蓼 つづみ

Open App

勘違いされることが多いが、
七草粥は、縁起がよいから食べるのでも、
栄養があるから食べるのでもない。
あれは、境界を作る所作だ。

願掛けのようではあるが、神頼みの取引とは違う。
何かを叶えてもらうための行為ではない。

食べたからといって、何かが劇的に変わる保証もない。
効くかどうかは、わからない。
その不確実さを承知の上で、毎年、続ける。

つまり、七草粥とは、
生活に対する態度表明なのだ。

『君がため 春の野に出でて 若菜摘む
我が衣手に 雪は降りつつ』
光孝天皇が詠んだこの歌は、百人一首にも収められている。

ここでいう若菜とは、春の七草のことだ。
誰かのために、ひとり野に出る。
春とは名ばかりの野で、衣の袖を濡らし、
手を冷やしながら草を摘む。
その行為は、華やぎではない。
生き延びるための、静かな選択である。
冬を越え、身体を養うために、
まだ脆い春へと手を伸ばす。
その感触は、時代を越えて、
令和を生きる私たちとも、同じ層でつながっている。

今夜、まな板の上に七草を乗せる。
無病息災を願う、ささやかなまじないとして、
わらべ歌を口ずさむ。
わらべ歌は、意味がわからなくても成立する。
音とリズムが、先にある。

「七草なずな 唐土の鳥が
日本の国へ 渡らぬ先に
ストトン、トンと ストトン、トンと」

若菜は、まだ刻まない。
ただ、まな板を軽く叩く。
すると若菜は、板の上で小さく弾む。
音は控えめで、やわらかい。
刻んでいるのは、草ではない。
内と外、去年と今年、生と病を切り分けるための、
見えない境目だ。
響く音は結界となり、場を整える。

そして翌日、その若菜を粥に入れ、
身体の奥へと通す。

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、
ほとけのざ、すずな、すずしろ。

名を呼び、刻み、煮て、迎え入れる。
それは祈りであり、生活であり、
春を信じるための、静かな所作だ。
離乳食を思わせるような、
素材を確かめる味がする。

誰かの歌が、引用としてではなく、
同じ手の冷えとして戻ってくる。

春を「まだ信用しきれないもの」として扱い、
それでも手を伸ばす。
その慎重さと希望の同居。

現在が、過去を必要としている瞬間。
時間は一直線ではなく、
層になり、触れ合い、
ふとした所作で透けて見える。

私は、こんなことにロマンチックさを感じてしまう。

生きていることそのものが、もうロマンチックだ。
ただし、劇的だからではない。
意味が保証されていないのに、
なお続いているからだ。

若菜を摘むこと。
まな板を鳴らすこと。
翌日、粥として身体に通すこと。
それらはすべて、
「生きていたほうがいい」という結論を、
言葉にせず、選び続けている行為だ。

絶望が論理として成立してしまう世界で、
それでも身体を養う。
それでも春を試す。
それでも名を呼ぶ。
それは希望というより、態度だと思う。
思想ですらなく、
生活の側にある選択。

だからこの感覚は、
「生きろ」という命令とも違うし、
「人生は素晴らしい」という標語とも違う。

ただ、
“死”に夢を見るよりも、“生”を選ぶほうが、
手触りがあり、層があり、
ロマンがあるという、
静かな実感なのだ。

題 君と一緒に

1/6/2026, 11:32:08 AM