君と出逢ってからというもの、僕の心は乱れっぱなしだ。いや、心だけではない。日々の生活、時間の使い方も、優先順位も、すべて君を軸に動いている、と言っても過言ではない。
君と出逢う前の僕は、十人いれば十人ともに「おもしろくない」と言われる日々を送っていた。朝は五時に起床し、まず顔を洗い歯を磨き、軽くストレッチをしてから、炊飯器のスイッチを入れてジョギングに出かける。三十分ほど走って帰宅してシャワーで汗を流す。すると、ちょうど米が炊けているので、味噌汁を作ってご飯をよそう。朝食が済んだら弁当作りだ。ほら、もう「つまらない」という顔をしている。君と暮らし始めてから、いかに僕の生活リズムが狂ってしまったかについて話しているんだ。きちんと聞きたまえ。
この「ジョギングに行く」という行為さえ、君は嫌がる。どこに行くんだとばかりに引き止めてくる。おかげで今日も、出るのが十分ほど遅れてしまった。
卵焼きときんぴらごぼうを作り、ミニトマトを添えて、ご飯をよそえば弁当の完成だ。僕の弁当は、毎日これだ。君も知っての通り、朝食も、焼き魚と味噌汁とご飯という内容の夕食も変わらない。飽きるという概念は、僕には存在しない。なぜならこれしか作れないからだ。飽きたら詰む。
弁当を作っている最中も、かまえ攻撃は続く。火を使っているから危ないと言っているのに、後ろから抱きついたり、手元を覗き込んだり。ヒヤヒヤするからやめてほしい。君が怪我をしたら、僕は一生、自分を責め続けなければならないというのに。
午前八時、さて仕事へ行こうという段階になると、君は改めて僕に擦り寄ってくる。察しがいいのか、人が長時間の外出をしようとしたところでその行動に対して難色を示すのだ。裾を引っ張ったり、玄関に先回りして立ち塞がったり、色々な方法で会社に行くのを妨害する君を振りほどくのは、正直心が痛む。……この「心が痛む」という感覚も、君と住み始めてから知ったものだ。本当に、調子が狂う。
それで、まさに今君は僕の膝を占拠しているわけだが。
君が僕と離れたくないのはわかった。しかし、僕は今から仕事に行かなくちゃいけない。いい子でお留守番をしているんだよ。さあ、どくんだ。
いたた、爪をたてないでくれよ。ああ、噛むのもだめだ。ほら、降りて、お願いだ。遅刻してしまうよ。
君と離れたくないのは僕も同じだ。しかし、就業時間に遅れるわけにはいかない。ここは心を鬼にして君を引き剥がすよ。
ほーら、取ってこい!
よしよし、大好きなおもちゃが手元にあってよかった。部屋の奥に投げたから、しばらく戻ってこないだろう。その隙に会社へ行くとするか。
さっと玄関を開け、素早く鍵をかける。おもちゃとともに戻ってきた君は、僕が部屋にいないのを見て何を思うだろう。胸がずきんと痛む。
歩きながら俯いて発見した。スーツのズボンに白い毛が無数に付着している。
ああ、とため息が出た。コロコロは鞄に入っていただろうか。
笑みが漏れた。愛しい君の毛だ、このままにしておきたい衝動にかられた。しかし社会人として、そうもいかない。ああ、このジレンマ。
本当に、君と出逢ってからというもの、僕の心は乱れっぱなしだ。およそ僕らしくない。それでもこの生活がたまらなく好きだった。
今日は仕事帰りにチュールを買っていこう。留守番をしてくれている君へのお礼として。
いつもの店で定食を頼んで、私は水を一口飲んだ。時刻は十九時。振替休日なのでいつもより人が少ない。ここに来たときの定位置となっているカウンターの一席に座り、ちらっと周りを見回してそう思った。定位置とはいえ、べつに指定席ではないので、他の客が私より先にこの席にいれば、他の場所に座る。この席が空いている機会が多いというだけのことだ。
目の前のメニュー表を見るともなく見つつ、彼女のことを考える。今日は仕事が休みなので会えていないが、私の頭の中は常に彼女のことでいっぱいだった。
背筋を伸ばし、颯爽と出勤する彼女。笑顔でみんなに挨拶する温かさ。キーボードを叩くしなやかな指。誰にでも気さくに話しかける度量の広さ。同じフロアながら部署が違うので詳しくはわからないが、営業部の彼女はおそらく取引先からも好かれているのだろう、彼女は毎月、営業成績一位だった。彼女と同じ部署の無能な人間や、その成績をやっかんだ一部の人間が言うような、色仕掛けだの枕だの女の武器だのといった後暗さとは無縁な彼女だ。どうか雑音は無視していてほしいと思う。
それはそうと、現状である。バレンタインだ。もう明後日に迫っている。
