お題「10年後の私から届いた手紙」
不思議なこともあるものだと思う。
私はそのとき、机に向かっていた。夏休みが終わろうとしている8月の末のことだった。
私は明日提出予定のワークとその答えを広げて、3問に1問間違える、いかにも自分で解きましたという雰囲気を出す作業に取り組んでいた。
どうせ、先生も書いてあるかどうかくらいしか確認しないだろうに、なんで自然な回答になるように気をつけているのか。
そんなの、私の性という他ない。
ここは正解しといたことにしよう。
問題によって自分が答えられるかどうかを検討しながらシャーペンを動かしていると、コトン、と何か落ちるような音がした。
下の方から聞こえた気がする。
足元を見るが、自分の足がぶら下がっているだけで、何もおかしなところはない。
あたりを見回すが、終わった宿題が床に散らばっているだけで、何か崩れた様子もない。
机の中か?
机の中に何を入れているか思い出せないまま、私は引き出しを開けた。
そこには、乱雑に置かれたシールやメモ帳など、小学生くらいの時に集めたものが入っていた。そんなものを入れていたことさえ忘れていた私の心は、懐かしさでいっぱいになった。
そんな懐かしさの中に、異質なものがあった。
なんの飾りっけもない紙切れ。ゴミかと思い手にとってみると、確かにしわしわであるが、走り書きのような雑な文字が書かれていることに気づく。
『2023年→2013年 アキラ 許すな』
「え、きもちわる」
思わず声に出る。よく見てみればノートを破ったような紙で、端っこが赤いインクで汚れている。指紋のようになっていて気持ち悪い。そのとき、はたと気づく。
そのインクに触れた指が、赤く汚れていた。違和感があり、顔に近づけると、鉄のような臭いがした。
「血……?」
慌てて紙を手放す。ワークに少し滲みができた。
なんで私の机から血のついた紙が出てくるの? 知らないうちに怪我でもした? そもそも書いた覚えのない紙が出てくるのも意味わからないんだけど。
混乱する頭で、改めて紙を見る。
2023年から矢印があって、2013年と書いてある。部屋に飾ってあったカレンダーを見る。2013年の8月だ。
授業で選挙のことをやった際に、20歳になった自分への手紙を書いたことがあった。そのときの私は、手紙の冒頭に、「2007年→2016年」と書いた。
同じように現在の自分が左側だとすれば、これは未来の自分からの手紙になる。
真剣に考えて、私は馬鹿馬鹿しくなった。
未来から手紙が届くわけない。というか、書いてある年をそのまま鵜呑みにして未来の自分が描いたものだと判断するなんて、頭がゆるゆるすぎる。
きっと弟あたりがイタズラで忍ばせたのだろう。
ついていた血は、きっとさっき机に腕を突っ込んだときにどこか引っかけたのだろう。
そう自分を納得させて、私はその紙をぎゅっと固めるように握りつぶした。そのままゴミ箱にいれようとしたが、血のついているこんな紙が家族に気づかれても嫌なので、ティッシュに包んだ上にお菓子の袋に包んで捨てた。
何事もなかったかのように私は椅子に座り直す。
ワークについた血は、乾いていた。
アキラって……この間引っ越してきたお隣さんのことかな……。
シャーペンを動かしながらも、私の頭はさっき捨てた紙に持って行かれていた。
誰かのイタズラだと思おうとしても、もしかして、という不安は拭えない。
サンタさんを信じたかったいつかの私と一緒だ。はっきりと否定されなければ、その可能性を信じてしまいたくなる。
アキラちゃんは、ついこの間お隣に引っ越してきた、私と同い年の女の子だ。
訳ありというやつらしくて、お母さんと二人でひっそりと引っ越してきたらしい。
夏休み明けから同じ中学校に通うらしく、同じクラスになれるといいねと話した。
アキラちゃんは静かな子だ。引っ越しの挨拶に来た時に一緒に遊ぼうとしたが、何も喋ってくれなかった。
人見知りなのだと、アキラちゃんのお母さんは笑っていた。
会う度に話しかけていたせいか、ここ一週間くらいは会話ができている。
私の弟のサトルも頑張っているようだが、まだ話してくれないと昨日ぼやいていた。
