足音
最終下校時刻を知らせるチャイムの音がする。探し物をしていた僕は、ようやくその探し物が見つかった時のことだった。
「もうこんな時間!? 早く帰らないと……」
窓から外を見れば、夕日で赤く染まっていて、教室を赤く照らしていた。教室から廊下を覗くと、廊下の電気はついておらず、少し薄暗い。七不思議の人体模型でも動き出しそうな雰囲気に、恐怖心が芽生える。
早く家に帰ろう。そう思い、廊下に出て正門へと歩き出す。すると、後ろからひた……ひた……という裸足で廊下を歩いているような足音が聞こえる。
誰かが後ろを歩いているのだろうか、と思った僕は後ろを振り返ろうとした。しかし、それは叶わなかった。背後から感じる禍々しい空気に体が思わず固まった。振り向いてはいけない。本能的にそう思った。
(逃げないと……! )
僕は後ろにいる相手に気付いていないふりをして、前を向いてやつから逃げるように歩き出した。
僕の心の中には恐怖心で埋め尽くされていた。
歩いた。正門の前まで歩いてきた。気付いたら後ろからの足音は聞こえなくなっていた。バクバクと心音でいっぱいいっぱいになる。
荒くなっていた呼吸を深呼吸して落ち着かせる。
さっきまで後ろにいたのはいったい誰だったのだろうか。もしかしたら他にいた学校の生徒の足音だったのかもしれない。今になってそう思った僕は、つい後ろを振り返ってみてしまう。
しかし、後ろを振り返っても誰もいなかった。暗くなった夜を見上げ、早く帰らないと、と正面を向いた。
「つかまえた」
遠くの空へ
あの日の不思議な出来事を、今でも覚えている。提灯で照らされたあの道を、今でも林の中で探してみる。あの楽しげな祭囃子が、今でも遠くで聞こえる気がする。僕はあの日出会ったあの人を、心のどこかで探していた。
あの人に貰ったお面がどこにもなくて、あの時は白昼夢でも見たのだと思っていた。けれど、だんだんあの時のことを、本当にあった出来事なんだと考えるようになった。
そう考え始めた日から、僕はあの日のあの場所を探していた。あの時助けてくれた狐面の人にお礼を言うために。
何度目かも忘れた今日も、あの日の雑木林に来ていた。やっぱりあの日のように鳥居がある訳でもなく、手がかりは何も無かった。
「やっぱり何も無いか……」
何度来ても、あの日以来ここに鳥居はなく、僕の心は折れかけていた。
「いっそ、ここから叫んでみたら届いたりしないかな」
今まで何度も来てはいたが、直接叫ぶのは試したことがなかった。もしかしたら出てきてくれるかもしれないと、大きく息を吸って、僕は叫んだ。
「あの日は助けてくれて、ありがとうー! 」
いきなり大声を出したせいで、ゲホゲホと咳をする。何か返事はないかと耳を澄ませた。しかし、聞こえてくるのはせいぜいそよ風に揺らめく葉っぱの音ぐらいだった。
今日はもう諦めよう。そう思って、くるりと方向転換をして、帰ろうと足を進めると。
「うわぁ! 」
いきなり後ろから押されたかのように、強い風が吹いてきた。
ふと、あの日のことを思い出す。あの日もいきなりの強い風が何度か僕の背中を押した。
なんだか嬉しくなった僕は、もう一度林の方へと向き直り、大きく手を振った。
「狐面さんありがとう〜! 」
さっきのよりも優しい風が、フワリと林の中から吹いてきて、そのまま遠くの空へと飛んで行った。
こぼれたアイスクリーム
ジリジリと日の光が照り付け、焼けたアスファルトが反射する熱気に茹だる僕は、いつもの駄菓子屋に駆け込んだ。この身体に籠った熱をなんとかしたくて、バニラのアイスバーをすぐさま手に取った。このアイスバーには、あたりとはずれがあり、あたるともう一本貰える物だ。
僕は、駄菓子屋の前にあるベンチに腰掛ける。購入したそれの包みを取って、口に放り込めば、先程までの暑さも、少しはマシになったような気になった。
「はぁ〜、暑い。こんなにも暑いと干からびちゃいそうだ」
「全く、その通りだね」
「え!? 」
独り言のつもりで呟いた言葉に、返事が返ってきたことに、僕は驚いて隣を振り向く。隣には、僕と同じクラスの火野さんが座っていた。彼女の手にも、僕と同じバニラのアイスバーが握られていて、目的は僕と同じことが分かる。
