今日の竹凛は、すこぶる機嫌が良かった。
大学院の課題レポートが教授に褒められたり、彼女とのデートが上手くいったり、とにかくなんでも上手くいった一日だった。全ての予定を終え、駅の改札口に向かい、ちょっといいお酒でも買って帰ろうかと鼻歌交じりに歩いていると見慣れた顔が目に入った。
「これはこれは…」
そこにいたのは青雲だった。しかもすらっとしたイケメンな男の子と話している。竹凛はにやにやしながら青雲も隅に置けないな、と見ていた。
すると、青雲が改札口の電光掲示板を指さして彼に何か言った。男の子は弾かれたように青雲に何か訴えているようだったが、青雲はゆっくり首を横にふった。男の子はその青雲の様子を見て泣きそうな顔をしながら、ただ最後のプライドかなにかなのか、無理矢理に笑って手を振り、改札口を通っていった。
この一連の光景に思わず竹凛はひゅう、と口笛を鳴らした。そして青雲に声をかけるべく、足を踏み出した。そして何食わぬ顔でよっ、と手をあげ青雲に声をかけた。
「青雲じゃないか、おひさ」
「…竹凛兄さん」
青雲は少し肩を震わせ、声の方を見やった。その声の主が竹凛だと分かると、あからさまにほっとしたように息をついた。
「お久しぶりってほどじゃないですよ、一週間前も顔を合わせました」
「むしろ一週間も合わせてないぞ」
「ははは、たしかに」
他愛も無い会話だったが、これは…と竹凛は思う。前にあったときと比べて、なんとなく心ここにあらずト言う感じと、少し歯車が軋む感覚がして青雲を見据える。そして、
「何かあったのか」
と、聞いた。そう聞かれるのが分かっていたのか、青雲は目を閉じながらほほえみ、
「何もないですよ」
と、いつものとおりに答えた。じいっと竹凛が青雲を見つめると、青雲は困ったように視線を泳がせ、なんですか、そんなに見つめられると困るのですが、と居心地悪げに呟いた。
「いや、憂いを帯びている青雲は他人がほっとけなくなるような雰囲気を醸し出すなと思って」
そう言うと青雲ははあ、と少し首を傾けた。
「竹凛兄さんは昔から変わらずかっこいいですよ」
「青雲は昔と比べて嘘をつくのがうまくなった」
ふと、青雲の体に緊張が走ったのがわかった。自分でも気がついたの、青雲はいつもの笑顔をとっさに貼り付けた。
「嘘なんかついてませんよ」
「お彼岸の日」
一瞬、二人の間に流れていた時間が止まる。
「何かあったのか」
その言葉に、青雲は答えなかった。否定も肯定もしない。ただその言葉を受け入れただけのようだった。そして青雲は重いため息をついた。
「…僕は嘘がうまくなったんでしょう?」
「青雲たちが生まれたときから見てる俺には誤魔化せないぞ」
「だとしても、分かっているならちゃんと僕の嘘に乗せられてくださいよ」
「時と場合による」
青雲は一回言葉をとめ、竹凛を見据える。そしてやっぱりいつもの顔で笑った。
「本当に、何もないんですよ」
答える気はないのだとわかった。竹凛はこれはまだだめだなと思い、自分を納得させた。まあ、もう大学生であり、大人に片足突っ込んでいるのだから外野がとやかくいうものでもないだろうと一人思案した。
「…ふーん、まあ、俺から一つ言わせてもらうなら恋人にあんな顔させるのはナンセンスだぞ」
「いやいや、ちゃんと線を引いてあげるのは優しさですよ。ていうか恋人じゃあないですし」
次に話すときにはいつもの青雲に戻っていた。話を聞くとなんでも、さっきの男の子は同じ学校の人で、少し買い物に付き合ってほしいと言われ、承諾したのはいいが、少しボディタッチが多かったり、含みのある言葉を言われたりしたらしく、きっちり役目を果たして、きっちり帰らせた、ということらしい。それを聞くと、さっきの男の子の、哀れさがより一層際立った。そして、まったくモテない自分の弟の顔が浮かんだ。
