泣かないよ
と思っているのに、泣いてしまうことがある。
ゲームに感情移入しているとき。
映画で無念の極みみたいなシーンを見たとき。
小説で大切に感じた登場人物が痛みに泣くとき。
そういうときはいつも、心を込めて作品の中に入り込んでいる。
心を込めて作品に触れること。
そのことを覚えたのは大学生の時だった。
当時、ヘルマン・ヘッセの『春の嵐』を読んで、魂が震えるほど感動した。それ以来、それがどんな作品であれ、心を込めて触れるようにしている。
それはこれからも大切にしたいと思っている。
でも、自分のことでは、泣かない。
というか、泣けない。
どうしてだろうか。
きっと、自分にとって、自分自身が遠い存在だからだ。
過去、いいことがあまりなく、傷つくことばかり経験した。だから、自分を近くに感じると、その痛みに壊れてしまいそうになるんだと思う。
せめて自分を見て見ぬふりをして、過去などなかったように忘れていられれば、今だけは平穏でいられる。そんな気がしているんだろう。
自分自身に、感情移入しない。
それは自己防衛の一種かもしれない。
愚かな方法だとも思うけれど。
でも、それ以外に自分を幸せにしてあげられる方法が見つからないなら、それを選ぶ。
もし、本当に幸せにしてあげられる方法が見つかったら。
自分を迎えに行ってあげようと思う。
いまは遠く過去に置いてきてしまっている自分。
必ず迎えに行くから、待っていて。
怖がり
自分は人が怖い。
いじめにあったり、笑われたり、虐待されたり、性虐待にあったり。とにかく人は自分にとって、全員が加害者だった。
それは大げさに周りの人間がそう見えていただけなのだろうか?
自分にとって怖くない相手など一人もいない。それは今もそうだ。人がいる限りこの世界は安全ではなく、凶器で満ちている。
すれ違うだけの人だって、怒ったり、文句をいったり、睨んだり、人に危害を加えるじゃないか。
人とは、そういうものなのだと、小さい頃から学んできた。
子どもであろうと、大人であろうと。悪意の塊なのだ、と。
でも、そんな人たちだって、自分は正義のつもりなんだ。大切な人に対しては、あふれんばかりに優しいんだ。
聖書にも書いてあるじゃないか。
「自分のことを愛してくれる者を愛したからと言って、なんということがあろうか。悪しき者ですらそれをするのだ」
ああ、なんてその通りなのだろう。
みんなが悪意の塊。
みんなが悪しき者。
そう見えるこの世界で愛があるなら、その悪の中に混じっているんだ…。
人を怖がり、生きることを怖がりながら、愛をつかもうとするなら、悪の中に手を差し入れなければならないんだ。その中から、見つけ出さなければならないんだ。
なんて恐ろしいことかと思う。
人が怖い。
生きるのが怖い。
もう傷つきたくない。
…傷つかなくてすむなら、愛なんていらないや…。
諦めたい。
人を。
生きることを。
愛を。
諦めたい。
こんな怖がりな自分に、愛を見つける資格なんてあるのだろうか?
星が溢れる
都会の夜空には星がない。
いや、見えないだけだ。
その見えない闇の向こうに、星はきっとある。
でも見えないから、普段みんな無視をしている。
見えないものを見ようとすることくらい、無駄に思えることも少ないと思う。だって、認識できないのに、想像力だけで見ようとしたら、それはただの妄想なのだから。なんて虚しいのだろう。
見えないもの。
それは人の心も同じこと。
普段見えないから、ないものと思って人と接することは、意外と多い。
だって、いつも、相手にも心があるんだから思いやらなくちゃ、とか思っていたら、キャパシティを超えて気がおかしくなってしまう。
それは仕方のないこと。
だから、相手が自分をどう扱おうとも、それはお互い様だと思って赦している。
だけど…時々、とても耐えられなくなる。
自分も同じように見えないものを無視するのに、それを棚に上げて、痛みを神様の座にまで押し上げる。
そうして痛みを自分と同化させ、自分も神の座につき、崇めよ、この痛みを見上げよ、悔いよ、と迫る。
なんて高慢な心か…と思う…。
「見えない心からこぼれ落ちるのはいつも悲鳴だった」。そんなことを考えて、悲劇を我がものとした気になり、悦に入る。
滑稽ではないか?
