人間の内側にある「可視化されにくい差異」や「個別の痛み」に関する理解は、今も置き去りにされている。
なのに、社会は可視化されやすい部分だけをまとめ、声高に理解を求める。どこか不気味だ。
人の痛みは本来、静かで、局所的で、関係の中でしか手渡せずに扱われてきた。それはとても人間的な前提だ。
ひとの痛みが政治利用される気配すらある。
個人の痛みは、本来であれば、誰かひとりに理解してもらえればそれでよく、そうやってひとは繋がってきたんだ。
私はノンバイナリーで、サピオセクシュアルだが、それを社会全体に理解してほしいなどと考えたことはない。
もし、個人の理解を増やすことが目的ではなく法的な改善を望む人たちがいるのだとすれば、それは政治の場で語ればよい。
だが、小学校の性教育からオールドメディア、教育番組に至るまで、それ一色になるのはかなり異様だよ。
ひとの痛みが、扱いやすい記号にまとめられ、声高に掲げられ、善悪や正義の文脈に回収される。
その結果、誰の痛みなのか分からなくなる。
このとき、痛みはもはや当人のものではなく、政治的・社会的に“使いやすい資源”となる。気味の悪い構造だ。
ここで起きている断絶は、「理解が足りない」ことではない。
問題は、痛みの取り扱い方が変質していることだ。
痛みを否定しない。否定しない者こそ、そこに違和感を覚える。
社会不信を抱える人は、必ずしも人を嫌っているわけではない。
むしろ個々の人の弱さや善意をよく見ているからこそ、それをすり潰す仕組みに耐えられない場合がある。
別になにも叫ばずとも、
「十人十色」という言葉は、最初からあった。
善意も痛みも、最初からあった。
そして、それを利用する者がいる事実も、最初からあるんだよ。
ただ、それだけだ。
題 色とりどり
1/8/2026, 10:51:59 AM