火野さんはアイスの包みを取ってアイスバーに頬張る。火野さんの持つアイスバーは、この暑さのせいか既に溶け始めている。その溶けたアイスが、火野さんの腕を伝って、流れていく様子に思わず見つめてしまう。
「最近暑すぎて、アイスでも食べないとやっていけないよね」
「そ、そうだね」
アイスを食べ進めていくうちに、火野さんも溶けたアイスに気付いた様子で、垂れたアイスを舐めとるが、取り切れなかったアイスが、肘まで伝って今にも落ちそうだ。
「あ、あの。火野さんアイスが……」
「あ! アイスが! 」
アイスが垂れているよ。という僕の言葉を遮って、火野さんが僕にそう言うと同時に、太腿の上に冷たいものが落ちてきた。
火野さんを見ていたせいで気づかなかったが、僕のアイスも溶けてしまって、バーから落ちてしまったようだ。
慌てた火野さんは、食べていたアイスバーを口に押し込み、駄菓子屋のおばあちゃんに拭くものを貰いに行った。
残った僕は、零れ落ちたアイスを見て、なんだか虚しい気持ちになった。
僕の手に残ったバーにはあたりと書いてあった。
風を感じて
いつもの帰り道を歩いていた時だった。空が暗くなってきて、急いで帰らないと、そう考えながら見慣れた道を歩いていると、フワリと風を感じた。
風が吹いた方向を見ると、見覚えのない鳥居がそこに佇んでいた。年季が入った様子のそれは、まるで昔からずっとここにあったかと言わんばかりである。
「こんな所に鳥居なんてあったっけ? 」
不思議に思った僕は、急いで帰らなければいけないということを忘れ、その鳥居を見つめる。鳥居の奥を覗いて見ても林しかない。毎日通っている道のはずなのに、こんな鳥居見たことがなかった。
「わぁ! 」
不思議に思い、首を傾げていると、後ろから強い風がいきなり吹き、背中を風に押された僕は、前傾になりたたらを踏む。
なんとか転けずに済み、ホッと一息ついて顔を上げると、そこは先程見た林とは打って変わって開けた場所になっていた。縁日のように屋台が並び、提灯で飾り付けされているため、とても明るく照らされている。人もそこそこにいて、賑わっている。
どこからか楽しげな音楽が聞こえてきて、それに誘われるようにして、僕はその人混みへ飛び込んだ。
屋台は美味しそうな焼きそばやイカ焼き、かき氷に綿菓子といったご飯物の店から、お面屋や射的、ヨーヨー釣りなどがあり、僕の心を踊らせた。
家に帰ったら母さんが作った食事が待っているというのに、お腹を空かせた僕は、美味しそうな香りにつられて、屋台へと近づく。
あと少しというところでガシッと腕を掴まれる。僕の腕を掴んだ人の方を見れば、お面屋で買ったのであろう狐の面を着けた人だった。
「お前、迷い込んだのか」
「え、えっと」
「家に帰りたいのならここの飯は食うな。帰れなくなるぞ」
そう言われても、意味がわからないと僕は首を傾げる。僕はそれよりも、この空腹を何とかしたくて仕方がなかった。
「腹が減っているなら帰って家で食え。ちょっと待ってろ」
そう言って狐面は近くのお面屋まで僕を無理やり引きずっていくと、お面を1つ買って僕の顔に着けた。いきなりで驚いたが、気付いたらさっきまでの空腹が何事も無かったかのように鳴りを潜めた。
「あれ、さっきまでお腹空いてたのに」
「祭囃子を聞いていたせいだろう。人間がお面も着けずに歩いていればそうなる」
「ほら帰り道を教えてやるから大人しく帰りな」といって狐面は僕が初めに来た方向とは違う方へ歩いていく。僕は狐面を呼び止めて初めに来た方向を指差した。
「待って、僕は向こうから来たんだ。そっちじゃないよ」
「向こうに行ったって帰れやしないさ。帰るならこっちからだ」
そう言って狐面は僕を待つ素振りもなく歩いていってしまう。僕は狐面から離れないように急ぎ足でついて行く。
しばらくすればさっきまでの喧騒も小さくなった。明かりも届かないところで止まった狐面は、林の奥にある鳥居を指差した。
「あの鳥居を潜れば元いた場所まで帰れる。鳥居を潜る前に振り向くなよ。帰れなくなる」
「本当にあの鳥居を潜れば帰れるの? 」
「来た時だって鳥居を潜ってきただろ。それと一緒だ」
