蓼 つづみ

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海底は、静かだと思われがちだけれど、
実際には音が多い。

遠くで軋む音、
何かが崩れる鈍い振動、
自分の動きが、
水の重さに歪められて
遅れて返ってくる感じ。

暗いというより、
色が減っている場所だ。

青はまだ残っているけれど、
赤は最初に失われる。

感情の中で言えば、
怒りや高揚が先に消える。

海底では、
希望も絶望も
同じ比重で沈んでいる。
どちらも浮力を持たない。

だからここでは、
「前向き」も「後ろ向き」も意味を持たない。

あるのは、
今どの深さで泳いでいるかだけ。

明日が見えない者にとって、
挨拶は水面での息継ぎのようなものだ。

次の「おはよう」を目指して深く潜り、
その次の「おやすみ」を目指して流れに抗う。

言葉は長くいられない。
文は削られ、
比喩は機能だけを残す。

装飾は水圧に潰される。
その代わり、
挨拶みたいな短い音が
よく響く。

それは会話じゃない。
位置確認だ。

冷たく刺さる水に凍え、
揺れる光が波の隙間をすり抜けていく。

その心細さを知らなければ、
挨拶のやわらかな重みには気づけなかった。

海底にいる者同士は、
相手を救おうとしない。
引き上げようともしない。

ただ、
同じ圧の中に
他の鼓動があると知る。

いくら好きな者同士でも、毎日話題があるわけじゃない。

ひとは本当は言葉を交わしたいのではなく、
ただ隣で寄り添いたいだけだから。

挨拶は必要なんだ。
義務やスローガンにされると、
途端にその効力は見えにくくなるけれど。

光は届かないわけじゃない。
ただ、
意味を持つほど強くない。

だから、
海底の言葉は
励まさないし、叱らないし、導かない。

でも、
嘘をつかない。

……ここが、
私の見ている海底。

題 海の底

1/20/2026, 11:50:30 AM