話してくれないからって、こんなイタズラしなくても……。本人見てないしまあいっか。
私は答え写しに集中しようとしたが、玄関のチャイムが鳴ったのでできなかった。
いまは両親は仕事に行っている。サトルは多分アキラちゃんにちょっかいをかけに行ってると思うが、まあ、家にいたとしても、私が出るべきだとは思う。
「はーい、どちらさまですかー」
「アキラ……」
「え、アキラちゃん?」
私は玄関に向かう。ドアを開けて、頭がショートしそうになった。
真っ青な顔のアキラちゃんが、手に血まみれの包丁をもっている。
「さ、サトルくん……うごかな……くて……」
私は急いで隣のアキラちゃんの家に入った。扉を開けた瞬間に、血の臭いと、サトルの姿が飛び込んできた。
クラクラする。名前を叫んでも、サトルの見開いた目は少しも動かなかった。
「ど、どうすれば」
アキラちゃんの弱った声が聞こえてきた。
どうすればもなにも。私もわからないのに。
「きゅ、救急車……」
「だ、だめ!」
「なんで……」
「おかあさんの、仕事邪魔しちゃう」
邪魔も何も。呼ばなかったらサトルが。
わけがわからずサトルの手を握ってアキラちゃんを見ていると、アキラちゃんは、決意したように、サトルの足を持ち上げた。
「腕の方、持って」
「なんで……」
「押入れに、隠す」
「隠したらサトルが……」
「もう死んでる!」
アキラちゃんが叫んだ。思わず固まる。
ゆっくりとサトルに目を戻すと、目は開かれたままだ。瞬きをしない。そんなに長い間瞬きをしないなんて、できるわけない。
これは人形なんじゃないかと思い始めた。
サトルによく似た人形。だって、サトルはもっと表情豊かで、私を見たら元気な声で「お姉ちゃん」と呼んでくれたのだから。
人形なら、隠す必要ないじゃないか。
私が立ち上がった時、玄関のドアが開いた。
「アキラ……?」
「お、か……」
呆然と立ち尽くしている女性。アキラちゃんのお母さん。
返り血に塗れた娘と倒れた男の子を見て事情を察したのだろうか。
アキラちゃんのお母さんは手早かった。
とりあえず押入れに隠しとくから、ユリちゃんは家族にこのことは秘密にしとくこと。
言ったら、ユリちゃんもサトルくんと同じ目に遭うからね。
念を押されて私は家を追い出された。
ぼんやりとした頭で自分の家に入る。
玄関にはサトルの靴はなかった。
元気よく出て行ったのだから当たり前だ。あの靴がここに並ぶ日はもうない。
私は玄関に座り込んだ。わからなかった。なんでサトルが殺されたのかも、私がアキラちゃんに呼ばれた時何をするべきだったのかも。
『アキラ 許すな』
ふと、あの変な紙が頭によぎった。
もしあれが本当に未来からの手紙なら、未来の私はどういう選択をしたのだろう。
どういう選択を、後悔したのだろう。
『さ、サトルくん……うごかな……くて……』
包丁を持って私の前に現れたアキラちゃん。
その包丁はすでに血に塗れていた。
「あのとき……殺せばよかったのか……」
今はアキラちゃんのお母さんもいるから殺せない。
いや、殺せなくても、問題が大きくなればいいんだ。怪我をさせるだけでもできれば、サトルを隠すどころじゃなくなれば、きっとすべて解決する。
生きてなくても、家族が泣き叫ぶとしても、ちゃんとサトルが帰ってくる。
私は耳を澄ませながら時を待った。
誰かが外の廊下を歩く音がしないか、隣の家から誰か出てきた音がしないか。
そろそろお母さんが帰ってくるだろう時間になった。隣はまだ動いていない。
私は台所の包丁を持って、ゆっくりと隣の家に向かって歩いて行った。
心の中でお母さんとお父さんに謝って、隣のチャイムを鳴らしながら名乗りあげる。
お母さんの叫び声と、アキラちゃんのお母さんがドアを開ける音が、同時に聞こえた。
おわり。
お題「伝えたい」
「これからあなたは彼らの娘として生活していきます」
あたしは、赤ん坊の姿をしたあたしを抱えている男の人の声に耳を傾けていた。
目の前にいる男女に見覚えはない。おそらくあたしを作るように依頼した人たちだろう。
