鳥は、
「この色が好きだ」と考えてはいない。
ただ、その刺激だけが、
ほかよりも高い処理優先度を与えられている。
人も同じだ。
美しいものを見たとき、
「怠惰が読み取れないからだ」とは思わない。
「努力の結果だ」とも思わない。
ただ、
足が止まり、
息が一拍遅れ、
視線が引き寄せられる。
その反応は、感情ではない。
痩せていることは、美しさそのものではない。
飾り気のなさは、怠惰の証明でもない。
健康に近づくことは、美しさに近いが、正解ではない。
表情も同じだ。
笑顔が張り付けば、
それはもはや好まれるとは言えなくなる。
覇気が過剰になれば、
そこには息苦しさが生まれる。
幼稚園の担任が、子どもたちに向けて
「今日も、みんないい顔してるね」
そう言うときの“いい顔”は、
美しさにかなり近い。
けれど、それもまた唯一の答えではない。
退廃的な美も、確かに存在する。
人の美しさも、
本来はもっと、
花が咲いたり、
光が屈折したりするのと、
近い場所にあったはずだ。
山が空気の層を、
静かに切り替える場所に、
サンカヨウという花が咲いている。
図鑑に載る白は、少し雄弁だ。
実際の花は、
手のひらに隠れるほどの在り方で、
群れても、主張しない。
雨が音を細かくほどき、
地に潜り、
眠っていた香気を
ゆっくりと立ち上がらせるころ、
そのやわらかな花弁は、
降り注ぐ雫に触れ、
静かに、白の役目を終える。
消えたのではない。
ただ、光を受け取るのをやめ、
水と世界のあいだへ、身を透かす。
形は残る。
その小さな質量は、
確かにそこにある。
可視性だけを手放し、
内部を、そのまま差し出してくる。
花びらは光に透け、
雨粒を抱えたまま、
薄い水の膜のように、
ごくわずかに波を打つ。
細胞に水が満ち、
境界はやわらかく曖昧になり、
花は世界と同じ屈折率を持つ。
息を詰めるのは、見る側だ。
壊れそうだと、
勝手に思い込まされてしまう。
けれど雨が去れば、
白はまた、何事もなかったように戻ってくる。
それが脆さではなく、
一時的な同化だったことを、
静かに知らせる。
美しさと呼ばれるものは、
対象の性質ではなく、
それを見る側の屈折率として、
ふと立ち上がる。
題 美しい
ひとも空も
木も草も
くるり、くるりと
ないて、わらう。
風は みみをくすぐり
光は ゆびをすりぬけ
影は あしもとで
くるくる、くるくる
たのしそうに踊る。
世界はぐるぐる
止まりたくても止まれない。
ぐるぐる、ぐるぐる
回っちゃうから
ちいさな かけらが
目のはしで キラリ、キラリ。
手をのばせば
ゆびさきが ふれそうなところで
ぐるぐる、ぐるぐる
だから心は ふわり、ふわり。
私たちをのせて
今日も世界はぐるぐる。
ぐるぐる、ぐるぐる
ぐるぐる、ぐるぐる
ぐるぐる、ぐるぐる
回っている。
題 この世界は
どうして、実際に傷害や暴行が起きているのに、
それが“いじめ”という曖昧な言葉に回収され、
刑事事件として即座に扱われないのか。
どうして、被害が発生している事実よりも、
学校内の空気・立場・大人の都合が優先されるのか。
どうして、被害者や目撃者が“通報する”という
本来まっとうな選択肢を、最初から与えられていないのか。
どうして、子どもは
「自分が何をされたのか」「それがどの罪に当たるのか」を教えられないまま我慢を強いられるのか。
どうして、記録を積み重ねて守るという
正当な自己防衛が“面倒な行為”“空気を乱す行為”として
忌避されるのか。
どうして、当事者の被害よりも、
学校や大人が責任を問われない構図を守ることが
優先されてしまうのか。
どうして、道徳は
「やめよう」という理想論だけを語り、