「なんで青雲や俺がモテるんだろうな~」
すると青雲は不思議そうに首を傾げた。
「嘘つきだからでしょう」
青雲は当たり前でしょう、と言わんばかりに含みを持った笑みを浮かべた。
「生花より造花の方が色鮮で美しいように、食品サンプルが本物以上に見せるように、正直な人より嘘で塗り固めた人の方が美しく見えるものですよ」
たしかに、と首を縦にふりながら、竹凛は言葉の端々を思い出し、顎に手を当てた。
「遠回しに俺のこともdisってない?」
「なんのことやら」
「意趣返しが露骨すぎる…」
調子の戻ってきた青雲に安心しつつも、釈然としない感情を抱きながら、やっぱり良かったと竹凛は口の端を上げた。
「まあ、悔いのないようにやれよ」
そろそろ行くわ、と手を上げると青雲も電車の時間を確認しつつ、
「ええ、善処します」
と返答した。そんな青雲の様子に竹凛は笑みを零す。
「まったく、青雲は可愛気のないかわいいやつ」
「そんなふうに私を言うのは竹凛兄さんだけですよ」
じゃあそろそろなんで、と軽く会釈をする青雲に返事をしつつ、竹凛は当初の目的であるお酒を買いに、青雲は改札口に向かう。ふと、青雲は思い立ったように足を止め、竹凛の背の方に振り返った。
「人生なんて、蓋を開けたら後悔ばかりですよ」
竹凛はその言葉に驚き、後ろを振り返った。青雲はもう改札口を通り、横目で、竹凛を捉えてにやりと笑い、そのまま階段を降りていった。
竹凛は回りに迷惑をかけないように口の中で笑いを抑える。
…やっぱり、お前はそういうやつだよ、青雲
青雲と蒼原が賭けに負け、飲み物を買い行っている間、竹凛と海想は暇を持て余していた。
「なぜ、あの二人を意図的に行かせたのですか」
「海想とゆっくりお話したかったから」
「TAKE2」
「問答無用で却下しないで」
賭けと称して、竹凛が用意したのはクイズだった。ただし、無差別にネットから探したように見せた、仕込みありのクイズだったが。海想は竹凛にこう答えてと最初に言われていたため、その通りに答え、罰ゲームを逃れたわけだが、竹凛にこう、だる絡みされると二人に付いていったほうが良かったかと舌打ちをした。
「まあ、青雲は気づいてたっぽいけどね」
仕込み、というとまあ、と海想は頷いた。
「青雲はその上で楽しそうだからノッたんでしょうね」
「しっかし、今思い出しても蒼原の答えが分からず焦る様は笑えるな」
「むしろ僕は見ていて冷や冷やしましたよ…」
海想はその時の蒼原を思い出す。青雲は多分答えが分かっていただろうけど蒼原が答えるまで言わないと決めているのか、答えが分からず唸っている蒼原を見てそれはそれは楽しそうに笑っていた。竹凛は言わずもがな。海想に関しては蒼原に味方したいが、どうしたらいいのか分からず、口を噤んで様子を見守ることにしていた。すると最後蒼原は頭を抱えながら小さく叫び声を上げたと思ったら、次の瞬間にはいつもの無気力な顔に戻り
「飲み物は何を買ってきたらいい?」
と言い放ち、竹凛が吹き出していた。それに便乗して青雲が伸びをし、私もわかんなーいと結局二人で、買いに行くことになった。
「まあ、中々会える時間も減っていましたし、いい機会ですよ。竹凛にいにしてはいい案だと思います」
「おっと、辛辣ながらも優しさを織り交ぜた素晴らしい言葉…もっと褒めてくれてもいいぞ、海想」
「一言5000円」
「とりま20万でおけ?」
「冗談です、本気にしないでください…」
しかし、二人を見送ってから真面目に待つだけというのもつまらない。竹凛がどうしたものかと悩んでいると、持ってきた雑誌のトピックスが目に入った。
「なあ海想、初恋っていつなんだ?」
「は?」
竹凛は置いてあった雑誌を持ち上げ、指を指す。そこには『気になるみんなの初恋の日!君は早い?遅い?』と書かれていた。