狐面は早く行けと僕を急かす。鳥居は辛うじて見えるが、途中に明かりはひとつもなく、林の中は真っ暗だ。何とか鳥居へ向かう決心をした僕は、狐面へと向き直る。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
「礼などいい。もう巻き込まれるなよ」
「うん」
その言葉を最後に、僕は鳥居までの暗い道へと足を進めた。林の中はとても暗くて、木々がざわめく音が怖さを助長する。途中で木の根っこにつまづいて、転けそうになるのを堪えて、鳥居まで歩いた。
とうとう鳥居の前についた。向こう側はやっぱり暗い林しかないけど、狐面の言ったことを信じて1歩鳥居を潜った。それと同時に後ろから強い風が吹き、僕の背中を押した。
気付けば僕はいつもの帰り道に立っていた。後ろを振り返れば、さっきまであった鳥居はなく、いつも通り林があるだけだった。着けていたお面がないことに気付き、辺りを見渡すが、どこにもお面はなかった。狐にでも化かされたのかと、家へと帰る道へ足を進めようとすると、フワリと風が頬を撫でた。
――遠くで祭囃子の音色が聞こえたような気がした。
心の羅針盤
心の羅針盤とは、自分を正しい場所へと導き、今自分が向いている方向を指し示す物。
心の羅針盤を見つめ直すことによって、人は自分自身を見失わずに生きていけるのだ。
心の羅針盤が狂ってしまうと、人は向かうべき先を見失ってしまう。そうなってしまった人は――
「何読んでんの? 」
「うわ! びっくりした」
放課後の図書室で、本を読んでいた僕の後ろから、いきなり現れた男に僕は驚く。僕の記憶が正しければ、同じクラスの人だったと思うが、話したことはないはずだ。
彼は僕が座っている席の隣の席に腰を下ろした。
「驚かせたならごめんね。俺はアキラ、よろしく。君は? 」
「え、ああ。僕はミナト。よろしく」
「ところで何読んでたの? 」
自己紹介が終わったところで、アキラが僕の持っている本を指さしてそう聞いてくる。僕は表紙が見えるようにアキラに差し出した。
「『自分自身を見失わないための本』ってやつ」
「へぇー。面白い? 」
「うーん……そこそこかな。好奇心で読んでみたけど、面白いってよりかは、そんな考え方があるんだなぁって思う」
面白さを求めるなら、僕はこういった本よりも、推理小説の方が好きだ。
アキラは、受け取った本の表紙をじっと見て、くるりとひっくり返し、裏表紙も流し読みする。そして本を開いて目次を読んでから、僕が本を閉じる前に挟んだ栞があるページを開いた。
「心の羅針盤ねぇ……うーん、難しい! 」
「俺にはダメだぁ……」といって、栞を元のページに挟み、僕に返してきて、そのまま机に項垂れる。
そして、アキラは項垂れたまま、顔だけをこちらに向けて言葉を続けた。
「ねぇ、ミナトくんはさぁ、この心の羅針盤ってやつが狂うと人はどうなると思う? 」
「え? 」
「俺は何も出来なくなって、世界に置いてけぼりになっちゃうんじゃないかなって思う。ミナトくんは? 」
急な振りに驚く。心の羅針盤が狂うとどうなるか。さっきまで、読んでいた本の内容を思い出して考える。
「間違った方向へ進んで、迷子になってしまう……とか? 」
「うーん。それもいいね! 確かに、実際の羅針盤が狂っても迷子になっちゃいそうだもんね」
「そう? 僕もアキラくんの考え方いいと思う」
「ホント? ありがとー。嬉しいな、ミナトくんの言ってた“そういう考え方があるんだ”って気持ちも分かったし。自分以外の意見を聞くのも楽しいもんだね」
アキラはそういうと、うつ伏せになっていた身体を起こして伸びをする。
「ミナトくんってよく図書室に来るの? 」
「え? うん、放課後にはいつもいるよ」
「じゃあまた明日も来てもいい? ミナトくんと話してるの楽しかったから、もっと話したいんだ。今度はおすすめの本を教えてよ。」
「じゃあまた明日」そう言って、アキラは図書室から出ていった。嵐のような彼に、思わずクスッと笑ってしまう。
彼が去った図書室で、僕はお気に入りの推理小説が入った棚へと足を進める。何度も見た背表紙の文字を目でなぞりながら、心の羅針盤が指すであろう明日に思いを馳せた。