──何もそんなに、悲しまなくても。
僕はその後ろ姿を見て苦笑した。陽の当たるリビングの窓際でこちらに背を向けて力なく座りこんでいるのは、ゴールデンレトリバーのヒナだ。うなだれ、背を丸めて、小さくため息までついている。その毛並みは、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
ヒナが悲しんでいる理由は、大嫌いな風呂に入れられたからだった。風呂の前は散々、いやいやしながら後ずさりしてみたり逃げ隠れしてみたりと抵抗を繰り返していたが、結局、父に捕獲されて問答無用で洗われた。その間、風呂場からずっと悲痛な声が聞こえていた。図体は大きいのになんとも情けない。
僕は苦笑したまま、しょんぼりしている背中に声をかけた。
「ヒナ、機嫌なおしてよ」
ヒナはちらりとこちらに視線をよこし、再び窓に向き直った。眉尻(犬なので眉はないが)を下げた悲しげな顔だ。その哀愁漂う表情に、僕は本格的に笑ってしまった。座ったまま尻でヒナのそばに移動する。
「嫌だったんだねぇ。よく頑張ったよ」
隣に座り、背をなでてやると、ヒナは小さく鼻でため息をつき、顔を僕に寄せてきた。あぐらをかいている僕と、おすわりのヒナの大きさはほぼ変わらない。鼻面を僕の頬にくっつけ、すりすりしてくると、ヒナの気持ちが伝わってくるようだ。
──あたし、嫌だったんだよ、お兄ちゃん。お風呂嫌いだもん。
僕はヒナの首のあたりをわしわししながら笑った。
「えらいえらい、頑張ったよ。綺麗になったもんね」
褒められたのがわかって、ヒナのしっぽが小さく揺れる。
陽の当たるリビングで、いい匂いになったヒナと寄り添い、ぽかぽかと休日が過ぎていく。
鏡は好きではない。自分の顔が嫌いなのがその最大の理由だ。鏡はいつも現実を突きつけてくる。これがお前だと、これに映る姿が正しく真なのだと、容赦なく語りかけてくる。中には鏡を見ずにはいられない人もいるようだが、私には信じられない感覚だった。よほど自分に自信があるのだろう。それか逆に、常に容姿が整っているかを確認しないと気が済まないかのどちらかだ。どちらも病んでいることには変わりない。そして、極端に鏡を嫌う私も、同じく正常ではない。向かう方向が違うだけだ。
街のショーウィンドウも嫌いだ。シルエットでも見るに堪えない。すぐそばにスタイルのいい美人が歩いているときはなおさら、惨めな気持ちに拍車がかかった。私のようなチビなデブスは、本当なら周囲を憚って外を出歩くべきではないが、食料や日用品などを買い足さなければ生きていけない。また、それらを買う資金のために働かなくてはならない。在宅ワークで稼げるスキルがあればいいが、私にはそんな器用なマネはできない。よって、通勤で外に出なければならないのだ。ラッシュで人の数が増えるその時間も苦痛だった。
家族とも疎遠、心を許せる友人知人もいない私は、いつしか誰とも言葉を交わさず生活するようになった。職場では必要最低限のやりとりをするだけで、あとは声帯を極力使わずに生きている。あまりにも使用頻度が低いので、たまに咳き込んでしまうのが難点だが、ブスを隠すために常日頃マスクをしているため許された。
職場のトイレや家の洗面所の鏡を見るたびに、自分の醜さに辟易した。街を歩く美人を見るたびに、職場でアイドル的存在になっている後輩と接するたびに、周囲の扱いの差を感じるたびに、己の見てくれの悪さを自覚した。
ああ、あの子になれたら。それか、あの道行く美女になれたなら。
鏡と向き合い、顔を掻き毟り、何度そう願ったことか。この容姿のせいでろくな就職先を見つけられないので、整形する金などない。この先、ずっと醜い顔とともに生きていくしかないのか。
嫌だ。そんなのは嫌だ。この顔のせいでいじめられるのも、無視されるのも、無碍に扱われるのも嫌だ。
ふいに、学生時代の記憶が蘇った。机に落書きされた日。教科書を隠された日。汚いものは洗わないと、とバケツいっぱいの水を頭からぶっかけられた日。汚い顔は拭いてあげないと、とトイレの雑巾で顔をごしごしこすられた日。男子からも女子からも、厭われ、なぶられ、人間として扱われなかった日々──
私は鏡に頭からつっこんだ。
そうだ、私はそんなふうに蔑ろにされるべき存在ではない。本当はお金持ちで、マスクで隠しているけれどとんでもない美人で、スタイル抜群で、誰からも振り向かれる、そんな人間なのだ。
私は鏡を見つめた。ねえ、そうでしょう。私はみんなに好かれているの。ねえ、そうでしょう。あなたは私の味方でしょう。
ひび割れた鏡に映る、とびきりな美人に向けて微笑んだ。そう、これが正しい。これこそ、正常で清浄な、理想的な世界だわ。
ああ、私は美しい。
歪んだ鏡に映る、歪んだ笑みは、密かに涙を流している。