怖いとか、不安とか、嫌だとか、そういう感覚すら全部、わからなくなるんです。自分は確かにここにいるはずなのに、ここにいる自分をもう一人の自分が外側から見ているような、行動しなきゃいけないのに、頑張らなきゃいけないのに、どんなに俯瞰した自分が命令しても、動いて欲しいはずの自分は動かなくて、それでは駄目なのに、動けないんです。それが堪らなく苦しいのに、立ち向かえないんです。・・・・・・僕は、勇気を出せないんです。
私の目の前で椅子に座る青年は、長々とそう吐き出したあと、いつしか俯いたまま涙を流していた。
私はそんな彼を見つめながら、彼の内側から漏れ出るような嗚咽を、ただ黙って聞いていた。
泣いたからといって、彼の抱えた生きづらさが解決されるわけではないが、それでも。
それでも今だけは、重くのしかかるような彼の憂いが、少しの間だけでも軽くなればいいと、そう願う。
人は誰しも逃れられない呪縛を背負う。それは仕方のないことだ。それが、人間というものだ。
僕には願うことしかできないけれど。
呪縛は解かれるためにあるのだと、そう信じて、僕は彼と向き合いたい。
【逃れられない呪縛】
私の足元に一本の線が引かれている。線はどこまでも続いていて左右どちらもその果ては見えない。
私は線をじっと見つめながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
あと一歩。たった一歩、前に踏み出すだけでいい。
「行ってしまうの?」
すぐ後ろから呼び掛けられる声。どきりと鼓動が鳴った。けれど、私は振り返らない。
「うん、行くよ。私はこの先に進んでいくよ」
「この先に何が待つかも分からないのに?」
不安と心配が入り混じったような声音だ。
後ろに立つ彼女は私のことをとても案じてくれている。
当然だ。
だって後ろに立つ彼女は、私自身なのだから。
「・・・・・・分からないよ。怖いよ。それでも私は行くよ」
後ろに立つ彼女が、ニコリと控えめに笑った気がした。
「そう。置いていかれるのは寂しいけれど、あなたのことを応援してるわ」
私は後ろを振り返った。私が後ろを振り返ったことを意外に思ったのか、戸惑う彼女へそっと片手を差し出す。
「さようなら、昨日までの私。そして、初めまして、これからの私」
私が言うと彼女の顔がみるみる安堵する。そうして彼女は私の手を取った。彼女の姿がぱっと消え、私の中に染み入るように溶け込んだのがわかる。
「一緒に行こう。明日へ」
私は再び前を見据えて勢いよく片足を上げた。線の向こう側へ、まだ見ぬ未来へ、私は行く。ここまで歩いてきた自分自身を抱き締めながら。
【昨日へのさよなら、明日との出会い】
広大な湖の水を、小さなスプーン一杯ほど掬う。それを特別な機械に入れてセットし、ボタンを押す。すると、何分後かにその小さな量の水が、見た目でもわかるほどに澄み切った透明な水となって出てくる。
僕はその結果に確信を持って頷き、再びスプーン一杯ほどの水を湖から掬い上げる。
何回も何回も。それこそ百回でも千回でも同じ作業を繰り返す。
そんなことは無理だと。できるわけないと。
他の人から何度も言われたが、それでもやめない。やめる理由にはならない。
ここにある湖がこんなにも濁ってしまったのは、僕たち人間のせいだ。
自らの利権を主張して、相手と話し合いをすることも放棄して、安易に銃を取り、傲慢にも引き金を引いた。そのせいでたくさんの死体がこの湖にも捨てられた。
昔はとても綺麗な水面が漂い、美しい風景の中にあったはずの場所なのに。
僕が苦心して開発したこの濾過装置は、一度で全ての不純物を取り除ける優れものだけれど、一回に濾過できる水の量はごく少量だ。
だから、こうやって何回も繰り返さなければならない。途方もないことであることはわかっている。