何かと絡んでくるツインテールの後輩に課せられた、彼女の好みのリサーチは進んでいない。そもそも彼女と部署が違う私は、話す機会もあまりない。給湯室で会ったら、当たり障りのない会話を十秒ほど交わすだけだ。こんなんで、どうやって彼女の好みを把握しろと言うのだ。
それでも積極的に話しかければいいのだろうが、そんな勇気は私にはない。
あまりの情けなさに肺の中を空っぽにする勢いでため息をつくと、店員が定食を運んできた。今日はエビチリ定食だ。中華好きな私にとって、外せないメニューだった。
(もし仮に……)
エビチリを口に放り込みながら考える。もし仮に、私がすでに用意してある贈り物が彼女の好みと合致していたら。それはもう運命ではないか。何せ、リサーチなどしていないし、何が好きで何が嫌いか、一つもわからないのだ。その状態で、彼女の「好き」を直撃していたら、私の正しさが証明できるというものだ。
(こんなこと、後輩には言えないな)
私は苦笑した。自称だが実際に恋愛マスターの後輩は、経験こそすべてだと思っている節がある。想像で恋は実らないのだそうだ。言わんとしていることはわかる。
──でも、それでも。
伝えたい思いがある。不器用な私なりに、精一杯に伝えたい思いが。
勝負は明後日だ。
皿に残った最後のエビを飲み込んだ。無意識に箸を握りしめる。
成功するとは思っていなかった。しかし、伝えずに終わらせるには、あまりにも大きくなりすぎている。
私は黙々と定食を平らげ、家路に着いた。夜道が寒い。
せめて彼女にふさわしいようにと、背筋を伸ばして歩く私のシルエットは、なんとなく滑稽に見えた。
「好みはリサーチしましたか?」
頭の上から声がしたので振り仰ぐと、予想通り後輩の顔があった。私を覗き込むツインテールが揺れている。
「好みって、誰の?」
私が言うと、後輩は首を横に振った。両手も肩の位置にあることから、やれやれ、という感情を表したいようだ。
「誰の? じゃないんですよ。そんなの一人しかいないでしょ。わかってるくせに」
後輩が、ちらっと視線をやった先には、本日も煌めく笑顔の彼女がいる。常に人に囲まれてる彼女だが、今日は先輩社員にかまわれているようだ。主に男性だが。
そのようすを見た私の顔が引きつっていたのだろう、後輩はさらに言葉をついだ。
「このままじゃ、あの人は今に誰かのものになっちゃいますよ。いいんですか?」
「よくはないけど」
半ば反射的にそう返すが、それはこの後輩に彼女のことが好きなのだと宣言してしまっているようなものだ、と気づいたのは発言し終わってからだった。しかし、どうせ後輩には、私が彼女に好意を抱いていることは、とっくにバレている。今さらだった。
「ですよね? だったら、さっさと心を奪わないと」
「簡単に言うけどさ、私だってあの子の好みを完全に把握できてるわけじゃないからね」
「ええ……この数日間、何してたんですか。十分、時間はありましたよね」
「私だって、そのことばっかりに気を取られていて余裕なほど時間は有り余ってないから」
ぽんぽんと交わす応酬の傍ら、私は仕事をこなす。この会社の事務員である私は、営業部の期待の新星と呼ばれる後輩と比べても仕事量は遜色ないと思っている。思っているだけだ。私より活躍している後輩に対しての負け惜しみではない。
「……まあ正直、何で先輩があの人のことを好きなのかはわかりませんけど」
後輩が、ぼそっと呟く。私は耳を疑った。何であの人のことを好きなのかわかりませんけど? 彼女と同じ部署の後輩から、その言葉が出てくるとは思わなかった。
「……わからないの?」
そっと聞くと、後輩はこちらを見下ろした。蛍光灯の真下に立っている後輩の表情は見えない。
「わかりませんよ。全然、わかりません」
それを聞いて、私は邪推した。もしかしたら、彼女は外面だけよくて、同じ部署の人間には当たりが強いのだろうか。それどころか、この「期待の新星」と呼ばれる後輩にだけ、つらく当たっているとか。それとも……
「先輩が今考えてること、全部不正解です」
私の心を読んだかのような後輩のせりふに、私は、ただただ狼狽するしかない。
「な、何でそんなことわかるんだよ」
「だって、ずっと見てますから。あの人と先輩のこと」
ん? 私が上目遣いすると、後輩はツインテールの頭を近づけてきた。こいつ、上司に髪型を認められているのは承知しているが、ちゃんと仕事はしてるんだろうな。
「あの人のこと、誰もがみんな好きだとは思わないことですね」
は? 私が固まったのを合図に、後輩は鼻歌をうたいながら歩き去った。
私はその後ろ姿を、ただ見送るしかできなかった。今の、どういうことだ?
