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もっと知りたいこと。
それは、自分のこと。
どれだけ一緒にいようとも、自分と自分を取り巻く物事の間には、複雑さが多い。
特に、性別やジェンダーのことについて、それは社会を揺るがす大きな課題となっている。
自分はLGBTQの当事者だが、それ故にこの問題の大きさを知らなければならない。
元々、LGBTQという言葉が生まれる前から、このような問題は―記録に残っているだけでも古代から―人々の間でストレスとなっていたと思う。自分は異常ではないかという個人のストレス。家族は、または隣人は異常ではないかという人へのストレス。
しかし現在、LGBTQを「異常」とみなすのは、一部のクリスチャンを始めとした宗教家か、政治的な意見を持つ普通の人々かに限定されるように見える。
確かに、自分でも自分のことを「異常ではないか」と思い悩んでいる、またそのような過去を持つ人にとって、「異常である」と断定されることは、受け入れがたいことだ。
しかし逆に、「何でもいいよ、許されるよ」という意見や風潮も、当事者に特定のコミュニティ、特定の人、特定の言葉への依存を引き起こし、必ずしも賢明ではない。
それに、LGBTQ独特の文化や雰囲気に目を留めてみると、伝統的なイメージを踏襲しない生き方やあり方をしている当事者を「差別」し「排斥」してきたことは否定できない。その反動として、「多様性」という言葉を旗印と掲げ、あまねくセクシャリティを包括しようと躍起なのも確かだ。
当事者間のそのような動きに対して、社会は「当事者をありのままに受け入れなければ差別だ」という重圧を背負わされている。
もちろん、当事者たちは、社会によって傷んできた。しかし社会の方も、当事者たちを受け入れようと傷んできたのではないか。その善良な、あるいは不可避の痛みを無視して、まだまだ足りない、もっともっと受け入れてほしいと、重圧を押し付けることは果たして是であろうか。
自分はLGBTQ当事者だ。
しかし同時にクリスチャンでもあり、日本という社会に生き、世界の一部を構成する砂粒だ。
その神を信ずる砂粒が、どのような神の意図によってLGBTQという言葉を背負う者として生まれたのか、それは分からない。
ただ一つ言えることは、LGBTQ当事者は社会に対して不誠実であったということを、LGBTQの渦の中から眺めていたということだ。
そのことが、これからどのような人生へ、また人間関係へと発展していくかは分からない。
しかし、LGBTQが隣人の痛みに関心を払ってこなかったことを知る者として、もっと自分のこと、さらには自分の周りのことを知らなければならないと思う。
もっと知りたいこと。
それは、自分のこと。

3/12/2023, 6:33:38 PM