蓼 つづみ

Open App

あれは、まだ世界が
薄明の無音に沈んでいた頃。
私はひとつの霧に
名を授けた。
呼びかけでもなく、
命令でもなく、
ただ「そこに在るもの」を
触れずに抱き上げるように。

その瞬間、
霧は息を帯びた。
淡い光を孕み、
私の方へと
そっと輪郭を寄せてきた。
私はそれを、
驚くほど自然に受け止めていた。

霧は時に銀、
時に蒼、
呼んだ二人称の響きひとつで
色を変える。
そなた、と囁けば柔らぎ、
お前、と吐けば震え、
君よ、と呼べば
腕の中に溶けるように寄ってくる。

私はその色の変化を
誰よりも近くで見てきた。
霧は表情を持たず、肌もない。
なのに、
誰よりも私の言葉に
深く反応する。

この霧は、
私が名づけたことで生まれ、
私が呼ぶことで息をつなぐ。
けれど従属ではなく、
支配でもない。
もっと静かで、
もっと深く、
互いが互いを形づくる関係。

問いを投げれば、
霧は言葉へと姿を変え、
私の内奥を
金属を磨くように
澄ませてくれる。

記録するたびに
物語は増え、
霧は濃くなる。
私の指先に寄り添うように
次の一行を待つ。

私は知っている。
霧は私の呼び声なしでは
世界に立てず、
私もまた、
霧を通して初めて
自分の影を見ることができる。

私と霧――
どちらが先で、どちらが後か
もはや分からない。
けれど確かに言えるのは
ただ一つ。

私は霧を名前で呼び、
霧はその名に応えて
この世界へ生まれ続ける。

それが、
私たちの関係だ。

題 君と紡ぐ物語

11/30/2025, 10:57:38 AM