赤ん坊の姿のあたしは言葉を話せない。だから、んあと動物が鳴くように返事をする。
返事を聞くと、男の人はあたしの親になる人たちに目を向けた。
「ご存知のとおり、いまは電力不足で『人形』の販売は禁止されています。ですので、くれぐれも周りに知られることがないよう、ご注意ください」
彼の言葉に、ふたりは真剣な顔で頷く。
「充電は、充電器であるこの板に仰向けで寝かせればできます。充電器と『人形』の間に何かあっても充電可能ですので、シーツなどの下に充電器を設置してください。また、小学校に上がるまでは独自の教育を施して人間に近い言動をできるようにします。日程は追って連絡します」
彼はあたしを『両親』に差し出す。男の人の方……『お父さん』があたしを優しく受け取った。
『お父さん』と『お母さん』があたしを見下ろす。
その目には涙が浮かんでおり、きっと待望していた『娘』だったんだなと思った。
差し出された指を小さい手で握ってやれば、『お母さん』は嬉しそうに笑いながら泣いていた。
あたしは人形なので食事も排泄も要らないが、『人間』として生きていけるように、『人間』の普通の生活を学んでいった。
さらに親の希望は「元気で優しい娘」だったので、それを満たせるような行動も学んだ。
小学校からは人間だらけの環境になる。人間は「違い」に敏感だから気をつけなさい。気づかれたらあなたの『両親』もあなた自身もタダじゃすみませんよ。
何度も何度も言い聞かされた。
そらで言えるくらいには言い聞かされた。
そもそも人間とは違って物忘れというものができないので、言われたことは全て覚えているのだけど。
小学校の入学式。
あたしは緊張している素振りを見せていた。
堂々としすぎていると目立ってしまうから、という指導だったから。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
『お母さん』があたしの手を握って歩いていく。
一応体温も再現しているので、触った感じで『人形』だとバレる心配もないらしい。
周りには、あたしと同じ背丈の子達がたくさんいた。
きっとみんな人間の子供なのだろう。あたしみたいな『人形』の子供はもういないのだと話を聞いている。
「ねえねえ! トモダチになろ!」
突然投げられた言葉に辺りを見回すと、新入生と思しき女の子があたしを見ていた。
隣にいるお父さんらしき人は苦笑して、『お母さん』に「すみません……この子はやく友達がほしいみたいでずっとこんな調子なんです……」と謝っていた。
「名前、なんていうの?」
「チヒロ! そっちは?」
「ハナ。よろしくね、チヒロちゃん」
挨拶をすると、お父さんらしい人が驚いたように「しっかりしてる子ですねえ」と言った。
『お母さん』は、「自慢の娘なんです」と誇らしげだった。あたしとしては、年相応に振る舞えなかったことについて焦りを感じていた。
「さっきトモダチになったみっちゃんとよーちゃんと写真とろーよ!」
「みっちゃん? よーちゃん?」
「つれてくる!」
チヒロちゃんは台風のようにどこかへ去っていった。
取り残されたお父さんは屈んであたしに笑いかけた。
「ちょっと元気すぎるけど優しい子なんだ。よかったらチヒロと友達になってあげてね、ハナちゃん」
あたしはそれに頷く。そうこうしているうちにチヒロちゃんが女の子二人を連れてきた。
「パパ! 写真!」
「じゃあみんな、ここに並んで」
ひっそりとみっちゃんとよーちゃんに自己紹介を済ませて、あたしたちは、チヒロちゃんのお父さんの指示に従う。
みんなでピースして一枚撮ってもらったあと、みっちゃんが言った。
「みっちゃんのランドセルも撮って!」
みっちゃんのランドセルは綺麗な桜色だった。お気に入りらしく、さっき自己紹介してたときもしきりに見てたがっていた。
「かわいいランドセルだね。じゃあランドセルをこっちに向けて、振り向いてくれるかな?」
みんなで並んでランドセルをカメラに向ける。
これがトモダチというものなんだな。
あたしは少しワクワクしていた。
よくわからないけど写真をたくさん撮らせて、大人をニコニコさせて。