「しょーもな…」
「いいじゃないか、たまには世間話でもしよう」
「じゃあ竹凛にいから」
「俺の聞いて楽しいか…?」
そうは言いつつ、竹凛はふむと記憶を遡り思い出す。
「…中学2年生のときの二学期、中盤隣の席になった女の子かな」
「くっそ具体的なのがリアリティを醸し出していて素晴らしいですね。貴方ならさぞ甘い言葉と顔を駆使してその女の子も落としたのでしょう」
「棘と皮肉がやたら効いててびっくりだよ。いんや、その時は本当にただかわいいなって思っただけで、告白も何もしていない。ちゃんと恋人ができたのは高校に入ってからだ」
「…意外です」
海想は目をぱちくりさせて竹凛を見る。竹凛はその反応にうんうんと満足そうに頷いて、その時のことを懐かしんだ。
「あの頃は、誰かと関わるのができないくらいコミュ障で、中二病極めていたから、女子に話しかけるなんてもってのほか。それにきっと優しくされたから憧れただけで好きとは微妙に違った気もする」
「今は女も男もよりどりみどりの竹凛にいにも、そんな時期があったんですね」
「本当に今では考えられないよな。高校生のときから恋人が途切れたことももうないし」
「それは初めて聞きました。」
竹凛は自分の話はもう仕舞と言わんばかりに一つ手をたたくと海想に期待の目を向けた。
「海想は…?海想はいないのか、初恋の日…もとい初恋の人」
「ご期待に添えず申し訳ありませんが、ないですね」
「そうなのか…」
その答えに竹凛は残念なような、少し安心したような気持ちになった。
「まあ、まだ海想は中学生だし、これから…」
「これからなんて来ませんよ、誰か一人を盲目的に好きになるなんて日」
ばっさりと海想は言い放った。その声はけして大きいものではなかったのに、竹凛の耳に嫌に響いた。
「いや、そんなことわからないよ。今はいなくてももう少しすればできるかも」
「いいえ、ありません。……あってはなりません」
そういった海想の言葉に竹凛は首を傾げる。
「…あってはならない?」
海想は小さく頷いた。
「だって僕は、どうやって人を愛したらいいか分かりません。こんな僕が誰かを思いたいなんて考えたら、相手を不幸にします。」
だからあってはならない、海想は何か間違っているのかと言わんばかりに竹凛を見つめた。
「愛されることや愛することなんて、普段友人や親、あと、僕らがしているやり取りの延長でいいんだよ。そんな深く考えるものじゃない」
「親は僕らを一番に愛したことなんてないですよ」
難しいことを言うんですね、竹凛にいはと海想はため息をついた。その様子に竹凛は根深いなあ、と苦笑いを零す。
竹凛にとってみれば、愛することなんて自分のやりたいようにやって、合わなければ、ばいばいするものである。結局、相性であり、自分本意にやっているのだ。竹凛の親だって大分アレだが、自分はそう考えている。
しかし、海想の考え方は違う。第一に相手があって、その人を傷つけないようにはどうするべきかを考える。するとやり方を知らない自分では難しいと判断する。だから誰とも一緒にならない選択をする。要するにくそ真面目なのだ。もっと恋愛なんて簡単に考えればいいのに、どうせ他人なのだから。
「まあ、今はそれでいいさ」
「色々言わないんですか」
「言われたい?」
意地悪くそう海想に尋ねると歯切れ悪く、いえ、と返される。
「ただ、親は、毎回のように聞いてきて追及してくるので」
それを聞いて、竹凛は顔を歪める。まだ中学生の子供にそこまで追及するか普通、と怒りがふつふつと湧いてくる。しかし、大人に片足突っ込んでいる身として、既のところで押さえる。
「無理矢理作るようなもんじゃないからね、気が向いたらでいいんだよ。人生なんて人それぞれなんだから」
