このえ れい

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11/16/2023, 3:21:16 PM

 失ってから初めて気づくこともある。どれほどその存在がありがたかったか、どれほど大切だったか。
 後悔しても遅い。ぞんざいに扱い、蔑ろにしたほうが悪いのだ。失くしたものの大きさを実感し、ただ床に伏すだけだ。
 ああ、お願いだ。帰ってきてくれ。もう適当にしたりしない。はなればなれはいやだ。

 僕は片方だけ残った靴下を見ながら、そんなことを思った。我ながら無の表情ではないかと自覚している。
 本当に、どこに行ってしまったのか。海外に行ったときにノリで買った派手な靴下は、やたら存在感をアピールして片方だけ目の前にある。
 なぜよりによってこれなのか。無地の靴下だって持っているのに、片方が行方不明になったのは、そのへんにある地味な靴下では合わせられないほどのド派手さだった。
 ──お前も、ひとりぼっちか。
 僕はちょっと笑った。昨日、三年付き合っていた彼女に振られた身としては、なかなか皮肉な話だった。
 お前も僕も、相方と、はなればなれだな。
 僕は片方残った派手な靴下を掴み、ゴミ箱に投げ入れた。
 こうすれば、忘れられるだろう。不都合なものは捨ててしまえばいい。たとえば、どれとも合わせられない靴下とか、不甲斐ない自分とか、未練たらたらで情けない自分とか、「あなたと付き合っていても将来が不安」とか言う薄情な彼女とか。
 膝を抱えて顔を埋める。心にぽっかりとあいた穴は、なかなか塞がりそうになかった。

11/15/2023, 2:05:40 PM

「……何でついてくるの?」
「君が心配だからさ、ベイビー」
「その呼び方やめてくんない」
「ベイビー、やけに塩対応だね。ご機嫌ななめなのかい?」
「あんたがついてくる以上、ずっとご機嫌ななめよ」
「おっと……。それは困った、僕はどうすればいいんだろう」
「こっち来んなって言ってんの」
「それはできない相談だ」
「何でよ」
「僕には君を守る義務があるんだ。だから、君の行くところどにおいてもついていくよ」
「鬱陶しい、どっか行って」
「ノンノン、僕はどこにも行かないよ。君のそばを、離れるものか」
「もう! 擦り寄ってこないで!」
「そうやって牙を剥く君も、最高にキュートだよ」
「あんたって、相当クレイジーね」
「よく言われる」
「呆れた。もう勝手にしたら」
「ああ、勝手にするさ。で、どこに行く?」
「ご飯の時間なのよ。いつもくれる人がいるの」
「ああ、それは素晴らしい。僕もぜひ、ご相伴に与りたいね」
「少しだけよ。あたしのご飯なんだから」
「もちろんさ。君の邪魔など、しようとも思わないよ」
「……ふん」

 とある午後、二匹の猫が連れ立って歩いている。つんと顎を上げて歩く子猫のあとを、心配そうに寄り添いながら、少し大きな猫が追う。
 夕日に伸びた影は、しっぽが重なっているように見えた。

11/13/2023, 3:37:19 PM

 笑った顔を見るのが好きでした。私と遊ぶとき、楽しそうに笑う顔が好きでした。ご飯をくれるときの、「お手」と言うちょっと真剣な表情も好きでした。お散歩のとき、私に笑いかけてくれるその声が好きでした。あったかいお布団の中で、あなたの腕の中で眠るのが好きでした。いたずらしたとき、呆れた表情をして私が散らかしたものを片付けている背中が、とても優しくて好きでした。仕事で疲れて帰ってきたあなたを少しでも慰めたくてそばに寄り添ったら、あなたは泣きだしてしまった。わたしの首に腕を回して涙を流すあなたを、抱きしめてあげたい、と何度思ったことか。
 あなたと共に笑い、泣き、遊び、ときには衝突しながら生きた日々は、わたしにとって宝物でした。
 今、わたしの寿命は尽きようとしています。あなたが最後までわたしのそばにいてくれて、本当に嬉しい。
 ねえ、泣かないで。わたしは幸せでした。あなたと出会えて、あなたと暮らせて幸せでした。
 最後に、あなたの笑顔が、わたしが大好きだったあなたの笑顔が見たい。ほら、笑って。あなたは、笑顔が一番素敵なんですから。
 生まれ変わったら、必ずあなたの元へ帰ります。それまで待っていてくれますか?
 ああ、あなたの体温が温かい。
 愛するただ一人のあなた。また会う日まで、どうか幸せに。

