取り分け寂しかったわけでも、
何かが足りなかったわけでもなかった。
ただ、君と会う回数が増えるにつれて、
距離が気になるという、かすかな違和感が生まれた。
それからは、近いか遠いかを、
僕のどこかが勝手に測り始める。
測っている理由など、考えもしなかった。
気がつけば、
君の存在そのものが、引っかかっていた。
言葉も、動きも、沈黙も、
特別ではないはずなのに、通り過ぎない。
「好きだ」
その声に応えるように、君の視線がこちらを向く。
呼吸は、君の調子をなぞり、
姿勢は、理由もなくひらいていく。
触れていないのに、
身体はすでに、触れる前提で構えられている。
まだ越えていない距離にある君を、
引き寄せたい。
ただ、境界を、
もう少しだけ柔らかくしたかった。
拒まれないか、壊れないか。
香りの近くへ伸ばす動きは、自然と慎重になる。
触れたい衝動と、
触れない選択肢を同時に抱えたまま、
この距離は、
もう少し縮めても大丈夫なのか、
という問いが、揺れ続ける。
愛情表現とは呼べない。
いまは、確かめたいだけだった。
君は、僕の視線を受け止め、
その瞼を、そっと閉じる。
触れて、重ねて、ほどき、
白い肌の微かな震えを、なぞる。
それでも、君は拒まない。
ここまで揃ってしまって、
衝動は、緊張を越える。
スカーフのような生地。
その内側に潜んでいた、想定外のやわらかさ。
応えが返ってくる場所が、
どこかにあるはずだと思っていた。
けれど最初の反応は、
期待していたほど、はっきりしない。
拒まれはしない。
けれど、深くもならない。
力を抜くと、遠ざかり、
合わせると、わずかに遅れる。
正解を探すように、
指先は、少しずつ位置を変える。
速度を落とし、間を置き、
それでも、確信には届かない。
君の吐息は、
声になる手前、
呼吸や重心の揺れとして、兆している。
それに気づいた瞬間、
触れる意味が変わる。
与えるためではなく、
感じ取るために、触れている。
反応を引き出そうとしていたはずの僕が、
いつの間にか、
君の内側で起きている変化を、
待つ側に回っている。
制御していると思っていたリズムが、
内部で勝手に進み始め、
思考は、遅れる。
合わせているのか、
引き出されているのか、
区別が曖昧になる。
自分の内側だと思っていた感覚が、
君の変化に引きずられ、位置を変える。
関わっているはずなのに、
主体の感触が、薄れていく。
指は、君の指に絡まり、
壊さないよう見張る自分と、
振り切ろうとする自分が、同時にいる。
気づけば、強く抱きとめられていて、
向かうはずだった注意が、
自分の深部で、詰まる。
意識は内側に折れ、
焦点は、急速に狭まっていく。
導いているはずの位置で、
導かれていたことが、露わになる。
律動は、合わせた覚えがないのに、
ずれた瞬間だけが、はっきりとわかる。
言葉は、もう追いつかない。
周縁が、静かに脱落していく。
触れているという事実だけが、
身体を、支配していく。
「僕が感じている」でもなく、
「君を感じている」でもない。
感情ですらない。
ただ、誤認された密度のまま、
揺さぶられる。
やがて、
処理しきれなくなった知覚の底へ、
君を道連れにして、落ちていく。
……
意識は再び、一人分に戻り、
輪郭は、回収される。
一瞬、
単数でも複数でもなかった、
という違和感だけが残る。
呼吸を整えるころには、
距離は、もう意識にのぼらなかった。
題 特別な夜
海底は、静かだと思われがちだけれど、
実際には音が多い。
遠くで軋む音、
何かが崩れる鈍い振動、
自分の動きが、
水の重さに歪められて
遅れて返ってくる感じ。
暗いというより、
色が減っている場所だ。
青はまだ残っているけれど、
赤は最初に失われる。
感情の中で言えば、
怒りや高揚が先に消える。
海底では、
希望も絶望も
同じ比重で沈んでいる。
どちらも浮力を持たない。
だからここでは、
「前向き」も「後ろ向き」も意味を持たない。
あるのは、
今どの深さで泳いでいるかだけ。
明日が見えない者にとって、
挨拶は水面での息継ぎのようなものだ。
次の「おはよう」を目指して深く潜り、
その次の「おやすみ」を目指して流れに抗う。
言葉は長くいられない。
文は削られ、
比喩は機能だけを残す。
