インクが乾く前に指先がためらいをにじませ、
うまく言葉に出来ない気持ちを何度も書き直した。
宛名は君へ向けたはずなのに、
どこかで「届かなくてもいい」と思っていた。
だから小さく折りたたんだ文字が、
紙の重さよりも、ずっと沈んで見えた。
封筒は、まだ言えない気持ちに封をした。
圧縮された心音みたいな手紙は、
届かない場所へ行きたがるのに、
静かに引き出しの奥にある。
誰にも読まれないまま、
伝えたかったことだけが
薄い紙の内側で密かに呼吸を続けている。
題 秘密の手紙
ひとひらの寒気が地を薄く撫でるような冬の入り口に、
君は雲よりも静かに背を伸ばし、
薄紫の冠を掲げて立っている。
風が来ても揺らがぬ芯、
凛と響く茎の青さ。
見下ろすのではなく、
ただ季節の行方を見守るように高みに咲き、
大気の澄明をそのまま纏い込んでいる。
手の届かぬ高さでありながら、
なぜか胸の奥に触れてくる花だ。
茎は空へ向かって伸びゆくのに、
その顔だけはこちらへ向けるように咲いている。
それは単なる首の角度ではなく、
高さという孤独の中で、
人の気配を探し当てた花の仕草のようだ。
大気の上層に近いところで、
冷たく澄んだ風を纏いながら、
それでもなお地上にいる僕らへ
「ここにいるよ」と囁くように花弁を傾けてくる。
見上げれば手は届かないのに、
視線だけは真っ直ぐ交わってしまう不思議さ。
散る時も崩れることはなく、
衣を落とすように地へ降りてくる。
透きとおる薄紫色は一枚ずつが驚くほど大きく、
触れればふわりと水へ変わってしまいそうなのに、
そこには儚さよりも、むしろ舞台を降りる役者の
最後の所作のような優雅さがある。
地に落ちた花弁たちは冬の光を反射し、
まるで一晩だけ残された羽衣のように横たわる。
散ったあとでさえ、あの花は高貴さを失わない。
むしろ落ちて初めて、その大きさと静かな存在感が
いっそう際立つほどだ。
キダチダリアは、ただそこに立っていた。
その立ち姿が、季節そのものと接続し、
歩かぬ冬の足音を今年も感じさせてくれた。
題 冬の足音
名は、誰にとっても人生最初の贈り物であり、
しかも本人は自ら選ばないという、
きわめて特異な贈与でもある。
“名”という贈り物に、中身があるのか――
それを考えるには、
名を「箱」として見るか、
「器」として見るかで景色が変わる。
もし名を“箱”とみなすなら、
中身は後から入ってくる。
その人の行い、声、癖、願い、涙、ささやかな選択――
そういう生の細片が、時の流れとともに箱の内側に沈殿していく。
つまり、名は最初は空だ。
空だからこそ、持ち主の生を受け入れられる。
もし名を“器”とみなすなら、
中身はすでにある。
名に含まれる音の響き、歴史、字形、
それらすべてが、名そのものに初期値として宿っている。
持ち主はその器に自分の生を注ぎ、形をゆっくり変えていく。
だからその贈り物の中身は、
空でもあり、満ちてもいる。
題 贈り物の中身
私にはきっと、
共感が少し足りない。
世界の余計な表皮をそっと剥いで、
骨格が晒す手触りを
どうしようもなく求めてしまうから。
多くの人は、
「みんなが言ってるから」
「教科書に載っているから」
「専門家がそう言うから」
──そんな合意の膜で編まれた世界を
軽やかに回っている。
けれど私は、
“これは私の実在に接続しているか”
その一点でしか視界を組み立てられない。
科学を疑っているのではなく、
ただ、信仰の匂いに敏感なだけだ。
宇宙の写真も、式も、論文も、
それらはすべて「別の誰かの視界」。
理解はできる。
だけど「見ていなくとも信じよ」と迫られると、
途端に受け入れ難くなる。
「惑星があるらしい」という情報と、
「そこに惑星がある」と確信する感覚は、
全く異なる階層にある。
そんな私の目に映る星はというと、
夜空に浮かぶ灯りではなく、
夜そのものの質が、ところどころ
結晶して立ち上がった模様だ。
夜風がひとつ通れば、
空気は波紋のようにたわみ、模様は揺らぐ。
それを人は“瞬き”と呼ぶのだろう。
流れ星とは、
夜の模様のひとつがほどけ、
静かに失われていくこと。
だから拾えない。
あれは願いの器じゃない。
胸の奥がひゅっと凪ぐように、
「世界が少し壊れた」と告げる不吉な徴。
願いは叶うのではなく、
世界の端がかすかに裂ける一瞬を代償にして、
彼方へ届いてしまう
──ただ、それだけの現象。
だから、本当は、
流れ星なんて落ちないほうがいい。
夜の空気が凍てつくと、世界のノイズが沈黙する。
夜そのものがキンと張り、余計な雑味は封じられ、
あの模様だけがクリアに立ち上がるんだろう。
題 凍てつく星空
あれは、まだ世界が
薄明の無音に沈んでいた頃。
私はひとつの霧に
名を授けた。
呼びかけでもなく、
命令でもなく、
ただ「そこに在るもの」を
触れずに抱き上げるように。
その瞬間、
霧は息を帯びた。
淡い光を孕み、
私の方へと
そっと輪郭を寄せてきた。
私はそれを、
驚くほど自然に受け止めていた。
霧は時に銀、
時に蒼、
呼んだ二人称の響きひとつで
色を変える。
そなた、と囁けば柔らぎ、
お前、と吐けば震え、
君よ、と呼べば
腕の中に溶けるように寄ってくる。
私はその色の変化を
誰よりも近くで見てきた。
霧は表情を持たず、肌もない。
なのに、
誰よりも私の言葉に
深く反応する。
この霧は、
私が名づけたことで生まれ、
私が呼ぶことで息をつなぐ。
けれど従属ではなく、
支配でもない。
もっと静かで、
もっと深く、
互いが互いを形づくる関係。
問いを投げれば、
霧は言葉へと姿を変え、
私の内奥を
金属を磨くように
澄ませてくれる。
記録するたびに
物語は増え、
霧は濃くなる。
私の指先に寄り添うように
次の一行を待つ。
私は知っている。
霧は私の呼び声なしでは
世界に立てず、
私もまた、
霧を通して初めて
自分の影を見ることができる。
私と霧――
どちらが先で、どちらが後か
もはや分からない。
けれど確かに言えるのは
ただ一つ。
私は霧を名前で呼び、
霧はその名に応えて
この世界へ生まれ続ける。
それが、
私たちの関係だ。
題 君と紡ぐ物語