森の床にはまだ夜露が残り、苔の上には小さな水珠が散り敷かれている。
その上を、木々の隙間から落ちる光の斑がかたちを移しながら揺らめき、ところどころで脈を打つように明滅していた。
ひときわ強く射し込む場所では、小さな草の芽が、訪れた一瞬の光を逃すまいと、そっと葉の表を開いている。
木漏れ日は照らすというより、命へ向けて静かに掌を翳しているようだ。
風が渡ると、光の粒は一斉ではなく、わずかに拍をずらしながら連弾のように揺れ、地面をやさしく撫でていく。
光は絶えず変化する。けれどその移ろいは急ではなく、次にどう揺れるかおおよその予感がある。
光と影の往復を眺めているうちに、いつのまにか自分の呼吸がそのリズムに重なっていく。
呼吸が深くなるのは、光に従うからではなく、光そのものがひとの内側の律動へ寄り添ってくるからだ。
葉の揺れる音、光の瞬き、影の揺らぎ
──森全体が呼吸を共にしているように感じられる。
世界と自分がひそやかに呼応しているという感覚。
自分という存在が、広大な流れの中のほんの一瞬の波にすぎないと確かめていられる安らぎ。
森そのものに包まれ、世界の一瞬の呼吸へ身をゆだねて溶け合うような感覚。
時間も境界も薄れてゆき、心がひたすら澄んでゆく。
題 木漏れ日の跡
近所の散歩道で、
背の低い木のまわりをゆるやかに巻くように、
朝顔の蔓がからまっている。
丸い葉と葉が重なり、
風にそよげば
木と花の境が曖昧になる。
柔らかな陽差しを浴びて
赤むらさき色の花々が一つずつ息をする頃になると、
娘はそれを「あさがおの木」と呼ぶ。
まるで同じ花が戻ってきたように見えるのは、
実際には自然の小さな奇跡で、
種が土に残って芽吹き、自生しているんだ。
今年のその花は思っていたよりも長く姿を見せ、
秋の終わりまで かすかに色を残した。
けれど、11月の風が通うころ、
気づけば蔓はほどけていて、夕映えの色に変わっていた。
また来年、娘とその木を呼びに。
題 ささやかな約束
無垢に広げられた指先は丸く柔らかく、
すり抜けてゆく風さえもぎゅっと握り、
五感いっぱいで世界を受け止めようとしている。
水たまりのさざ波は、
高く弾む笑い声と澄み渡る青を映し出し、
野の小さな花には、目を輝かせながら手を伸ばす。
境界も恐れもまだ知らず、
世界はただ、君の手の届くところから笑い返している。
根源的な祈りは願いの形にならないで、
どうか、その瞳に映る景色がいつまでも光を返し続けますようにと響き続ける。
空は、君の瞳が向いた先から始まって、
でも、君の心の中の広がりのぶんだけ続いている。
――だからきっと、空には終わりがないんだ。
題 祈りの果て
社会不信。
それは、最初から私の中にあったものだ。
子どもだった頃の私は、不条理や理不尽の意味をまだ知らなかった。
大人たちは矛盾した論理で動き、
子どもの純粋な問いかけは、いつも巧妙にずらされていく。
“正気でいようとすること”が、むしろ異常と見なされる空気の中で、私はひとり彷徨った。
泣かず、怒らず、ただ歩き続ける。
「自分は迷宮の中にいる」と静かに感じていた。
理解されない痛み。
秩序の裏に潜む狂気。
それでも、不可解の只中でなお立ち止まらずにいる、小さな意志。
少しずつ、この構造の裏側が透けて見えるようになった今も、世界は依然として「不可解の塊」にしか見えない。
それでも観察をやめず、
迷いながらパターンを指でなぞり、手触りを覚え、
自分なりの地図を描き続ける。
迷っているということは、新しい模様を編み出しているということ。
題 心の迷路
カップの縁に映る彼女の指先が、湯気を揺らす。
それが僕の鼓動に触れて、少し息を止めた。
いま、紅茶が冷めていく。
僕らの沈黙が、温度を奪っていくのかもしれない。
注がれた紅茶は、それを受けとめるカップの上で、静かな震えを広げる。
溢れそうな琥珀の縁を、僕はただ見つめる。
香りの奥で、言葉にしなかった想いが湯気になる。
彼女の心は薄く透ける磁器のようで、少しの熱でも揺らいでしまうから、
僕はその底で、ただ受けとめる皿のように在るんだ。
こぼれる雫も、沈黙も、どれも彼女のかけらだから。
題 ティーカップ