11/12/2023, 7:25:01 AM

 「チキン」と呼ばれ、バカにされていた。立派な翼があるのに、それは「飛ぶ」という機能を持っていない。バタバタさせてみても一瞬ふわっと浮くだけで、およそ飛ぶことは叶わない。「跳ぶ」という範疇にも入っていない。同じ飛べない鳥であるが体が大きくて足の速いダチョウや、泳ぐことができるペンギンとは違い、ただ地を歩くことしかできない。
 そのニワトリは、己の限界を知っていた。知ってはいたが、納得はしていなかった。周りの仲間たちは、何も考えずに餌を食い、地を徘徊し、たまに小競り合いをするだけの無能だった。彼は毎日絶望していた。
 誰がチキンだ。鶏肉になるしか道がない、なんて言わせない。俺だって飛んでみせる。限界なんて知るもんか。
 決心して、彼は飼い主の目を盗んで鶏舎から脱走した。周囲に人家もない田舎なので、彼を見咎める人間はいない。やがて、絶壁へたどり着いた。地面から飛び立つのは無理だが、高いところからなら、その勢いで飛べるかもしれない、と考えたのだ。
 彼は飛んだ。躊躇せず飛んだ。今までにないほど翼を高速で動かした。
 やった! 飛んでる!
 空が近い。体が浮いている。風を感じる。何という開放感。
 彼が感じた喜びは、ほんの一瞬だった。重力が彼を捕らえた。
 必死に翼をバタつかせるが、およそ間に合わない。彼はそのまま落下していった。
 抜け出してきた鶏舎が逆さまに見えた。飼い主がきょろきょろしている。彼を探しているのだ。
 彼はその姿に心の中で話しかけた。
 ──あばよ。俺はやっぱり、飛べないチキンだったよ。金になってやれなくて悪いな。
 彼は己の限界を知った。己の不甲斐なさも知った。一番愚かなのは、他ならぬ彼自身であることも、また悟ったのだった。