その答えを知ることができるのは、ずいぶんと経ってからのことだった。
彼女を見るたびに、心臓が痛かった。同僚で同じ部署の彼女は、誰にでも優しく、どれだけ忙しくても穏やかな笑顔を崩さない。先輩をたて、同僚に対しては分け隔てなく、後輩には親身に。まるで人類のお手本のような彼女は、誰からも好かれ、信頼されている。おまけに誰もが認める端麗な容姿、さらにはシゴデキときた。
私が好きになったのは、そういう人だ。私とは天と地の差、雲泥の差、月とすっぽん、提灯に釣鐘だ。平凡以下の容姿に平凡な仕事の出来、人の好き嫌いが激しくて上司に逆らうので評価は決して高くはなく、後輩には面白がられるが先輩や同僚には好かれない。そんな私が、社内で一番人望のある彼女に惹かれてしまった。
「無理があるよな……」
給湯室でがっくりとしゃがみこむと、なぜか懐いている後輩が声をかけてきた。
「何が無理なんですか?」
私の顔を覗き込むツインテールが揺れている。この後輩は、いつもこの髪型だ。職場にツインテールはないだろ、と思いつつ、面白いので放置している。今のところ、この後輩が上司や先輩に髪型を注意された形跡はない。こいつも上手いのだ、人心掌握が。
「君には関係ないよ。仕事しな」
「お昼の時間ですよぅ。先輩、一緒にご飯でもどうです?」
もうそんな時間か。雑務が嫌すぎて給湯室に避難していたら、昼休憩になっていた。これもいつものことだ。我ながら、よく減給とか左遷とかにならずに済んでいるものだ。デスクにいないことに気づかれていない可能性もある。
「いや、お弁当だから」
私が言うと、後輩は、にやっとして、かわいい布に包まれた弁当箱を翳した。
「私もお弁当なんです。天気もいいですし、外で食べましょ」
有無を言わさず、後輩は私の手をとり、ぐいぐいと引っ張っていく。
会社の中庭に着くと、後輩はベンチの一つを陣取り、膝の上でお弁当を広げた。女の子に人気のキャラ弁だった。誰が作ったのか気になるが、おそらく彼女自身だろう。この後輩は、あらゆる面でおそろしく器用だ。
「で、何か話でも?」
私が自作の弁当をつつきながら口火を切ると、後輩は、にっこりと笑った。
「はい、先輩の恋煩いについて」
私は卵焼きを喉に詰まらせた。胸を叩いて卵焼きをどうにかしようとするのを、後輩が背中を叩いて援護してくれた。
「あらら、ごめんなさい。そんなに動揺するとは思いませんでした」
何をぬけぬけと。涙目で後輩を睨むと、後輩は舌を出した。
「いきなり本題に入ったのは謝ります。けど、バレバレですよ先輩。溢れる思いが滲み出てます」
「え、嘘」
「嘘じゃないですよぉ。誰が見たってわかりますって」
ようやく飲み込んだ卵焼きとともに、その言葉が脳に浸透した。
誰が見たってわかります? 信じたくない。
「じゃあ、その『恋煩い』とやらの原因の名前を言ってごらんよ」
せめてもの虚勢、顎を上げて挑発しても、後輩は怯まなかった。
「うふふ……それは」
後輩が言った名前は、彼女のものだった。なぜバレた。もう虚勢は通用しない。頭を抱えて煩悶する私に、後輩はころころと笑った。
「先輩、そういうとこ、ほんとかわいいですよね。わかりやすくて」
私は後輩を睨んだ。虚勢は通用しなくても、腹立たしいことはある。
「あんまりバカにしないでよね。……無理なことくらい、わかってるんだから」
「バカになんてしてませんよ。むしろ、協力したいと思ってるんです」
「はい?」
「だから、協力。したいと、思ってるんですよ」
一語一句、噛み締めるように、後輩は言う。
協力だって? こいつに何ができるんだ。ちょっといい顔すれば仕事を減らしてくれる上司がいて、私の同僚たちもすっかり騙されていて、こいつの同僚も男子は骨抜きだが女子にはすこぶる評判の悪い、ツインテールの小娘が。
「あ、今、私の悪口言ってたでしょ」
「言ってないよ」
「まあいいです。事実なので。それより、私は先輩が好きなんですよ。人としてね。だから、先輩に好きな人がいたら協力したいと思うのは当たり前でしょ」
はあ。気の抜けた返事しかできない。私のことが、人として好きだって? それこそどうかしてる。
「信じるか信じないかは先輩次第です。でも、先輩のことが好きなのは事実なんです。だから協力しますよ」
キャラ弁の目玉をつんつんしながら後輩は言う。いつもは高めの声が耳を若干つんざくが、今日はそんなに気にならない。
「……ほんとに?」
恐る恐る尋ねると、後輩はこちらを見て、にやっと笑った。
「ギャルに二言はないです。計画、立てましょう」
なんせ、私は百戦錬磨ですから。そう言う後輩の目に、一瞬、寂しげな影がよぎったのは気のせいか。
まずはバレンタインですね。相手の好みは把握してますか?