そういって海想の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。海想はびっくりしたようだけど、いつものように小さくやめてくださいと言いつつ、嬉しそうに頬を緩めた。
「竹凛にいに聞いてもらえて、少し怖かったけど嬉しかったです。その、本当は初恋をまだしていないのは変だ、とか言われたらどうしようかと…」
「俺が海想を否定するわけないだろ!!むしろWELCOMEだっ!」
「あ、いつもの竹凛にいですね」
ノーセンキューです、と右手で押し返す。そんな海想とのやり取りに笑う竹凛を見て、海想は小さくため息をついた。ただ、胸に広がる温かいこの感情を感じて気づいたように、呟く。
「初恋、竹凛にいみたいな人だったら幸せなのかなあ」
海想本人はあくまで誰にも聞こえないように、呟いたつもりだった。しかし、竹凛がそんな海想の突然のデレを聞き逃すはずもなく、一瞬で真顔になる。
「海想、俺今から、彼女と別れてくる」
「はい?」
「そしたら海想の初恋が俺になった瞬間にすぐにその手を掴める」
「いや、その」
「愛なんて知らなくても、俺が死ぬほど注いでやる」
「は、話を…」
「まずは電話…」
「っっ!話を聞けっていってんだろ!まず第一貴方を好きだとはひとっことも言ってない!!」
「いつか言われるかもしれないでしょう!!」
「いい加減にしろ、クソ兄貴!!」
結局、この不毛な押し問答は二人が帰ってくるまで続くことになる。
3月、まだ風が少し冷たい今日この頃、青雲と海想、蒼原と竹凛はお彼岸のため祖母の家に来ていた。墓参りが終わってしまえば暇な4人はちょっとした遊びで飲み物を賭けていた。そして同率で負けた、青雲と蒼原は近くの自販機まで文句を言いながらも歩くことにした。
「あのクイズ、絶対竹凛兄さんのイカサマだよね」
「あはは、負けは負けだよ、蒼原。例え竹凛兄さんがイカサマしていたとしても気づけなかった時点で私たちの負けだ。きっぱり諦めて飲み物を買いに行こうじゃあないか」
「…海想は気づいてたのかな」
「いや、あれは先に竹凛兄さんが仕込んでたとみた」
「……もしかして、青雲は気づいてたの?」
「まあ、分かりやすかったからねえ。だからノってあげたのさ」
得意気に人差し指を立てて笑う青雲を見て、蒼原はため息をつく。ふと、道向が騒がしいことに気がついて目をやると、そこには喪服を着た人たちが疎らに家に入っていく様子が見えた。
「ああ、坂本さんのうち、誰が亡くなったんだねえ」
ひょこっと青雲が顔を出し、蒼原もそれをもう一度確認する。別によくしてもらったとか、話したことがあるわけではなかったが、田舎という狭いコミュニティの中で聞いたことはある程度の家の名前だった。
「そういえば、ばあちゃんがなんか言ってたなあ。坂本さんちのじいさんがどっか手術してから、めっきり弱ったとかなんとか」
それかなあ、なんて呑気にいう青雲とは正反対に蒼原は少し顔をしかめながら、なにも言わずにその光景を見つめていた。ふと見えた泣いている初老の女性を見て
「…ああ、やっぱり亡くなったのはじいさんの方だったね」
と青雲は納得したように呟いた。
「それにしても、みんな飽きもせずによく泣けるねえ」
「不謹慎だよ、青雲」
「そう?」
青雲は飽きてしまったのか、蒼原の腕を引いて歩き始めた。蒼原は足を縺れさせながらも、それに倣い歩き始める。
「…誰か大切な人が亡くなって、泣くのは当たり前のことだよ」
「でも、誰だっていつかは死ぬんでしょう?なら、心の準備とかそんなの生きているうちにできるものじゃあないの?」
「そうだとしてもだよ。青雲も近しい人で考えてみれば分かるんじゃない?例えばお母さんとお父さんとか…」
