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心の羅針盤

 心の羅針盤とは、自分を正しい場所へと導き、今自分が向いている方向を指し示す物。
 心の羅針盤を見つめ直すことによって、人は自分自身を見失わずに生きていけるのだ。
 心の羅針盤が狂ってしまうと、人は向かうべき先を見失ってしまう。そうなってしまった人は――

「何読んでんの? 」
「うわ! びっくりした」

 放課後の図書室で、本を読んでいた僕の後ろから、いきなり現れた男に僕は驚く。僕の記憶が正しければ、同じクラスの人だったと思うが、話したことはないはずだ。
 彼は僕が座っている席の隣の席に腰を下ろした。

「驚かせたならごめんね。俺はアキラ、よろしく。君は? 」
「え、ああ。僕はミナト。よろしく」
「ところで何読んでたの? 」

 自己紹介が終わったところで、アキラが僕の持っている本を指さしてそう聞いてくる。僕は表紙が見えるようにアキラに差し出した。

「『自分自身を見失わないための本』ってやつ」
「へぇー。面白い? 」
「うーん……そこそこかな。好奇心で読んでみたけど、面白いってよりかは、そんな考え方があるんだなぁって思う」

 面白さを求めるなら、僕はこういった本よりも、推理小説の方が好きだ。
 アキラは、受け取った本の表紙をじっと見て、くるりとひっくり返し、裏表紙も流し読みする。そして本を開いて目次を読んでから、僕が本を閉じる前に挟んだ栞があるページを開いた。

「心の羅針盤ねぇ……うーん、難しい! 」

「俺にはダメだぁ……」といって、栞を元のページに挟み、僕に返してきて、そのまま机に項垂れる。
 そして、アキラは項垂れたまま、顔だけをこちらに向けて言葉を続けた。

「ねぇ、ミナトくんはさぁ、この心の羅針盤ってやつが狂うと人はどうなると思う? 」
「え? 」
「俺は何も出来なくなって、世界に置いてけぼりになっちゃうんじゃないかなって思う。ミナトくんは? 」

 急な振りに驚く。心の羅針盤が狂うとどうなるか。さっきまで、読んでいた本の内容を思い出して考える。

「間違った方向へ進んで、迷子になってしまう……とか? 」
「うーん。それもいいね! 確かに、実際の羅針盤が狂っても迷子になっちゃいそうだもんね」
「そう? 僕もアキラくんの考え方いいと思う」
「ホント? ありがとー。嬉しいな、ミナトくんの言ってた“そういう考え方があるんだ”って気持ちも分かったし。自分以外の意見を聞くのも楽しいもんだね」

 アキラはそういうと、うつ伏せになっていた身体を起こして伸びをする。

「ミナトくんってよく図書室に来るの? 」
「え? うん、放課後にはいつもいるよ」
「じゃあまた明日も来てもいい? ミナトくんと話してるの楽しかったから、もっと話したいんだ。今度はおすすめの本を教えてよ。」

「じゃあまた明日」そう言って、アキラは図書室から出ていった。嵐のような彼に、思わずクスッと笑ってしまう。
 彼が去った図書室で、僕はお気に入りの推理小説が入った棚へと足を進める。何度も見た背表紙の文字を目でなぞりながら、心の羅針盤が指すであろう明日に思いを馳せた。

8/8/2025, 8:39:38 AM