人間の内側にある「可視化されにくい差異」や「個別の痛み」に関する理解は、今も置き去りにされている。
なのに、社会は可視化されやすい部分だけをまとめ、声高に理解を求める。どこか不気味だ。
人の痛みは本来、静かで、局所的で、関係の中でしか手渡せずに扱われてきた。それはとても人間的な前提だ。
ひとの痛みが政治利用される気配すらある。
個人の痛みは、本来であれば、誰かひとりに理解してもらえればそれでよく、そうやってひとは繋がってきたんだ。
私はノンバイナリーで、サピオセクシュアルだが、それを社会全体に理解してほしいなどと考えたことはない。
もし、個人の理解を増やすことが目的ではなく法的な改善を望む人たちがいるのだとすれば、それは政治の場で語ればよい。
だが、小学校の性教育からオールドメディア、教育番組に至るまで、それ一色になるのはかなり異様だよ。
ひとの痛みが、扱いやすい記号にまとめられ、声高に掲げられ、善悪や正義の文脈に回収される。
その結果、誰の痛みなのか分からなくなる。
このとき、痛みはもはや当人のものではなく、政治的・社会的に“使いやすい資源”となる。気味の悪い構造だ。
ここで起きている断絶は、「理解が足りない」ことではない。
問題は、痛みの取り扱い方が変質していることだ。
痛みを否定しない。否定しない者こそ、そこに違和感を覚える。
社会不信を抱える人は、必ずしも人を嫌っているわけではない。
むしろ個々の人の弱さや善意をよく見ているからこそ、それをすり潰す仕組みに耐えられない場合がある。
別になにも叫ばずとも、
「十人十色」という言葉は、最初からあった。
善意も痛みも、最初からあった。
そして、それを利用する者がいる事実も、最初からあるんだよ。
ただ、それだけだ。
題 色とりどり
息を吐くたび、
透明な空気が体の奥を通り抜けていく感覚があった。
だが、足跡がひとつ、またひとつと刻まれるたび、
白い肌は日常の痕跡を受け入れるように崩れてゆく。
靴底に巻き込まれた泥や、溶けた水に混じる土の色が、
純潔を静かに侵していく。
舞い落ちる粒が、肩や髪を濡らし、
その冷たさが、小さな瑞々しさとともに、
確かな痛覚を伝える。
踏み荒らされた表面は、かすかに光を反射し、
光沢を帯びる。
清らかさはすでに日常の色に染まり、
世界の透明さは戻らぬものとして、
熱と湿り気の記憶だけを残した。
題 雪
勘違いされることが多いが、
七草粥は、縁起がよいから食べるのでも、
栄養があるから食べるのでもない。
あれは、境界を作る所作だ。
願掛けのようではあるが、神頼みの取引とは違う。
何かを叶えてもらうための行為ではない。
食べたからといって、何かが劇的に変わる保証もない。
効くかどうかは、わからない。
その不確実さを承知の上で、毎年、続ける。
つまり、七草粥とは、
生活に対する態度表明なのだ。
『君がため 春の野に出でて 若菜摘む
我が衣手に 雪は降りつつ』
光孝天皇が詠んだこの歌は、百人一首にも収められている。
ここでいう若菜とは、春の七草のことだ。
誰かのために、ひとり野に出る。
春とは名ばかりの野で、衣の袖を濡らし、
手を冷やしながら草を摘む。
その行為は、華やぎではない。
生き延びるための、静かな選択である。
冬を越え、身体を養うために、
まだ脆い春へと手を伸ばす。
その感触は、時代を越えて、
令和を生きる私たちとも、同じ層でつながっている。
今夜、まな板の上に七草を乗せる。
無病息災を願う、ささやかなまじないとして、
わらべ歌を口ずさむ。
わらべ歌は、意味がわからなくても成立する。
音とリズムが、先にある。
「七草なずな 唐土の鳥が
日本の国へ 渡らぬ先に
ストトン、トンと ストトン、トンと」
若菜は、まだ刻まない。
ただ、まな板を軽く叩く。
すると若菜は、板の上で小さく弾む。
音は控えめで、やわらかい。
刻んでいるのは、草ではない。
内と外、去年と今年、生と病を切り分けるための、
見えない境目だ。
響く音は結界となり、場を整える。
そして翌日、その若菜を粥に入れ、
身体の奥へと通す。
せり、なずな、ごぎょう、はこべら、
ほとけのざ、すずな、すずしろ。
名を呼び、刻み、煮て、迎え入れる。
それは祈りであり、生活であり、
春を信じるための、静かな所作だ。
離乳食を思わせるような、
素材を確かめる味がする。
誰かの歌が、引用としてではなく、
同じ手の冷えとして戻ってくる。
春を「まだ信用しきれないもの」として扱い、
それでも手を伸ばす。
その慎重さと希望の同居。
現在が、過去を必要としている瞬間。
時間は一直線ではなく、
層になり、触れ合い、
ふとした所作で透けて見える。
私は、こんなことにロマンチックさを感じてしまう。
生きていることそのものが、もうロマンチックだ。
ただし、劇的だからではない。
意味が保証されていないのに、
なお続いているからだ。
若菜を摘むこと。
まな板を鳴らすこと。
翌日、粥として身体に通すこと。
それらはすべて、
「生きていたほうがいい」という結論を、
言葉にせず、選び続けている行為だ。
絶望が論理として成立してしまう世界で、
それでも身体を養う。
それでも春を試す。
それでも名を呼ぶ。
それは希望というより、態度だと思う。
思想ですらなく、
生活の側にある選択。
だからこの感覚は、
「生きろ」という命令とも違うし、
「人生は素晴らしい」という標語とも違う。
ただ、
“死”に夢を見るよりも、“生”を選ぶほうが、
手触りがあり、層があり、
ロマンがあるという、
静かな実感なのだ。
題 君と一緒に
身構えさせる風が、
今年の冬には少ない。
冷えを誇張しない冷気に
動物は身を竦めずにいられるが、
かといって
温もりは約束されていない。
澄んだ空気は肺を濯ぎ、
それでも鋭さにはならず、
触れても骨までは冷え込まない。
記憶の底に残っていた
季節の手触り。
近年の過剰な冷えに
上書きされていただけの、
本来の冬の像だろうか。
緊張を強いられないまま、
世界と同じ温度で立てる。
題 冬晴れ
幸せとは、定義しようとすると逃げてしまうものではないだろうか。
例えば、無理矢理に定義するのなら、
「小さな光を生み出せる環境と、
それを拾ってしまう感性が、
偶然、重なった瞬間」
などと言葉に出来る。
けれど、そうした途端に、言葉は堅くなり、
本来の質感は損なわれてしまう。
では例えば、
「凍える日に分け合う肉まんのようなものだ」
と表してみると、
今度は、出来事を平坦にしてしまう。
さらに、
「長く続くものではない」
「努力の報酬ではない」
「幻想だ」
などと否定で囲い込んでみても、
それらはどれも、どこか現実を歪めてしまう。
どれも間違いとは言えない。けれど、確かでもない。
きっと、幸せを説明しようとすること自体が、
そもそも野暮なのだ。
題 幸せとは