蒼原にそう言われて青雲ははあ、と首を傾げた。蒼原はあ、と思い発言を取り消す言葉を考えたが
「…私たちのことを道具くらいにしか考えてない人たちが亡くなっても、所有者が消えたな~くらいにしか今のところは思わないなあ」
と笑いながら青雲に言われ、頭を抱えた。その隣で青雲は不思議そうにまた首を傾げた。蒼原は気を取り直すように一つ咳払いをすると、思いつく名前を口に出す。
「…海想」
「楽になれてよかったね、と思う」
「竹凛兄さん」
「たしかに悲しくは思うけど、竹凛兄さんもきっと楽になれたと思うと少し安心するかも」
その後も、友人や先生、蒼原の知っている限りの名前を上げていくが、青雲は笑いながらのらりくらりと答えていく。そして蒼原はお手上げだと言うように両手を軽く上げた。
「ここまで上げても悲しく感じない答えを用意できるなんて、筋金入りだね…」
「答えを用意できるなんて失礼な…!……まあ、私にも亡くなったら悲しく思う人くらいはいるさ」
「誰?」
「君」
今度は蒼原がはあ、と声を上げた。青雲はその反応は傷つくねえ、とからから笑いながら蒼原を見た。
「考えたんだよ。彼らが泣いているのは亡くなった人についてじゃなくて、亡くなった人との記憶に対して、だって。記憶を作りたいから生きていたいと思えるんだって。
「僕は、君がいてくれるから、まだここにいたいと思える
「蒼原、君が、先に死んだときを考えたんだ。…君がいなくなったら、僕は息の仕方すら忘れてしまうかもしれない」
青雲はやっと着いた、自販機の前でお金を入れて、まず、レモン味の炭酸飲料のボタンを押した。蒼原は何も言わず、ガタンと落ちてきたペットボトルを取り出した。
「…もし、蒼原が死んで、布団の中で動かない君を僕はずっと見ていたとして、こうして蒼原と罰ゲームで飲み物を買いにきたことをきっと僕は思い出す。他にも、ドライブに行ったり、海に行ったことを思い出す。そうすると自然と涙を流す僕が想像できたんだよ。」
次に冷たい緑茶、砂糖の入ってないコーヒーとぼたんを押していく。
「だって、蒼原、君と出会ってから、私は…
「君が僕の世界なんだよ。」
最後に白い乳酸菌飲料を買って、蒼原はゆっくりとそれを取り出す。いつの間にか他の買った飲料水には水滴がついていた。青雲はお釣りを取り出すと、さあ、行こっかと言い、蒼原から半分飲み物を受け取った。蒼原はその姿と、さっきの言葉を思い返し、小さく息をついた。
「青雲」
「なに、蒼原」
「きっと僕が死んでも、青雲は楽になれてよかったねっていうと思う」
青雲の流れる空気が一瞬止まった。蒼原はそれに気づかず、飲み物についている水滴を小さく払った
「だって青雲は生きることが苦しいって知ってるから、さっき言ったのと同じことを言う。ただそこに記憶がついて、置いてかれて、ちょっとさみしくなるだけだとよ」
蒼原はうんうんと小さく頷きながら、一人納得する。自分のためになく青雲はあまり想像できなかったから、こっちのほうがしっくりくると心の中でごちる。
「でも少し安心した、僕は君を泣かせたくないし」
そう言いながら蒼原は青雲にもう行こうと声を掛けようとして、言葉が出なかった。青雲の顔がまるで迷子の子どものような顔をしていたから。
「青…雲?」
蒼原が小さく呼ぶと、青雲は弾かれたように、あ、と声を出し、またいつもの笑顔を浮かべ、ごめんごめん、ボーッとしちゃった、と笑った。そして
「蒼原がいうならそうかもしれないねえ」
と言い、帰ろうと歩き始めた。蒼原は首を傾げながらもそれに答えて、青雲の隣を歩く。取り留めのない話をしながら祖母の家に帰ってきて、蒼原は文句を言いながら靴を脱ぎ慌ただしく家に入る。少し遅れて青雲もただいま、と言った。しかしさっき蒼原に言われた言葉を思い出し、俯いた。
