私は最後のページを読み終えると、静かに本を閉じた。集中していた気持ちを切り替えるように深く息をつき、座っていたソファーの背もたれから僅かに背中を浮かす。
「今回のはどうだった?」
後ろから聞こえてきた声に、私は振り返らずに答えた。
「相も変わらず素敵で意外で幸福な、最高の物語だったわ」
私の感想に背後に立つ彼が、ふふっと控えめな笑いを漏らす。
「君のコメントも相も変わらずそればかりだなぁ」
「あら、最高でない物語がこの世にあると思って? しかもそれが恋を含めた物語ならば、尚更最高以外に思い浮かぶ賛辞がなくってよ」
私の目の前にあるテーブルに、彼が紅茶を淹れたティーカップをソーサーごとそっと置いてくれる。彼は空いていた私の隣に何も言わずに腰を掛けると、自分用にも淹れてあったらしい紅茶のカップを口元まで運んでいた。
「それで? 君はいつになったら自分の物語を始めるんだい?」
彼が口をつけたカップをテーブルへと置く。私は湯気が香り立つカップを持ち上げ一口飲んだあと、こちらを楽しそうに見遣る彼を横目で窺った。
「どういう意味かしら?」
「君の物語をさらに最高にするための配役を僕に務めさせて貰えないかなっていう、あわよくばのお願いも含まれてる」
私は彼から視線を逸らし、芳しい紅茶をもう一度味わう。ソファーの肘掛けに頬杖をつき、ニコニコとした笑みを崩さぬまま私の反応を観察する彼を、どうにかこのまま黙殺できないかしらと考えながら、少し跳ねた鼓動の音を必死にひた隠した。
【恋物語】
正確な時刻までは分からないけれど、いまはたぶんもう真夜中。辺りは自分の足音以外、物音ひとつしない。しんっと静まり返った夜の住宅街をひとり気ままにただ歩く。
半袖のシャツに薄手のカーディガンを羽織っただけの服装に、ときおり通る夜風が当たるとひんやりとする。でも寒いほどの冷たさではなくて、どちらかというと浮き足立つ心を幾分か冷ましてくれる涼しさが心地良かった。
私はつい緩んでしまいそうになる顔を何とか抑える。自分だけしかいないこの空間が、想像するだけで楽しくて、嬉しくて仕方がない。しかも今夜はちょうどよく満月だ。闇色の空を仰げば夜道を照らす丸い黄金色が、私の世界に美しく映える。
『小さい頃から夢見てたの』
まさかこんな形で夢が実現するなんて。
『この街にいる住人が、私以外みんな消えちゃえばいいのに、って』
そうすれば私は自由になれる、そう思い願い続けてきた。
「夢って信じ続ければ叶うものなのね・・・・・・」
恍惚とした私の呟きは、この深い闇夜の中にだけ響き、その後は溶け込むようにして消えていった。
【真夜中】
『愛があれば何でもできると、貴方は思いますか?』
「答えはノーです」
私は強い意志を込めて言い放つ。
目の前に横一列にずらりと並んで座る面接官は、みな同じような無表情でじっと私を見つめていた。そのうちの一人が再び私に問い掛ける。
『何故そう思うのでしょう?』
「愛は移ろいやすく、無限ではないからです」
椅子に腰掛けていた私は、背筋をきちんと伸ばした。顔を上げて真っ直ぐに正面を見据える。
『なるほど。では貴方は永遠の愛というものを信じますか?』
「それは、分かりません」
『愛は無限ではないと、先ほど仰ったのに?』
「だって永遠の愛とは、誰かの愛と誰かの愛がちょうど重なり合ったことで生まれる奇跡ですから。私はただ何事もひとりきりで貫くことは困難ではないかと思ったのです。誰かに芽生えた愛とは、向けた相手が自分に何かを齎してくれるから続くのではないですか? 齎されることにより有限な愛が補われ、互いに補い合い続けられたら、それが永遠の愛として何かを成し遂げる力になると、私はそう思うのです」
私が語る説明に、やはり目の前の面接官達はぴくりとも表情を動かさなかった。
【愛があれば何でもできる?】
振り返れば後悔ばかりだよ。
死んでもう一度最初からやり直せるって言うなら、是非ともお願いしたいね。
──あ、でも。
後悔先に立たずって言うんだっけ・・・・・・。
やっぱ死ぬのだけはやめておこうかな。
これっばっかりは、後に後悔すらできなくなってしまうからね。
【後悔】
人生は決断することばかりだ。
固い決意を貫くことはとても意義あるものだと僕も思うけれど。
決断することって、けっこう疲れるものじゃないだろうか。
だから、ほんの些細な一日でいいと思う。
たまには何も考えず、吹く風に進行方向を任せてみるのも、案外悪くない人生に辿り着けるんじゃないか。
もしかしたらそれこそが、自分の見たかった景色かもしれない。
だから、ほら。
今だけは肩の力を抜いて、目を閉じて。
次に瞼を開く時、そこにはどんな世界が広がっているだろう?
【風に身をまかせ】