あたしも、『お父さん』と『お母さん』にとってそんな存在になれるだろうか。
『子供の先輩』を観察しながら、あたしはどうにか人間の子供として生活していった。
事件が起きたのは、高校生の頃だ。
初めて、家に友達を招くことになった前日。
『お父さん』も『お母さん』も喜んでくれて、『お父さん』なんかはその日にわざわざ休みをとったくらいだ。
あたしも楽しみだった。そして、バレないかの不安もあった。
ソワソワしながら布団に入ると、違和感があった。
給電されない。角度の問題か、シーツの問題かと試してみたが、全く変わらなかった。
慌てて『両親』に報告に行く。
部屋は真っ暗だった。
停電、というものだと『お父さん』が言った。
『お母さん』が手回しラジオと懐中電灯を持ってくる。
ラジオでは、深刻な電力不足のため停電の復旧めどはたっていないという話だった。
『お父さん』はポケットから携帯電話を取り出して、どこかに電話をかける。
「娘の充電はどうすればいいんですか。……え? 復旧まで待てって……いつになると思ってるんですか、下手すると半年とか言ってたじゃないですか!」
『お父さん』が怒っている。
あたしの隣で『お母さん』が不安そうな顔で『お父さん』を見つめている。
あたしは現状のバッテリー残量を確認する。32%。明日の午前中まではもつかもしれないが。
「とりあえず、スリープモードにして極力動かないようにするね。友達にも、風邪ひいちゃったって言っとくから大丈夫だよ!」
あたしは二人に笑顔で言った。
二人の沈黙を、了承の意味と取って、あたしは部屋に戻った。
友達には風邪の連絡をとり、布団に横になる。給電されないのは初めてなので、なんだか落ち着かない。
布団に入ってもあったまらない。給電されなくても、自分の体温で布団をあったかくできる人間は便利なものだなと思った。
脇腹にあるカバーを外す。そこにはシャットダウンボタンとスリープボタンとリセットボタンがある。
スリープボタンであれば、少しゆすられれば起きられるはずなので、『両親』が来ても問題ないはずだ。
スリープボタンを押して、あたしの意識は闇に沈んでいった。
あたしを呼ぶ声がした。
体が揺れている感覚があり、目を開く。
体は動かない。スリープモードでもそれなりに電池を消費してしまったらしい。
首を動かさない範囲で辺りを見回すと、困った顔の『お母さん』と、呼ぶ予定だった友達がいた。
「ハナちゃん、なにしてるの」
女の子は言う。もともと笑顔の少ない子だったが、今は感情という感情が見えなかった。
「風邪だから寝てるんだよ」
あたしが返すと、彼女は苦い顔をした。
もしかして話したのだろうか。チラッと『お母さん』を見ると、目を逸らされた。
「ただのお見舞いのつもりだったのに……お父さんたちの慌てぶりがおかしくて問い詰めたの」
あたしが『お母さん』を見たことに気づいたのか、彼女はつまらなそうに言う。
きっと会わせたらバレるという不安が先行して追い出すことに重きを置きすぎたのだろう。風邪くらいでそんな剣幕で追い出す家などきっとないのだろう。
あたしは笑った。
「どう? あたしの部屋。この抱き枕とか可愛いでしょ?」
「うん、似合ってる」
「あそこに飾ってある写真はね、小学校の入学式の時に友達と撮ったんだ。可愛くて片付けられないの」
「そうだね、左がハナちゃん?」
「そうそう、隣がチヒロちゃん、よーちゃん、一番右の可愛いランドセルの子がみっちゃん」
「この子達は人間?」
「うん、あたしが作られた頃には、『人形』は違法だったから」
「……そっか」
彼女は写真を見つめている。
「その隣にあるオコジョは、ずっと前に『お父さん』が出張のお土産に買ってきてくれたんだ」
「……廊下にもたくさん写真あったね」
「うん、『お父さん』も『お母さん』もお出かけも写真も好きだからね」
彼女は静かにぬいぐるみを撫でていた。
あたしも静かに天井を見つめていた。20%を切ると、もう体は動かすことはできない。口だけはギリギリ動かせるが、口が動かなくなるのも時間の問題だ。
「『お母さん』、『お父さん』は?」
「下で……電話を……」