「まったく、伝わらないなあ…」
奥から、青雲を呼ぶ声がして急いで玄関を上がる。扉を開け、みんなの顔を見る頃には、青雲はいつもの笑顔で笑っていた。
「おはよう、竹凛兄さん。」
「…おはよう、青雲。」
ガタンゴトンと規則正しい音が響く。そこに竹凛は青雲と向かい合って座っていた。二人の間にある大きな窓から外を覗けば、上も下も満天の星空が見える。その星空の中を走っている。
今竹凛と青雲は銀河鉄道に乗っているようだった。
竹凛が、夢だと気づくのにそう時間はかからなかった。すると青雲がゆっくりと口を開いた。
「本当の幸いってなんだろうね、竹凛兄さん」
青雲は窓の外を眺めながら、竹凛にそう問いた。
「竹凛兄さん、貴方はピアニストになりたかったのに教員という道を選んだ。それが正しいとか、正しくないとかではないけれど、やはり夢を諦めるというのは悲しいことだよ。せっかく才能だってあったのに。それは貴方にとって幸せなことなの?」
青雲は改めて、竹凛と向かい合った。竹凛は大きなため息をついて、困ったように笑った。
「そうだな、だけど」
竹凛は右手を目の前に持っていき、人差し指と親指で銃の形を作り上げ、青雲に向けた。
「それは、青雲に言わせるセリフじゃねーぞ。俺」
ばん、と青雲に銃を撃つ真似をする。すると目の前の人物はくすりと笑い、一瞬姿を霞ませ、次の瞬間には自分とそっくりな人間が座っていた。
「なんで分かったんだ」
「簡単だよ。あいつは本当の幸いなんて毛ほどの興味もないし、ましてや、俺の境遇に同情したりなんてしない」
「そうだったのか、じゃあ人選ミスだったな」
「誰を映したとしても同じだ。彼奴等はそんな空っぽなんかじゃないからな」
「随分信頼しているんだな」
「…それに、そんな後悔みたいなことを考えるのは俺しかいない」
「なるほどな」
すると竹凛によく似たその人はまた窓の外に目を向けた。
「美しい世界だよな。この世界」
「この世界って、この夢の世界のことか?」
「少し違う。この世界はあんたが諦めたものを寄せ集めた世界だ」
「そうか、なら納得した」
「何が?」
「この世界が美しいことが、だよ」
彼は竹凛のその言葉に首を傾げた。
「気になっていたんだ。なんでこの世界がこんなにきれいなのか。ここは、謂わば要らなくなったもの置き場みたいなものだろう?いらなくなるということは、それはガラクタじゃあないのか」
すると竹凛は大きな声を上げて笑った。その姿に目の前の彼はキョトンとした表情を浮かべた。一通り笑い終えると、竹凛は一息ついて、目の前の彼に微笑んだ。
「夢を見ることは美しいことだ。だけど、俺は知っている。夢を諦めることだって同じくらい美しく尊いことだと」
「悲しいことではないのか」
「全てを手に入れようとするほうがナンセンスだ。だったら決して手放せないものを一つか二つ作ったほうがいいに決まってる」
「横暴だな」
「それが俺だと、俺を模したのなら分かるだろ」
「ははは、そうかもな」
それから竹凛は目の前の人物と取り留めのない話をした。電車はどこまで行くのか、銀河鉄道のように駅に停まるわけでもなく、ただこの美しい世界を、規則正しい音と共に走っていた。ふと、ガタンゴトンという音が一段と大きく響いた。
「そろそろ、お前の目が覚めるな」
目の前の人物は少し名残惜しそうにそうつぶやいた。
「最初は少しむかついたけど、結構楽しい時間だった。ありがとう」
竹凛が楽しそうにそう言うと、目の前の人物はああ、と言葉を漏らした。
「こうなるのか」
「?」
「種明かし、僕はね、君が切り捨てた、ピアニストとしての君だ。まさか、こうして話すことができるとは思っていなかったけど、案外いいものだね。だけど、もう懲り懲りだ」
少し寂しくなってしまったと彼は小さく笑う。
