このえ れい

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1/10/2024, 7:40:02 AM

「あれって下弦? 上弦? どっちだっけ?」
 隣で歩く友人が暗い空を指さす。
「上弦だね。欠けてる部分が上向いてるから」
 ふうん、と空を見上げる友人の息は白い。この頃すっかり寒くなり、陽が落ちる時間も早くなった。今日は、ことの他冷え込んでいる。
「前見て歩かないと危ないよ」
 まだ月を見つめている友人は、私のその言葉を聞くと私のコートの袖口を、そっと掴んだ。
「これなら危なくない」
 私を見て、にっこり笑う。
「ねえ、私の目、月が入ってると思う。いっぱい見たからね」
 ずいっと顔を近づけてくる。夜闇の中、友人の目が光った。
「何それ。早く行くよ」
 私が足を速めると、友人も小走りでついてきた。袖は掴んだままだ。
 友人の瞳には、月ではなくキラキラの星があり、同時に近さに狼狽する私の顔もうつっていたことを、友人に気づかれていないことを願った。

12/9/2023, 3:05:04 PM

 保育園からの帰り道を、母と娘が歩く。今日は少し早い時間にお迎えに行けたので、いつもは感じない夕日が眩しい。
「あのね、それでねぇ、みーちゃんといっしょに、じしゃくであそんだらねぇ」
 娘が楽しそうに語る姿が愛おしい。母が仕事仕事で忙しくして、あまりコミュニケーションの取れない母娘の、数少ない憩いの時間が、この保育園からの帰宅の道のりだった。
 母の手は、しっかりと娘の小さな手を握っている。母の親指を娘に握らせ、人差し指と中指で娘の手首を挟むこの繋ぎ方は、娘が何かに気を取られたり驚いたりして、急に手を離してしまっても、走りだしたりはできない。手首をがっちり挟んでいるため、ふいに車道に飛び出す心配のない繋ぎ方だった。
 これは、母の母──娘の祖母が、母の幼い頃にしてくれた繋ぎ方だ。普通に手を繋いだりもしただろうが、これを聞いてから、母は己の母親から深い愛情を感じたものだった。なので、自分の娘にも実行している。
 いつかこの話をしたら、娘も母の愛を感じてくれるだろうか。
 楽しそうに保育園での出来事を語る娘に、母はにこにこと相槌を打つ。二つの影は寄り添いながら、長く長く伸びていた。
 

11/27/2023, 3:42:12 PM

 身近な人に、「愛情って何だと思いますか」と聞いてみた。
「親から子への無償の愛」
 これは母の解答。にっこり微笑んでいるが、ちょっと圧を感じる。感謝してます、はい。
「見返りを求めないこと」
 親友からの答えだ。無償の愛と少し似ている。答えながら虚空を見つめていたのが気になるが。今度、酒でも奢るよ……。
「何をされても許せることかな?」
 久しぶり会った父は言う。気障な解答だ。こっちの目を真っ直ぐに見て言うのも、何か腹が立つ。そういうとこだぞ。
「恋からの変貌、の、最終形態!」
 恋に恋する年齢の妹が、少女漫画片手に元気よく答えてくれた。瞳がキラキラしている。姉としては、この汚れなきまま、清らかに育ってほしいと思う。多分、無理な願望だけれど。
「うーん……拉致監禁?」
 物騒な答えは、彼女のものだ。いつも通り、にこにこと穏やかに笑っている。
 一瞬、固まって、うん? と首を捻る私に向かって、彼女は言う。
「やっと、私の気持ちに応えてくれる気になったの?」
 カフェのテーブルの上で、私の手を握る。
 私は彼女を見た。いつもの笑顔、いつもの温もり、いつもの声色。
 目だけが、変なふうに光っている。
「ありがとう、嬉しいな。もう準備はしてあるの。さっそく行こう」
 私の手をとり、立ち上がる。踊るように。舞うように。私の腰に腕を回し、唇を耳に近づける。
「今日から、あなたは私のもの。たくさんかわいがってあげるね」
 彼女は店を出る。私も店を出る。彼女の家に向かう。私の意思は置き去りのまま。彼女の部屋は狭い。彼女の目は私に向けられている。一時たりとも背けられることはない。私の意思は、置き去りのまま。
 愛情って、何ですか?

11/23/2023, 2:00:24 PM

 懸命に手を伸ばした。あなたも手を伸ばした。指先が触れた。私の手は空を掴んだ。
 目が合った。あなたは優しく微笑んだ。
 落ちていく。私の手は届かない。指はもう触れることはない。
 堕ちていく。あなたは言う。ここに来ることはない、と。正しくあれ、私のようになるな、と。
 でも、私はあなたと一緒にいたかった。私を育ててくれたあなたが堕ちるなら、私も共に堕ちたかった。
 落ちていく。優しい笑みを浮かべたまま、あなたは落ちていく。私を一人残して。
 叫び声が聞こえる。自分の喉から発されているのだと、しばらく気づかなかった。
 背後に、複数の人の気配がする。
 私の最愛の人を落とした、堕としたお前たちを、私は許さない。
 ゆっくりと振り返る。
 ねえ、あなたのところまで、私は堕ちるよ。そうしたら、またあなたに会えるよね。
 親不孝者でごめんなさい。
 大勢に囲まれても、私はちっとも怖くなかった。
 落ちてしまえば、あなたに会えるのだから。

11/19/2023, 1:47:39 PM

 風呂にアロマキャンドルを持ち込むのが日課だ。お気に入りの香りを風呂場に満たし、湯船に花弁を散らして、チャンネル登録してある配信者の動画を見ながら半身浴するのが、仕事終わりの癒しの時間だった。
 と言うと意識高めに聞こえるが、そうでもない。これは元恋人の趣味なのだから。ほかにも、彼女の好きな作家の本を買ってみたり、彼女の好きだったカフェに入って彼女が注文していたコーヒーを頼んでみたり、写真を撮るのがうまい彼女にならってアングルに拘ってみたり。
 こうやって彼女の跡を、足跡を合わせるように辿るのが癖になっている。
 このキャンドルも、彼女からもらったアロマキャンドルセットの最後の一個だった。あなたにはこの香りが似合う、と言ってくれた彼女の笑顔は、今でも脳裏に焼き付いている。正直、あまり好みの香りではなかったが、彼女が私に似合うと言ったのだから、私は好きになるべきなのだ。これがなくなったら、新しいものを買う予定だ。
 もういない彼女の存在を、少しでも感じていたい。二人で住んでいた部屋と同じ配置で家具を設置して、二人で大笑いしたテレビ番組を見て、彼女の好物だった料理を作って、二人で寝ていたのと同じベッドで眠る。
 アロマキャンドルの香りに満たされた風呂場には、彼女の姿はない。私の腕の中に彼女はいない。頬を包んでくれる温かい手はない。
 それでも──信じていたい。彼女は、私のところに帰ってくると。
 黙って部屋を出た彼女の背中を、まだ覚えている。呆然とする私を一人置いて、振り向かずに扉を閉めた背中を。
 ねえ、あなたはどこにいるの? なぜ出ていったの? 私を置いて。
 動画が終わった。キャンドルを吹き消す。体を拭いて部屋に戻っても、スマホは沈黙したままだ。
 今日もまた、冷たいベッドに横たわる。私は虚空を見つめ、そこに彼女の面影を探していた。

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