空に箸を掲げる後輩に、今は感謝しておこうと思った。
「もう終わりにしよう」
彼女はそう言って俯いた。窓辺に座る彼女は、夕焼けを背景にくっきりと浮かび上がっている。表情は見えない。
「どうして?」
我ながら情けない声が出た。脳内に自分の言葉が反響する。どうして? どうして?
こちらを向く彼女の目が光った。涙なのか、嫌悪の光なのか。それとも、私への哀れみか、侮蔑か。
「言わないとわからない?」
逆光でも、彼女の顔が歪んだことに気づいた。笑みを含んだその言葉は、私の胸を抉った。
どうして? は、まだ頭の中をぐるぐるしている。どうして? どうして? どうして?
固まったままの私に、彼女はにじり寄った。
「わからないなら教えてあげる。あんたって人は、言葉にしないと理解できないみたいだから」
聞いたことのない声色、見たことのない表情で、彼女は私に詰め寄る。
「私はね、ずっと我慢してたの。あんたのその自己中な性格にね」とん、と私の肩をつつく。「付き合い始めた頃は、まだよかった。あんたは優しいし、きちんとしてるって印象だったから。でも一緒に暮らし始めてからは、どう? 約束は守らない、家事はしない、休みの日はダラける。デートしよ、って言っても、めんどくさいから寝る、で済ませる」
「……うん」
「これで別れたいと思わないとか、あんた頭大丈夫? 私のことなめてるの?」
私は顔を伏せた。
「あんた、甘えすぎなんだよ。私はあんたのお母さんじゃない。約束は守ってほしいし、最初に決めた家事はちゃんとしてほしいし、休みの日は外でデートしたい」
言い募るうち、彼女はだんだん涙目になっていく。私の目にも涙が浮かぶ。
「挙句の果てに、裏切りかよ」
「……ごめん」
「謝って済むと思うなよ。今まで、私がどれだけ我慢してきたと思ってるの」
詰る彼女を責められない。
「……泣きたいのはこっちだよ」
彼女は立ち上がる。あらかじめ纏めていたようすの荷物を持ち、玄関へ向かう。
「待って」
思わず言うと、彼女は振り返った。今度は表情がはっきりと見える。明らかな侮蔑の表情。
「……話しかけないで。永遠にさようなら」
玄関の扉が、開いて閉じた。彼女はいなくなった。
「どう? 撒けた?」
一時間経ってから、私は彼女に電話をかけた。
「うん、大丈夫そう。今からそっちに戻るね」
「そっか、よかった。なかなかしぶとかったね」
「ほんとにね。今回ばかりは、もうダメかと思ったよ」
電話越しに、彼女のため息が伝わる。私は苦笑した。
「いやあ、まさか盗聴器まで仕掛けるとはね……。うちの母が、ご迷惑をおかけしました」
私は手元の機械を見た。私の母親は、一人娘を心配するあまり、彼女と私の住む家に盗聴器まで仕掛け、監視していたようだ。半端者との交際を認めない、ということだろうが、私にとっては迷惑なだけだ。案の定、母は彼女との交際を反対し、あろうことか盗聴器まで仕掛けるに至ったため、彼女に協力してもらって一芝居打ったということだった。
「盗聴器、全部壊した?」
「うん。ちゃんと部屋の隅から隅まで確認したよ。これでもう、覗き見……ではなく覗き聞きはできないね」
私が言うと、彼女は笑った。
「よかった。じゃあ、そろそろ帰るね」
「うん、待ってる」
電話を切る。彼女と縁を切る事態にならずに済んだことに安堵しつつ、カーペットに寝転んだ。
しかし、あることに気づき、すぐ飛び起きた。あの時彼女は、表情から行動まで、何から何まで自然だった。まるで、聞かれているどころか「見られている」ことまで想定済みであったかのように。
私は再び、部屋の隅々を見て回った。盗聴器だけではなく、カメラは仕掛けられていないだろうか。
彼女が帰ってくるまでに解決しなければならない。
私はまた、這いつくばって捜索にあたる。彼女との未来を守るために。