「こういう言い方は陳腐で好きじゃないだろうけど、伝えておくよ。…君の選んだ道だ、がんばれ」
「待っ…」
車窓から眩い光が差し込み、あたり一面が見えなくなる。そんな中、竹凛が最後に見た彼の顔はとても綺麗な、笑顔だった。
竹凛が目を覚ましたとき、そこはいつものベッドの上だった。時間は、まだ夜の2時をまわったばかりで、空気は静まり返っていた。竹凛はそっとベッドをぬけ、カーテンを開きながら空を見る。空には静かに星たちが輝いていた。
さっき、見た夢を思い出す。もう、薄れ始めてしまっている、あの一瞬の夢を。
次のまた夢で会えたなら、満天の星空の下でまた、あの彼にさらに諦めた夢の話でもしてやろうと、夜空に一等光るあの星に誓った。
彩を失う瞬間がある。
青雲は寒空の、灰色の雲の下、人差し指でマフラーを少しずらしながら白い息を吐いた。今日は、特にすることもなく、街をぶらぶら歩いていた。ふと、青雲は立ち止まる。
(ああ、また、きた)
瞬間、世界から音が、人が、匂いが、色が失われていく。青雲にとってこの状況はよくあることだった。世界から置いてかれて、世界に一人だけになる。青雲はこの瞬間が嫌いではなかった。
(この世界はなんでこんなにも静かなんだろう)
賑やかな場所が嫌いなわけではない。いつもの4人で騒ぐ時間や誰かと出かける時間は、自分の心にこんなにも深く突き刺さってる。しかし、同時に誰もいない、何もない世界も同様に好きだった。だってこんなにも、自分の孤独を突きつけてくれる。
(結局私は一人なんだ。)
その事実が実に心地いい。私は正しくないのだと、いつだって糾弾してくれる。始まりはいつだったのだろう。この瞬間はふて現れては、消えていく。川の流れみたいなものだった。それに規則性はなく、気ままに青雲の前に姿を現す。ただ、一人になるといつも隠そうとしているものが、自分の前にちらつく。それだけは憂鬱だった。
(きっと、本当の私を知られたらみんな幻滅するんだろうな。もっと、うまく隠さないと。見せないように、分からないように、本当と嘘をどちらも織り交ぜて綺麗に作りあげなくちゃ。大丈夫、今までだってできたのだから、もっとうまくできるはず。だってもう、嘘が本当になっているのだから、私は大丈夫。)
青雲は、自分のそんな思考に気づき、思わず乾いた笑いが溢れた。自分が今どんな顔をしているのか、絶対に見たくないと、心の底から思う。きっと酷い顔か、もしくは何も感じてない顔、どちらも人間らしくない顔で好きじゃない。そんな自分の考えにすら嫌気がさす。
(ひどく、毎日、なんで自分がここにいるのか分からなくなる。もっと早く気づければよかったのかな。私は私に何もないのが分かっていたはずなのに。でも、やっぱりどこか踏み出せない。きっと私が弱いから)
隣に誰かはいるのに、その誰かすらいつか自分を置いていって、一人ぼっちになってしまうのではないかと怖くなる。青雲はマフラーを鼻の高さまでもう一度持ち上げた。ふと浮かぶのは、海想と竹凛、そして蒼原のこと。
大切なものなど本当は一つもない。だけど
「生きているだけで、人は色々なものを背負うんだよねえ…」
その一言で、世界は一瞬で音を、人を、匂いを、色を取り戻す。まばらに、道行く人が通り過ぎていく。戻ってきたというのに、人々の笑い声や、信号から流れる音楽が遠くに聞こえる。安堵と落胆、どちらの感情も湧き上がり、大きくため息をついた。
「…帰るか」
スマホを開き電車の時刻表を確認する。次の電車が来るのはあと34分後になりそうだ。それをもう一度確認してポケットに手と一緒に突っこむ。空は相変わらず、灰色の重そうな雲が広がっている。青雲は周りに一瞥もくれずに駅に向かって歩き出す。寒く白い息が、青雲の歩いた後を流れ、静かに消えていった。