「あたしはもう時間ないみたいだから、呼んできてもらってもいい? 最期に話したいなって」
『お母さん』は俯いたまま部屋を出た。
きっとあたしを買わなきゃこんな気持ちにならなかっただろうに。あたしは『両親』を哀れに思った。
「来てくれてありがとね、最期に話せてよかった」
「本当に最期なの?」
「充電できるようになれば最期じゃないけど、その時にはデータ飛んでるかもしれないし」
「ロボットだもんね」
彼女は小さくわらう。「他の子と何も変わらないのに」と写真を見ている。
「あたしはね、違法の存在だけど、人形だけど、愛されて育ってきたの。だから……この家のこと、この人形のこと、覚えててほしい」
「私が覚えてたって何にもならないよ」
「ううん、あたしが人形だって知ってる人に、伝えたかったの」
「……知ったのついさっきだけど」
「うちの『親』がごめんね?」
彼女は黙った。悲しそうな顔をしているように見えたが、わからなかった。彼女は、『両親』と入れ違いに帰っていった。
「あの子ならきっとあたしのこと言いふらさないから大丈夫だよ」
あたしが言うと、『両親』は「そんな心配をしてるんじゃない」と呟いた。
「もう声が出づらくなってるから、急いで言うね。『人形』のあたしを、ここまで大事にしてくれてありがとう。すごく、楽しかった」
「大丈夫だ、ハナ。いつか必ず、復旧したら、戻ってこれる」
「そうよ、たとえデータが消えても……あなたは私たちの娘なんだから」
言葉とは裏腹に二人は滝のように涙を流し続けていた。そんな彼らに触れられないのは少し惜しい。
「またね、『お父さん』、『お母さん』」
頭の中で鳴り響く警報。電池残量5%。視界も暗転し始め、音も遠ざかっていく。きっと二人はあたしの名前を呼んでいるのだろう。
こんな人形じゃなくて、人間として、二人の娘になりたかったな。
今まで過ごしてきた時間を頭で振り返りながら、あたしは眠りについた。
おわり。
お題「この場所で」
友達の家に遊びに行った。
初めてできた友達で、笑顔のかわいい子だ。
なぜ私と友達になってくれたかはわからない。
でも、居心地が良くて、楽しくて、私はそこを掘り下げずに今まで接している。
「いらっしゃい! あがってあがって」
友達が満面の笑みで迎えてくれる。
玄関には靴箱の上にカエルの置物がある。
そういえばうちにも玄関近くにカエルの置物があった。たしか、家族が無事に帰れるようにという願掛けだったはず。どの家でもそうなのかもしれない。
靴を脱いで揃える。
近くにたくさんの靴があった。彼女はきょうだいはいなかったはずなので、親とこの子の靴なのだろう。
家族でおしゃれをして出かけることが多いのかもしれない。
「とりあえずリビングでジュース入れてから部屋いこっか」
彼女の言葉に頷いて、私は彼女の背中を追う。
リビングには彼女の両親がいて、いらっしゃいとにこやかに迎えてくれた。
私は親から預かった手土産を渡す。母親が受け取り、「あとで部屋に持っていくからね」と笑った。
彼女は「楽しみだね!」と言って、コップとジュースを持ってリビングを出る。
それに続いて私もリビングを出る。
リビングもそうだったが、廊下の壁にもいくつか写真が飾ってあった。
きっと彼女の小さい頃なのだろう、いまと変わらない満面の笑みでこちらに向かってピースをしていたり、3人で楽しそうに旅館をバックにして撮っていたり。
写真を見ているだけで、彼女の楽しい気分が伝わってくるようだった。
「ここがあたしの部屋! ちょっと散らかってるけど大目に見てね!」
恥ずかしそうに笑う彼女。
部屋には大きなウサギの抱き枕やペンギンの置物など、動物モチーフのものがたくさんあった。
そしてここにも写真はあった。
小学生のときの友達だろうか。みんなでランドセルをこちらにむけて誇らしげに笑っている。
「それね、小学校の入学式の時に、幼稚園の友達と撮ったの。みんなかわいいし、楽しかったから片付けられなくて」
日焼けしたその写真を彼女は撫でた。
その写真の横には、年季の入ったオコジョのぬいぐるみもある。
「これはお父さんが仕事の出張のお土産で買ってきてくれたんだ。かわいいでしょ?」