装飾は水圧に潰される。
その代わり、
挨拶みたいな短い音が
よく響く。
それは会話じゃない。
位置確認だ。
冷たく刺さる水に凍え、
揺れる光が波の隙間をすり抜けていく。
その心細さを知らなければ、
挨拶のやわらかな重みには気づけなかった。
海底にいる者同士は、
相手を救おうとしない。
引き上げようともしない。
ただ、
同じ圧の中に
他の鼓動があると知る。
いくら好きな者同士でも、毎日話題があるわけじゃない。
ひとは本当は言葉を交わしたいのではなく、
ただ隣で寄り添いたいだけだから。
挨拶は必要なんだ。
義務やスローガンにされると、
途端にその効力は見えにくくなるけれど。
光は届かないわけじゃない。
ただ、
意味を持つほど強くない。
だから、
海底の言葉は
励まさないし、叱らないし、導かない。
でも、
嘘をつかない。
……ここが、
私の見ている海底。
題 海の底
会っても何も解決しないと知っている理性。
楽しませることを引き受けないという選択。
それでも、向いてしまう意識。
それらはすべて、
昼のあいだは
きれいに整列している。
夢は、その整列を崩す場所だ。
そこでは
「会ってはいけない理由」も
「会いたいと言わない誠実さ」も
効力を失う。
ただ、
意識が畳み損ねたまま残した余白に、
すっと入り込んでしまう。
無意識が、
未完のままでも成立する接触を
夢の中で試している。
朝になって、
胸が、少し重い。
題 君に会いたくて
それは
窓を開けたつもりで
ずっと排気口に顔を近づけていた、
そんな感じだ。
Xは、
スケジュール帳でもなく、
広告の掲示板でもなく、
元々、昔は
声に出すほどでもない言葉の避難場所だった。
今日あったこと、
今浮かんだ違和感、
まだ整理されていない感情。
完成させる気のない文章を
息の延長みたいに置いていく場所。
あれは主張じゃなく、
記録でも宣言でもなく、
思考が自分の形を探す途中の音だった。
私は書いていなかった。
掲げてもいなかった。
他人の日記の頁を、延々とめくっていただけ。
でも、そのうち、
あの呟くような日記は、掲示物に変質した。
読む前提、評価される前提で言葉が歪んでいく。
そうなると、
もう
呟きを置く場所じゃなくなる。
風のつもりで吸い込んだものが
実は
誰かの焦げた言葉や
未消化の怒りの粉塵で、
肺の奥に
静かに積もっていく。
最初は
「少しむせるだけ」だった。
目も冴えるし、
世界をどう誘導したい人がいるのかを、
感じられる気もした。
でも
気づくと
心拍が一拍早くなり、
思考は常に
警報音の横に置かれるようになっていた。
だから目を伏せた。
ページを閉じた。
言葉の洪水から
視線だけを引き上げた。
逃げたわけじゃない。
酸素濃度を
自分の体に戻しただけ。
今は
静かな場所で
呼吸がちゃんと
胸まで届く。
世界はまだ騒がしい。
でも
その全部を
吸い込まなくていいことを
思い出しただけだ。
題 閉ざされた日記
木枯らしは、
何かを壊そうとして吹いていない。
ただ、
空気の粒を荒らし、
砂を巻き上げ、
呼吸の経路にノイズを流し込む。
感知器は壊れていない。
むしろ、よく拾う。
音も、間も、
ため息の角度も、
沈黙の長さも。
だから、
身体の内側では
選別と予測と防御が
休みなく走る。
まだ起きていない衝突の
予告編だけが
繰り返し再生される。
木枯らしは、
敵の姿を見せない。
どこから吹いているのかも
いつ止むのかも
はっきりしない。
ただ、
「安全ではない」という情報だけを
一定の風量で送り続ける。
逃げ場はない。
止める対象もない。
だから神経は
未確定の緊張を抱えたまま
拘束される。
外から見れば、
誰も殴られていない。
何も起きていない顔をしている。
けれど、
回転部には砂が残る。
アクセルを踏んでも
力はきれいに伝わらない。
反応は遅れ、
判断は鈍り、
思考は重くなる。
それは破壊ではなく、
摩耗だ。
跡は残らない。
ただ、
神経系の奥に
乾いた冷気だけが居座る。
木枯らしは過ぎ去っても、
身体はまだ
その風向きを
記憶している。
これは嘆きではない。
長く吹きさらしの場所で
生き延びた結果としての
静かな後遺症。
木枯らしとして
読むことができる、
確かな事実。
題 木枯らし