ひとりきりの部屋の中
ふと頭に浮かんだ君の名を
そっと囁くようにして呼んでいた
あまりにも無意識に口から溢れたせいで
自分でもびっくりしてしまう
耳に残った余韻が
未だ優しく響くものだから
ああそうか
僕は君が好きだったんだと
ようやくゆっくりと自覚したんだ
【そっと】
「これをあなたに渡しておきましょう」
そう言って彼が差し出したものは、手のひらに収まるくらいの、小さな鍵だった。けれど不思議なことに、その鍵には一切の溝が掘られていない。ただの平べったく細い金属の板が、鍵の持ち手の部分から突き出しているだけだ。
「……これはどこの扉の鍵なんですか?」
これじゃあピッキングし放題。
防犯性もあったものじゃない。
目の前の彼はニコリと笑い、こちらを指さす。
「これはあなたの未来への鍵です」
「?」
首を傾げる僕に構わず彼は続ける。
「これから先、あなたの人生にはたくさんのことが起こるでしょう。この鍵に深く溝がつくような、様々なことが。それを良いこととするか悪いことと捉えるかはあなた次第ですが」
僕は黙って彼の話を聞いていた。
僕の手のひらにある鍵が、だんだんと熱を帯びていく気がする。
「さて、あなたの鍵はどんな形になるのでしょうね?」
僕は前方に立つ彼を見据えた。手のひらにのせてあった鍵をそっと握り込む。
「きっとこの世にふたつとない僕だけの鍵を形作ってみせますよ」
僕の答えに彼は満足そうに微笑んでみせる。
「その答えが出ているあなたなら、きっと大丈夫。どうかあなたらしく進んで下さい。いつかの未来の扉の向こうで、再び会えることを楽しみにしています」
そう穏やかに告げて、いつかの未来にいるはずの彼が消え去った。
【未来への鍵】
一面に広がったススキ畑
そよ風が吹くたび優しく揺れる
僕はたくさんのススキに囲まれた中で
キョロキョロと辺りを見渡す
しばらくするとススキたちの影から
君がぴょこんと顔を出す
ああ、良かった
やっと見付けた
さあ早く、うちに帰ろう
【ススキ】
最初はね、昔からの腐れ縁くらいにしか思ってなかったのよ。
家が近所でね。小さい頃から遊ぶのも学校へ行くのも一緒だった。
もう当たり前ってくらい一緒にいた。だからなかなか気付かなかったわ。本当はわたしにとって、あいつは大切で特別な人だったんだってこと。
あいつが就職で地元を離れることになってから、好きだって自覚した。さんざん泣いたわ。わたしってなんて馬鹿なんだろって、後悔した。
それで腹が決まったのかな。わたし、あいつのこと追い掛けて行っちゃったの。自分が就職した会社を一ヶ月で辞めてまでね。あいつすごく驚いてたわ。それでますます驚かせてやろうと思って告白してやったの。そしたらなんて言ったと思う?
俺が十五年も言えなかったことを、お前はあっさり言うんだなって。むかついたから叩いてやったわ。早く言いなさいよ。せめてこっちに来る前に告げなさいよねって。
私の人生に連なる、私の知らないもう一つの物語である、父と母の馴れ初め話。
まるで少女のように笑う母の隣で、私もクスクスとつい笑ってしまった。
【もう一つの物語】
「あなたからは嗅ぎ慣れた紅茶の香りがします」
執事がそう指摘すると、男は思い出したように説明を始めた。
「ああ、さっき紅茶をシャツにこぼしてしまってね。ほら、見てくれよ、この染みだ」
男はこれ見よがしに上着を捲る。彼の胸元辺りには確かに紅茶をこぼしたような染みの跡があった。
「いいえ、わたくしが嗅ぎ慣れたと申した紅茶はこの世にひとつとない一点ものです。市場に出回る紅茶の茶葉と少し製法が違いまして、香りが多少異なるのです」
男が馬鹿にしたように鼻を鳴らす。それでも執事は動じない。
「そんな微妙な香りの違いなんて、本当に嗅ぎわけられるのか? しかも違いが分かるのはお前だけなんだろ? それだけでこの染みが主人が飲んでいた紅茶であるという明確な証拠にはなり得ないだろう」
「確かにそうかもしれません。けれどあなたはいま仰いました。主人が飲んでいた紅茶であるという明確な証拠にはなり得ない、と。時には奥様が開くお茶会にもこの茶葉の紅茶はお出しします。あなたはどうしてこの紅茶が、主人が飲んでいたと断定したのです?」
執事の問いに男の顔が一気に青ざめた。
どうやらこの屋敷の主人が殺された事件は、そろそろ解決しそうだ、と、刑事は腕組みをしながら事態を見守った。
【紅茶の香り】