けれど、やらなければいけない。
そうしなければこの場所は、いつまでたっても死に絶えたままだ。
そうして僕は繰り返す。この地道な作業を。
かれこれ千回近くは軽く越えたかもしれない。まだ終わりは見えない。
だけど、やめない。
いつかの透明な澄んだ水面が。
あの日と同じ光景が。
この手に取り戻せるその日まで。
【透明な水】
「僕みたいな奴があなたの隣にいてもいいんでしょうか?」
「君は・・・・・・、私の隣に居たくないの?」
「いえ! そんなことあるわけないじゃないですか!」
「じゃあ、私のこと好きなんだね」
「はい・・・・・・。好きです」
「私もあなたが好き。よくさ、好きになった人が理想のタイプって言うけど、私ね、あれって少し違うんじゃないかと思うの」
どういう意味だろう。
「だって好きな人の側にいるためなら、自然とその人の理想の人になろうって努力するじゃない?」
「そうかも・・・・・・、しれませんね」
「うん。だからあなたは今、その理想とのギャップに自信をなくしてるのかもしれないけど、そんなことは気にしなくてもいいんだよ。だって私は──、頑張ってるあなたが大好きなんだもの」
私にとっての理想のあなたは、いまこの瞬間の君だよ。そんなことを満面の笑顔で言われたら、悩んでいたことが吹っ飛んでしまった。
【理想のあなた】
泣かないで、と。
そう言うべきなのだろうか。
けれど、どんな言葉を掛けたとしても、いまは虚ろな目をした彼女の耳を、素通りしていくだけだろう。だって彼女は突然、何の心の準備もなく、大好きな家族を全員亡くしてしまったのだから。
その喪失感と悲しみは、僕なんかが推し量れるものではない。確かに今の僕にも家族と呼べるものはいないけれど、家族とのあたたかな想い出がある彼女と違って、僕の場合はこの生きてきた人生のなかで家族という存在がいたことすらない。
だからそれを失う悲しみなど、最初から想像することもできやしなかった。
だから僕は言葉を掛ける代わりに、家族が眠る棺のひとつに縋り付くように座り込む、彼女の背後にそっと近づき、その震える細い背中をポンッと柔らかに叩く。
彼女はゆっくりとこちらを振り返り、触れる相手が僕だと気付いたら、泣き濡れた視線を再び戻して俯いた。苦しげに漏れる嗚咽を、僕はただ黙って聞いている。
これは彼女には言えないことだけれど、残念ながら僕の胸に悲しみは去来していない。彼女の母親と妹さんには、何度か顔を合わせて言葉を交わしたことがあったはずなのだけれど、生まれた時からすでに感情というものが他の人より欠落している僕は、どうしても彼らを思い浮かべて悼むことができなかった。
こんな僕が彼女の隣にいていいものかとも考えるが、こんな僕しか今は彼女の隣に寄り添ってあげられる人間がいなかった。
彼女は僕と違って感情も豊かで、人を思い遣れる心も持った素晴らしい人なのに、人よりも少しその感情を表現することが苦手で、内気な性格でもあったから、彼女にとっての学校の友達は僕ひとりだけだ。彼女の親戚らしい人達は葬儀に参列しているが、彼女とは二言三言話しただけで、すぐにどこかへと行ってしまった。
別に文句があるわけではないし、誰かにこの場所を代わってもらいたいと思っているわけでもない。ただ少し戸惑ってはいる。僕は物理的に彼女に寄り添うことはできても、きっとその心までもを包んであげることはできないのだから。
そんなことをぐるぐる思考していると、行き場をなくしていた僕の手に、いつの間にか彼女の手が絡まった。彼女は僕を振り返らずに未だ俯いたままだったけれど、僕の手の指先をきゅっと握り込む。
僕はただ無言でそれを受け入れる。
もしも彼女が突然いなくなったら、僕はこんなふうに泣けるかなと、泣いてあげられるかなと、そんな一抹の不安を抱えながら。
【突然の別れ】