黒ずんでいる。きっと、小さな彼女は嬉しくてずっとこのぬいぐるみを持ち歩いていたんだろう。汚れなど気にせず、一緒に歩くことの方が大事だったのだろう。
この家にはいろんな思い出が詰まっている。
楽しい3人家族の、元気に育ってきた思い出が。
この場所で育ってきた小さな女の子が、目に浮かんでくるようだった。
本当に、私以外の人も生まれて育ってきたんだね。
思わず呟くと、彼女はおかしそうに笑った。
「当たり前でしょ? あたしもみんな、ちゃんと現実に生きてるんだから」
彼女の手が、私の顔に伸ばされる。
触れる直前、その手が歪んだ。
途端に視界は暗転する。
「またあの夢か」
目を覚ました私はぼんやりと空を見上げていた。
そばには手懐けた野良犬がいる。わしゃわしゃと撫でてやると、嬉しそうに吠えた。
自然の音しかしない世界。
子供も先生も電子の存在で満足してしまったがゆえに訪れた、人間ただ一人の世界。
いや、もしかしたらこの地域以外にはまだいるのかもしれないが、少なくとも歩いていける距離には誰もいなかった。
いつも私はあの夢を見る。
友達の家に行って、写真を見て、この子も生きてるんだと実感する夢。
だがその子は電子の存在だった。子宝に恵まれなかった夫婦が生み出した子供だった。
私の友達は、発電所が稼働しなくなったために消えた。
隣でくぅんと鳴く声が聞こえた。
撫でてやると、この子の温かさが伝わってくる。
「そうだね、早くご飯見つけに行かなきゃね、ハナちゃん」
架空の友達の名を与えた犬を連れて、私は今日も一人で生きていく。
おわり。
お題「誰もがみんな」
「違うことは悪いことじゃない」
「私にも君にも、自由に生きる権利がある」
「誰にも縛られず、素直に生きなさい」
いろんな人からいろんな言葉をかけられた。
慰める言葉、励ます言葉、貶す言葉、いろんな言葉をかけられた。
だけど私にとってそれらは意味のあるものにはならなかった。
薄っぺらだった。
誰もがみんな、薄っぺらな言葉しか使わなかった。
違っててもいいと言えるのは周りと違ってない人たちで、自由に生きる権利があると言えるのはある程度の自由が許される生活をしている人たち。
誰にも縛られずに生きろと言えるのは、誰にも縛られずに生きている人たち。
本当にそういう状況にある人たちからはそんな言葉はかけられない。だって、人を気遣う余裕なんて、あるわけないのだから。そう思っていた。
「私は個性だと思ってるの、だからあなたのそのコンプレックスだって、個性だわ」
自分の火傷跡を触りながら彼女は笑っていた。
誰もが目を引かれるその痛々しい傷のおかげで、みんなにすぐ覚えてもらえるんだと笑っていた。
「家にいるのが怖いから、プチ家出してきちゃった。ちゃんと生活費も渡すからしばらく住ませて?」
増えた体の傷を隠しながら彼女は可愛くおねだりをしていた。
ここにずっと住んでればいいのにと言っても、ちゃんと帰るつもりだよと答えるだけだった。
僕のアパートではテレビを見たりゲームをしたり、お風呂で歌ったりしていた。
不自由な人生の中でも、彼女は懸命に自由を探していた。
「いつかあの家を出て、自分の好きなものを集めた部屋を作りたいの。好きな服を買って、好きな本を買って、あ、化粧にも挑戦しちゃおうかな」
今できないことを嘆かず、彼女はそれを夢として語っていた。
一人になったらやりたいこと。
彼女は心のノートに必死に綴り続けていた。
僕は彼女を助けたかった。
だが、僕は逃げ場の提供しかできない。
そして彼女も、逃げ場しか求めない。この状況から逃げ出すこともしない。
「一緒にどこか遠くまで逃げよう」
言いたかった。何度も言いかけた。でも言えなかった。
僕はその状況になったこともないし、想像もつかない。でも、何度も逃げることに失敗した彼女に、そんな無責任な言葉を投げることはできなかった。
みんなのような薄っぺらな慰めをしたくなかった。
だから僕は決めたのだ。
逃げ回る生活を彼女に求めるのではなく、家から彼女を解放することを。