「被害を認識し、身を守り、通報する権利」を
教えないのか。
どうして、人権より校則が前に出てくるのか。
どうして、大人は
“うまく回らない何か”を理由に、
まだ試されてもいない選択肢を
最初から潰してしまうのか。
どうして、この社会は、
被害が起きた事実よりも、
大人が面倒を見なくて済む仕組みを守ることを
優先してしまうのか。
どうして、「守られるべき人」が、
自分を守るための知識と手段を
最初から与えられていないのか。
子どもがスマホを持つ時代に、
通報が電話前提のままなのは、
技術の遅れではなく、
責任から逃げたい側の都合だ。
ワンタップで出来るはずなのに出来るように未だになっていない。
「被害者がいる」
「今起きている」
「人数」 を選択式で送信
GPS自動添付(任意)
動画・音声の即時アップロード
匿名/仮名での一次通報
通報ログを自動で時系列保存
全部、既存技術。
新発明は一つもいらない。
こんな機能は更新すべき時期を、とっくに過ぎている。
今ある“子供のSOSを受け取ります”系の相談窓口を、子ども専用の準通報機関として再配置し、公式記録をとればいい。
準通報機関と、警察と学校、スクールカウンセラーで連携し「記録と選択肢」を最優先にする。一定件数、一定の重さ、連続性があれば、自動で次の機関にエスカレーションすればいい。記録を残し、安全な話し合いも、介入も、すべてその後で判断すれば、話し合いで解決しようとした子どもが再被害にあったときに戻れる場所にもなれる。
いたずら電話は今もある。虚偽申告、誇張、勘違い、感情的な訴えも、すでに山ほどある。いたずらかどうかはログを見れば一発でわかる。いたずらが混じることより、本物が沈むことの方が圧倒的に重い。
「お前が傷つけている相手は弱いから標的になっているんじゃない。
お前が、自分の弱さから目を逸らすために選んでいるだけだ。
でもな、それを やめてもお前は消えない。
誰かを壊さなくても、お前は立っていられる。
お前がやっているのは、暴行罪、傷害罪、器物損壊罪、
窃盗罪、脅迫罪、強要罪、恐喝罪、侮辱罪、名誉毀損罪、強制わいせつ罪だ。
ひとを踏みにじって得た居場所は、いつかお前自身を殺す。」そう、早いうちに警告してやることのどこが大袈裟なのか。
クラスメイトが見て見ぬふりをしているのではなくて、
大人が見て見ぬふりをしているから子どもも見て見ぬふりをせざるを得ないだけではないのか。
どうして、大人になるまで放置するのか。
どうして、取返しがつかなくなるまで放置するのか。
私たちは、“この人が悪い”と考えるシンプルな物語として、ドラマの中でいじめを描き、社会制度や構造のような複雑で因果関係を理解するのが難しいことを脇に置き、
“単純なストーリーに落とし込む方が心理的に楽になる”という訓練を娯楽という形でしてしまっているのではないか。
題 どうして
同じ時間、同じ場所。
でも、気づきや感覚の層をほんの少し増やすだけで
現実の奥行きは深くなる。
景色や物事を、通り過ぎさせずに楽しむ。
自分が面白いと思うものに、少しだけ注意を向ける。
それだけで、ルーティンは静かに立体を帯びる。
初心者は、手元に触れるものを意識的に変えてみる。
上級者となると、大概のことは面白がれる。
小さな工夫が、日常に色を差す。
世界の扱い方を見直せば、
現実をより濃く、立体的に感じられる。
題 夢を見てたい
僕等は、夜に憧れる地点にいる。
この広い世界で、ふたりきり。
意味も、目的も、評価も、要らない。
ただ、互いの呼吸を確かめている。
耳をあてれば、
六億回目に鳴る命。
ずっと、成長しなければいいのにね。
けれど、
それほど幼くもない。
題 ずっとこのまま