアンが家に来ることは殆ど無くなった。それと入れ替わるように、シャーロットが家で過ごすようになったからだ。
 三月といえば、新型コロナウイルスの初期である。世界の動向に敏感なシリコンバレーに勤め、かつテレワーク自体は既に導入されていたことから、シャーロットは家で仕事をするようになった。
 シャーロットは、今までテレワークをしていなかったことを後悔した。愛犬と過ごす日々が、こんなにも素敵なことだったなんて!
 けれどピーナッツの内心は穏やかではない。主人であるリリアンと離れ離れにされ、ただの知り合いであるシャーロットと過ごさなくてはならないからだ。
 サンフランシスコは三月になると、雨が徐々に少なくなってくる。
 久々の晴れの日の昼頃。ピーナッツが趣味の日向ぼっこに興じようとソファーに近づくと、そこにはノートパソコンと向かい合うシャーロットがいた。L字の長い方の真ん中に座り、コーヒーを飲みながら優雅に仕事をしている。
 ピーナッツが彼女を邪魔だと感じるには、それだけで十分だった。
「バフっ! バフっ!」
「うん? どうしたの、ピーナッツ?」
 シャーロットはピーナッツの要求を捉えあぐねている。そのうち彼女の出した結論は、散歩に行きたのだろう、と言うことだった。
「今日、天気良いし! ピーナッツも外行きたいよね?」
そうではない。そうではないのだけれど、その実散歩も嫌いではない。ピーナッツにとっては、第三希望だ。第二希望すら叶えられないまま、ピーナッツは散歩に連れられた。

 スポーツウェアに、サンバイザー。ピーナッツを迎えると同時に買ったこれらも、実際に使われるのはこれが三回目である。
 彼らが目指すのは、やはりクリッシー・フィールドだ。
「はっ、はっ、はっ」
 浅く息を吐きながら、公園内を疾駆する。シャーロットは自身も運動するつもりで、駆け足で走っていた。もちろん、そのシャーロットに連れられるピーナッツも同様だ。
 無論、ピーナッツにとってこれが苦であるなんて事はない。ただ、リリアンとの差に困惑していた。
 リリアンの場合は、本当に歩くだけだった。ただ歩いて、暖かな陽射しと、海から香る潮風を受けるのだ。その穏やかさが、ピーナッツの知る散歩だった。
「やい。また来たのか。紐付き」
 二十分ほど走り、一旦休憩を取るために立ち止まっている最中、ピーナッツはそう話かけられた。
 あの時の小型犬だ。
 けれど、ピーナッツは彼の元に向かおうとはしなかった。どうせ、リードで止められる。
「やあ、初めまして。可愛いわんちゃんですね」
 その小型犬の後ろから、一人の男が寄ってきてそう言った。
「ありがとう。そちらも素敵ね」
 シャーロットが言っているのは、そこの小型犬のことだ。男は小型犬の飼い主だった。
「ありがとう。ここには良く来るのかい? いやなに、リードを付けているのが気になってね。ここはリードを外しても大丈夫な場所なんだよ。うちの子はリードが嫌いだから、良くここに来るんだ」
「あら、そうなの? じゃあピーナッツも外そうかしら」
 そうして、リードは外された。
 その呆気なさに、最初のうちは動けなかった。首の重みが、確かに少しだけ消えている。
「あら、遊んできていいのに」
 そしてシャーロットはピーナッツの背中を少し押した。そして二歩、三歩と歩く。合わせて、小型犬が後退った。
 確かに、リリアンはシャーロットと違う。リリアンといた方が穏やかに過ごせる。
 けれど──
「それいけ!」
 それいけ! 全速力で逃げ出す小型犬をピーナッツも全力で追いかけた。
「ちょっと! 怪我させちゃダメよ!」
「ははっ、大丈夫ですよ。戯れてるだけです」
 主人たちは見守るばかりだ。ピーナッツもきちんと分かっている。怪我をさせるつもりはない。ただ、繋がっている相手にしか文句を言えない臆病者を、驚かせてやるだけだ。

 そのうちピーナッツは疲れ切って座り込んだ。
 息を切らして舌を出す。漏れる息が芝を揺らしている。
 シャーロットも近づいて隣に座った。
「気持ちいいわね」
 そう言って彼女が眺めるのは海岸線とゴールデン・ゲート・ブリッジだ。湾から入る風は、寒流の影響で冷ややかで、それは火照った身体にはちょうど良かった。
 シャーロットはピーナッツを優しく撫でる。その手つきから伝わるこの感情が、愛でなければなんだろうか。
 激しさも、ジャーキーもないまま。安心感と満足感に満たされる。
 ああ、そうか。
 ピーナッツはようやく理解した。シャーロットが主人だったのだ。
「風が好きなのね?」
 シャーロットがピーナッツを見て言う。
「バフっ」
 それだけ答える。意味も分からないまま、しかし吠えておくのが一番良い気がした。


 そのうち、シャーロットはソファーの長い方を開け渡すようになった。その位置が、窓を開けた時に一番風を感じられる場所だった。
「やっぱり、飼い主に似るって本当なのね。私も風を感じたくて、この部屋を借りて、ソファーを置いたもの」
 夏になって、いよいよコロナウイルスによる外出自粛が本格的に実施され始めた頃。サンフランシスコの夏は雨が無く、涼味満点の風が吹く。
 一人と一匹は窓際で命を休ませる。心音が凪いでいる気がして、それじゃあダメだと立ち上がった。
「あら、どうしたのピーナッツ」
「バフっ」
 そしてシャーロットに擦り寄ると、その腕と太ももの間に入って横たわる。
 シャーロットはそんな様子を見て、穏やかな表情を作り、優しく撫でた。
「大丈夫よ。コロナウイルスもきっと、いつか収まるから」
 さて、ピーナッツはコロナウイルスが何かは知らない。ただ憎々しげに漏らすその単語を、主人が嫌っているからという理由で嫌っていた。
「バフっ」
 ピーナッツの第一希望は、主人と共にあることだ。風と陽を浴びて心を洗うのは、ただの趣味でしかない。
 だから、本当は夏でも冬でもいい。雨でも晴れでも霧でもいい。
 ピーナッツがソファーに乗りたい理由は、そこにシャーロットがいるからだ。
 シャーロットの隣こそが、ピーナッツの特等席だ。

6/1/2023, 7:43:00 AM