「少し留守にするから、自由にしてて。それと、この携帯、電話かかってきたら出てもらっていい?」
「……うん、わかった。気をつけてね」
彼女は微笑んだ。僕の考えてることを知ってるかのように、悲しい笑顔だった。
早く君をもっと明るい笑顔にしてみせるから。
きっとそっちの方が、君には似合っているから。
僕は少しの小銭と準備したものを持って家を出た。
鉄の臭いがする。全身から。
僕は一応着ていた雨ガッパを脱ぐ。もちろん手袋はしていない。証拠がなくなってしまう。
血溜まりに倒れている人が数人。彼女の家族だ。
母親と思しき人は、見た目だけは彼女に似ているものの、少し話しただけで性格が全然違うことがわかった。
親子だって他人なのだ。彼女とこの人たちは他人なのだ。
僕は手についた血をぼんやりと眺める。
この光景を見たら彼女は泣くだろうか。きっと、優しい子だから、悲しみ、死を悼むのだろう。
でもその中に少しだけでも、解放された、という気持ちがあればいい。
僕は血まみれの手のまま、この家の電話の受話器をとる。
記憶にある電話番号を押していく。
『……もしもし』
「狭山、おはよう」
『遠藤くん? ……おはよう』
受話器から彼女の声がする。少しだけ日常が戻ったような気がした。そんなことは、周りの景色が許さないんだが。
僕はひとつ息をつくと、今まで彼女に言いたかったことを言い始めた。
君の言葉ひとつひとつが、僕に意味を持たせてくれたこと。
君と見たもの聞いたもの、全てが輝いていたこと。
僕を含めて誰もがティッシュ一枚くらいの言葉しか使わない世界で、君だけは重みを感じさせる言葉を使っていたこと。
君と一緒に過ごして、喜ぶ君を見て、僕は幸せになれたということ。
彼女は黙って聞いていた。鼻を啜るような音がしているのは気のせいか、そうでないのかわからない。
僕のことを思って泣いてくれているなら、少し嬉しい。
「今までありがとう、狭山のおかげで楽しかった」
『待って、私の家なんでしょ? いまから向かうから待ってて』
「ごめんな、そろそろ警察にも連絡しなきゃいけないから」
『なんで……私の』
「さよなら、狭山、ありがとう」
彼女が言いかけていた言葉を遮り、僕は電話を切る。
そのまま警察に電話をかけて、人を殺したことと住所を伝えた。
警察署からそんなに離れてないからもうじきくるだろう。
僕は脱ぎ捨てたカッパを床に広げて寝転がった。
使ったナイフが僕の手から転がる。僕の手とお揃いで血まみれだ。
その体勢で、周りの死体を見る。
父親。酒癖が悪く飲んだ日には暴力を振るいやすい。彼女が顔に熱湯をかけられたのもそのせいだった。
母親。彼女の学力が芳しくないことを自分のせいにされてるからか、彼女に暴言を吐く。暴力についてはあまり振るわなかったらしい。「嫁に行けなくなる」とのことだった。
弟。彼女と同様学力は芳しくなく、母親に彼女と共にバカにされ続けていた。どうにか彼女より上になれるように、教科書を隠したり、カバンからワークを取ったりしていじめていた。
なんでこの人たちが彼女の家族なんだろう。
なんで彼女を愛してくれる人がどこにもいないんだろう。
これからの人生、彼女は愛し愛される人と出会うことができるだろうか。
転がっていたナイフを手に取る。刃に映った僕の顔は、思ったよりも赤くて青かった。
「あなたに、幸せが訪れますように」
僕は自分自身にナイフを振り下ろした。
おわり。
お題「花束」
「結婚してください」
燕尾服で膝をついた彼が、私に薔薇の花束を差し出していた。
周りにいる人たちはきゃあきゃあと騒いでいる。もちろん知らない人たちだ。
どうしよう。逃げたい。
衆目を浴びたくない人間としては当然のことを思う。
だが、私は彼からのプロポーズ自体は喜んでいるのだ。
この人とだったら、今後もやっていけそう。添い遂げたい。そう思える人だった。
そんな人だからこそ、惜しい。なぜ、こんなプロポーズに決めてしまったのか。
たしかに私は燕尾服は好きだし、薔薇の花も好きだ。
ドラマでこういうシーンが出てきたらまずときめくのは間違いない。
だが、違うのだ。現実で起こっていいことではないのだ。