11/6/2023, 3:43:59 PM

 これは夢だな、と思いながら歩いていた。真っ暗な洞窟を、灯りもなしにスタスタ歩いている時点でおかしい。自分の鼻先さえも定かではない暗闇で、躓くことも迷うこともなく進んで行けるということは、間違いなく夢だろう。恐怖も戸惑いも感じないのも、その仮説を補強する材料となった。
 問題は、なぜこんな夢を見ているのかということだ。「夢」「暗闇」「洞窟」で検索したいところだが、あいにく手元にスマホはない。手ぶらで歩いているのだ。気を紛らわすために何か独り言でも呟こうかと思ったが、喉が閉じていて一言も発することができなかった。ただ黙々と早足で、何も見えない洞窟を進んでいく。どうやら、コントロール不能のようだ。
 土の地面を踏みしめながら考える。どこに向かっているのだろう。常識的に考えれば出口に他ならないが、この急ぎようはちょっと異常だ。
 もしかして、何かから逃げているのか。今のところ、何の気配も足音もしないが、そういったものをすべて消して獲物に近づける生き物だっているかもしれない。何せ、これは夢なのだから、現実世界にいないものがいてもおかしくない。
 そいつは夜目がきき、肉食で、無防備に歩く背中を狙っていて、めったに通らない獲物を捕食しようとしているのかもしれない。今にも背後から襲ってくるかもしれない。
 そう考えると、背中に悪寒が走った。
 そんなわけない。だってこれは夢だから。都合の悪いことは全部弾かれるはずだ。
 とにかく、早く、早くここから出よう。気ばかり焦るが、一向に足は早まらず、平常心のような顔をして歩くだけだ。
 何なんだ、この夢は。自分はどこへ向かっているのだ。出口なのか。だとしたらいつ、たどり着くのか。
 と、何やら人の声が聞こえた。小さくぼそぼそと話している。ということは、二人以上の人間がいるのか。
 助かった、そちらへ向かおう、と考えた瞬間、体が、ぐんっと加速した。足音もたてずに走っている。
 なぜいきなり走りだしたのか自分でもわからない。どうやら、何らかの衝動にかられているらしいが、それすらも判然としない。
 走るうち、人の声が近づいてきた。声音からして、まだ子供のようだ。男の子と女の子か。そしてついに、子供たちの真後ろに到達した。そのとき、自分が標準的な人間のサイズを大幅に上回っていることを知った。
 同時にこのときに判明したのだが、自分は暗くて周りが見えないと思っていたが、どうやら物理的に何もないために、真っ暗だと感じていたようだ。その証拠に、暗闇の中に二人の子供がはっきりと浮かんで見えた。
 二人はまだ気づいていない。どうやら喧嘩をしているようだ。二人とも背を向けているが、女の子のようすは挑発的で、男の子は明らかに怯えている。
 すると、自分の口が開くのを感じた。よだれをだらだら流し、大口を開けている。
 おい、まさか。
 すぐ目の前の男の子に、雨のようによだれが降り注ぐ。女の子が振り返った。自分の口が、男の子を頭からかぶりつく。咀嚼する。嚥下する。
 けたたましい悲鳴が響き渡った。女の子が、甲高い叫びを上げて、一目散に逃げていく。
 とんでもない悪夢だ。早く覚めてくれ。そう願うも、今度は、どしんどしんと地響きをたてて自分は追う。女の子の姿は、はっきりと見えていた。こいつは、追いかけっこそのものを楽しんでいるようで、わざと手加減して走っている。獲物をいたぶるのが趣味なのだ。虫唾が走る。
 やがて、一筋の光が見えてきた。洞窟の出口だ。女の子はさらにスピードを上げて、必死にその光にすがりつくように、真っ直ぐに向かっていく。
 そこで、自分の目が焼けたように痛んだ。光に焼かれたのだ、と気づいたときには、目の前が真っ白になって、女の子の姿は見えなくなっていた。彼女を追っていたこいつは、よろよろと後ずさりし、一際大きく地を揺るがせ、尻もちをついた。
 何もかも真っ白だ。光の塊だ。あまりの眩しさに頭痛がする。尻で後退するが、手が地面を滑り、仰向けに倒れた。両手で目を覆う。
 早く目よ覚めろ。このままでは死んでしまう。
 ごろんとうつ伏せになり、腕を目に押し付けた。口からは苦悶の声が漏れている。全身震えながら這いつくばり、出口から遠ざかろうとする。こんな小さな光で、ここまでのダメージを負うとは思わなかった。
 早く、早く目覚めろ。頭が痛くてかなわない。
 そうだ、なぜこんなにも痛いのだ。これは夢のはずだ。痛みなど感じないはずだ。痛み止め、痛み止めを飲まなければ……

 ひどい頭痛で目を覚ますと、まだ部屋は真っ暗だった。ゆっくりと起き上がり、薬を飲む。効いてくるまで痛いままだが、耐えるしかない。
 何だか変な夢を見た気がする。男の子を捕食する夢など、いくら痛みに浮かされていても今まで見たことがない。
 ため息をついて、再び布団に戻る。カーテンの隙間から、月の光が一筋、部屋に漏れていた。

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