ならばせめて、変わろうと思う。
見えない心。
都会の夜空が星を隠しているのだとしても。
せめて、星の輝きのように、微かでも確実に、光であると思える心へと。
星をこぼすように、光を届けられる心へと。
ずっと隣で
自分は死にたがりだった。
とにかく何もなくても死ぬことばかり考えていた。
長生きしないで死ぬと思っていたし、事故で死ぬ、病気で死ぬ、自殺で死ぬとばかり思って生きてきた。
高校生でうつ病らしき症状をあらわし始めてから、死にたがるのは最良のストレス解消法になっていた。安易に破壊的な想像力を働かせることができるので、お手軽で、0秒で、現実を破壊したような気分になれてとても良かった。
いまも、ややもすると死にたくなる。
けれど、万葉集にあるような、「自分の命は惜しくはないが、あなたのために長い命がほしいのです」という気持ちに変わった。
自殺未遂を起こしたとき。
兄は救急車を呼び、妹はむせび泣いた。
そうして、意識を取り戻したあと、ふたりは生還を温かく喜んでくれた。
ああ、自分はなんということをしたのかと…そう思った。
こんなにも自分の命を尊んでくれる人がいる。自分が死に面した時、こんなにも感情を波立たせてくれる人がいる。
どうして、自分には愛してくれる人などいないなどと思っていたのか。
あまりにも周りが見えない、そんな自分の身勝手な思い込みに、またふたりの悲しみと喜びに打たれた。
深い愛を体現した存在が、こんなにも近くにいたではないか。
生きるということ。
それは過去に足を引っ張られ、絶望に溺れそうになること。
愛するということ。
それらすべてを包み込んで許し、解放された温かさを手にするということ。
これからも生きようと思う。
愛する人が、ずっと隣りにいてくれる限り。
もっと知りたいこと。
それは、自分のこと。
どれだけ一緒にいようとも、自分と自分を取り巻く物事の間には、複雑さが多い。
特に、性別やジェンダーのことについて、それは社会を揺るがす大きな課題となっている。
自分はLGBTQの当事者だが、それ故にこの問題の大きさを知らなければならない。
元々、LGBTQという言葉が生まれる前から、このような問題は―記録に残っているだけでも古代から―人々の間でストレスとなっていたと思う。自分は異常ではないかという個人のストレス。家族は、または隣人は異常ではないかという人へのストレス。
しかし現在、LGBTQを「異常」とみなすのは、一部のクリスチャンを始めとした宗教家か、政治的な意見を持つ普通の人々かに限定されるように見える。
確かに、自分でも自分のことを「異常ではないか」と思い悩んでいる、またそのような過去を持つ人にとって、「異常である」と断定されることは、受け入れがたいことだ。
しかし逆に、「何でもいいよ、許されるよ」という意見や風潮も、当事者に特定のコミュニティ、特定の人、特定の言葉への依存を引き起こし、必ずしも賢明ではない。
それに、LGBTQ独特の文化や雰囲気に目を留めてみると、伝統的なイメージを踏襲しない生き方やあり方をしている当事者を「差別」し「排斥」してきたことは否定できない。その反動として、「多様性」という言葉を旗印と掲げ、あまねくセクシャリティを包括しようと躍起なのも確かだ。
当事者間のそのような動きに対して、社会は「当事者をありのままに受け入れなければ差別だ」という重圧を背負わされている。
もちろん、当事者たちは、社会によって傷んできた。しかし社会の方も、当事者たちを受け入れようと傷んできたのではないか。その善良な、あるいは不可避の痛みを無視して、まだまだ足りない、もっともっと受け入れてほしいと、重圧を押し付けることは果たして是であろうか。
自分はLGBTQ当事者だ。
しかし同時にクリスチャンでもあり、日本という社会に生き、世界の一部を構成する砂粒だ。
その神を信ずる砂粒が、どのような神の意図によってLGBTQという言葉を背負う者として生まれたのか、それは分からない。
ただ一つ言えることは、LGBTQ当事者は社会に対して不誠実であったということを、LGBTQの渦の中から眺めていたということだ。
そのことが、これからどのような人生へ、また人間関係へと発展していくかは分からない。
しかし、LGBTQが隣人の痛みに関心を払ってこなかったことを知る者として、もっと自分のこと、さらには自分の周りのことを知らなければならないと思う。
もっと知りたいこと。
それは、自分のこと。