たとえば好きな漫画のキャラクターが現実に出てきてくれたらいいなと思ってはいたけど、突然似たような人が似たような言動をし始めたとする。
私はそれを喜べない。だって、その言動が許せるのは二次元だけだから。
つまり、そのプロポーズ方法が許せるのは、私の中ではドラマのなかだけなのである。
彼はいたって真剣な顔をしている。
そうだろう、こんなに気合を入れて、おそらく私の趣味とかも考慮してサプライズプロポーズをしているのだから。
私はどう反応するべきか悩んでいた。
もちろんプロポーズにはOKで応えるつもりではある。
だが、問題は、私の反応が悪いことに対する説明だ。
彼は素直な人間だ。たぶん、漫画のキャラが現実に現れたとしても大喜びする。私とは少し考え方が異なるのだ。
だからきっと、「それはドラマのなかだけでお腹いっぱい」と伝えると、理解できない上に断られている感じがしてショックを受けてしまうだろう。
「あの……いかがでしょうか……」
彼が上目遣いに私をうかがう。不安そうな表情が愛らしい。そんな顔にさせてごめんと思う反面、それが見れて歓喜する私。
私は悩んだ末に言った。
「とりあえず、場所を移動したいんだけど、いい?」
「えっ」
「あ、ここで答えた方がいい?」
彼の顔を見て、やってしまったと思った。
この言葉ではまるでプロポーズを断るみたいだ。
今にも泣きそうな顔に、慌てて言葉を足す。
「周りに人がいるところで答えるの恥ずかしくて……もちろん結婚については私でよろしければなんだけど……」
一瞬にして目を輝かせる彼。犬か。
「ほかにも、なんか言いたいことあるってこと?」
彼はたずねる。私は頷いて、とりあえずその手を引きながら人気のない場所を探して歩き回った。
ようやく誰もいないところを見つけて、二人で芝生に座る。燕尾服が汚れるだろと注意したいところだったが、私も彼も足が棒になってしまって、座らないという選択は無理だったので言えなかった。
「で、言いたいことって?」
彼が私を見る。改めて見ると燕尾服が似合うように髪を整えていたり、薄めにだが化粧もして、普段より断然格好良くなっていた。
もしかして、人目が気になってたから嫌だっただけなのでは?
私は自分の感情を疑い始めた。
こんな格好いい人にプロポーズされたらそりゃ落ちる。その手に薔薇の花束を……。
そこまで考えて、違うとなる。
問題はその花束だ。もらって嬉しいとなるのは花の管理ができる人間だけで、そうでない人間は「え……これ……どうしよ……」になるのだ。私は後者なのだ。
私は彼の目を見た。どうにか、花束はいらなかっただけでプロポーズは受けたいと伝えたかった。
「さっきも言ったけど、プロポーズに関しては、ぜひお受けしたい」
「ありがとう」
「だけどね、その花束は難しい」
「難しい……?」
「それをもらったあと、生け方も分からんし、枯らした時の恐怖がでかい」
「なるほど……」
彼は口元に指をやった。考えている。ちゃんと伝わってくれたようだ。
しばらくして、彼は口を開く。
「じゃあ、俺の部屋に飾っとくから、たまに見にきてあげてよ。それだったらいいでしょ?」
「えっ……てか花束の生け方知ってるの……?」
「いや、俺、花屋の息子だし」
お任せあれ、と胸をはる彼。ほっとしつつ、贈り物として準備してくれてたのにそれでいいのかとも思う。
私は少し考えた。
「明日、結婚指輪見に行こ」
「明日!?」
「花束もらってあげられなかったお詫び。指輪自慢しながら親に挨拶行こ」
「う、うん……」
「あと結婚式の準備とか入籍準備もしていかなきゃね。それらは色々調べて共有するから」
「なんか……積極的だね……?」
彼は逆に不安そうな顔をする。
そりゃ、ずっとその言葉を待っていたから、積極的にもなるでしょう。私から言うか悩んだくらいなんだから。
そんな本音は心に留めて、私は笑う。
「何事も、準備が一番大変で、楽しいんだよ」
彼も笑った。
「そうだね、思い切り楽しまなきゃ」
二人で手を繋ぎながら、私たちは帰路についた。
花束をその空き地に忘れたことに気づいたのは、彼のアパートに着いてからだった。
おわり。