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3/12/2023, 12:13:49 AM

「平穏な日常」は、切に求めてやまないものだ。
大切な人の生活はそのようなものであってほしいと願うし、自分の生活もそうでありたいと思う。
過去、どのようなことがあったのかということにかかわらず、それは今と未来で手に入れられるものだと信じたい。
過去にとらわれ、過去に支配されることを受け入れてしまうなら、それは非活動的であるゆえに楽かもしれないが、幸せで平穏な日常というものは手に入らない。
過去に打ち勝つ必要はない。過去に苛まれながらも、幸せを手にしている人はいる。そのような人を、人は軽蔑しないだろう。それに、自分でも憧れを抱くだろう。
時折不死身のように過去がよみがえり、今を蝕むような感覚になったとしても、そのような人への憧れは死なないだろう。
今、窓の外で小鳥が鳴いている。雀のような小さな鳥だ。
こういう小鳥たちは、今を生きるのに必死だろう。小鳥たちのフィールドには、鳶やカラスのような天敵もいるのだから。
でも、危険なフィールドに生きていながらも、こんなにも幸せそうに鳴くのはなぜだろう。
そういう姿に、人間は近づくことはできるだろうか?

3/11/2023, 6:30:59 AM

「愛と平和」ということだけど、憂鬱な気分で何も浮かんでこない…。
自分の人生には愛は乏しく、はっきり医療者から言われたことでは、過去に虐待と性虐待がともに存在し、今の精神を蝕んでいるということだ。
平和というのも、自分の人生には乏しかった。幼稚園から大学に至るまで、学校にはいじめと嘲笑が併存し、自分の存在を肯定される環境になかった。
愛も平和も、遠い存在だった。
当時、子供の時分には特に感情などなかったが、それは感情を波立たせると死んでしまうおそれがあったからかもしれないと思う。感情さえなければ、自分の中だけでも空虚で空っぽであれば、指人形のようでいさえすれば、その中に他人の負の感情が紛れてこようとも通り過ぎるものと思っていたのかもしれない。
事実、小学校時代のいじめのときには、「まあ5年後にはこの人たちともお別れだしな、一生付き合うわけじゃないし」と思っていたことを覚えている。とても賢かったと思う。実際に卒業を期にその人たちとも今生の別れとなり、中学では新たな嘲笑が始まった。嘲笑の内容も一新され、人々は嘲笑うことを楽しんでいた。
虐待もいじめも嘲笑も、今となっては幸福にはすり替えられない。どこまでもそれは確かに経験したことであって、否定したら嘘になる。だから、事実だったと受け止めるより他に、逃げ道も用意されていないのが本当のところだ。
今はうつ病と闘っている。解離も幻覚もある。でも、虐待者やいじめっこたちは健康に生きていることだろう。その人たちの人生には、愛と平和とが満ち満ちていることだろう。
今から愛と平和を手にすることはできるだろうか?