小心者の僕が、普段なら絶対に立ち寄らないであろうカジュアルバーのカウンタースツールなんかに腰かけているのは、他でも無い。恋人と別れた直後で、独りで部屋の隅っこに座っていられるような気分じゃなかったからだ。
呪文みたいな名前をした紅いカクテルを一息に飲み干すと、喉の奥と後頭部の辺りがカッと熱くなった。脳にぼんやりと広がっていくアルコールが、僕に、精神的に少し難しいところのあった彼女に投げつけた言葉を思い出させる。
「君の求める幸せの中に、僕の幸せは含まれていない!」
愛らしいぬいぐるみがいくつも並べられたベッドのある彼女のワンルームで、僕は叫んでいた。
「君の言う事はころころ変わる、僕はいつだってそれに合わせようと努力した。君が大切だったからだ! なのに君は怒る! 私の事なんてもう好きじゃないんだねと言って泣きわめく! どうしたらいいんだよ! 僕は君の奴隷じゃない!」
大声で捲したてると、彼女はみる間に目を充血させてシクシクと泣き出した。
「……昔はそんなこと言わなかった……あなた、変わっちゃった……」
その涙声は僕の神経を存分に逆撫でした。この期に及んで対話すらしようとしない彼女には苛立ちしか感じられなかった。だから冷たく突き放したのだ。
「あくまで僕だけのせいにするんだな」
「だって…」
「いい、もう聞きたくない」
僕の声も彼女の声も、クレシェンドしていく。
「なんで…? 聞いてよ! 前はちゃんと私の話聞いてくれたじゃん!」
「昔話にしか二人の幸せが見つけられないって言うんなら、僕らの関係は、もう本当に終わってるんだよ!」
大泣きする彼女を無視して、僕は部屋を飛び出した。
さっきとは別の呪文を唱えて、差し出されたエメラルドグリーンに浮かぶレモンを見つめる。店内には陽気なジャズが流れ、男女入り雑じった笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
それらの音に、僕は無感動に無関心に、しかし一心に耳を傾けていた。雑音が余計な思考を追い払って、心の隙間を埋めてくれるからだ。
正直ほっとしている。けれど後悔していないと言ったら嘘になる。
……ああ、こんな考え事はしたくない。心にあいてしまった穴の大きさに、気づきたくない。
僕は再び酒を煽って、浮遊感と騒々しさで孤独をやり過ごそうとする。
▼喪失感
「不完全だからこそ、人間は人間たり得る」
右側にある窓、そのカーテンの隙間から漏れる、昼の気だるい陽の光を浴びながら僕は言った。
「どうしたの急に」裸体にシーツを纏わせただけの彼女がベッドに横たわったまま笑う。「難しい学者さんみたいな事を言うのね」
僕は少し前に脱ぎ捨てた衣服から煙草とライターを取り出して火をつけた。
「もっとムードのある話をしたら?」彼女はよく懐いた猫のように目を細くして微笑んでいる。
「卑俗な言い方だけど、男は出すものを出すと妙に頭がすっきりするんだ。それこそ聖人君子にでもなったかのようにね。強い酒でも飲まなきゃ、今はとても愛を囁くような気分にはなれないよ」僕はフーッと煙を吐き出した。
「あら、女だってそういう時はあるわ」言葉とは裏腹に、半身を起こした彼女は僕の背中に体を押しつける。二つの柔らかいものが、ぎゅうっと潰れる感触がした。「それに聖人君子って言ったら、完璧な人間てことじゃないの。でもあなたに言わせれば、それは人としては不十分という事なのかしら?」
「君は、知識と教養を全て兼ね備えていて、人徳にも溢れた“とても良く出来た人”っていうのに、惹かれるかい? 僕にしてくれたみたいに、愛を捧げられる?」
彼女は少し考えてから口を開いた。「……無理ね」
「私は、あなたの少し強引で、少し馬鹿で、調子のいい事を言って、でも私だけを大事にしてくれるところが好き。とても好きよ」
いったん言葉を切ってから、彼女は抜け目なく言った。
「あとルックスも大事、絶対に」
「ははっ!」僕は声を上げて笑う。「いいね、欠陥のある、人間らしい言葉だ」
「ひどい事言ってる自覚はあるわよ」僕が笑いすぎたのか、彼女は拗ねたように言った。
「でもそれでいいんだ。完璧な人間ってのは、僕らみたいな奴にとってはもう人間ではないんだよ。だから純粋な魅力を感じることはできない。神様みたいな人、なんて変な言葉で片付けちまう」
僕は白い天井に向かってまた煙を吹いた。
「僕らは不完全だからこそ人間たり得る。そして惹かれ合うんだ」
急激に、後ろにいる彼女に愛を囁きたい気分になって、僕は煙草を灰皿に押しつけてからもたれる彼女の身体を抱き寄せた。
▼不完全な僕
文机に、一人の青年が写ったセピア色の写真が置かれている。
カセットレコーダーからピアノの音が流れだすと、白い猫がやってくる。
僕はこの空間の何処かに居る親友に、彼の望んだとおり、美しい旋律を聞かせているのだ。
医療技術はまだまだ発展途上にあって、人々にとって死はすぐ側に佇んでいた。だから僕と彼はしょっちゅう死後の世界について話をしていた。
「どうして幽霊は姿を現さないんだと思う?」
彼──中学校からの親友、誠司が言った。
「輪廻転生しているからじゃないか? 死んで、あの世で審判のくだった魂は、別の生命としての活動が始まるから幽霊なんてものは存在しない、とか」
僕は最近聞きかじった知識をそれっぽい口調で語った。
「うん、なるほど」誠司が面白そうに頷く。「俺はね、幽霊はいると思う。ただ生きている人間には見えないのさ。何て言うか、波長が違うんだ」
「波長?」
「例えば可視光線以外の光、紫外線や赤外線なんかは俺達には見えないだろ」
「ああ、つまり幽霊に光が当たったとして、人間には見えない波長を発しているという事か」
「そういう事だ。霊は存在していても、色の着いた物質としては見えないんだ」
「でも物質としてそこに居るとなると、僕らは幽霊にぶつかったりするんじゃないか?」
「……霊を作るものは空気のように、極微小の粒子なのかもしれない」
苦し紛れの誠司の言葉に僕がぷっと吹き出すと、顔を赤くした彼が大袈裟に咳払いしてから言った。
「俺は幽霊はいると思っている、でももしかしたらお前の言うように、あらゆる生き物に輪廻転生しているのかもしれない。そこでだ、俺が死んだら、ちょっとした頼み事があるんだが──」
誠司が二十四で病死してから、僕は彼の月命日ごとに、こうして自宅でドビュッシーの月の光を一回だけ流している。案外ロマンチストであった彼の願いに従って。ただし写真を飾るのは僕のためだ。誠司に会いたいと思っている、僕だけのため。
そうしてカセットテープを再生して座椅子にもたれていると、何処からともなく白い猫がやってくる。彼、または彼女は、ふらりと庭先に現れるなり縁側に飛び乗って、前足を行儀よく揃えて座る。月の光が流れているあいだ中一度も鳴かず、じっと静かにそこに居る。そして曲が終わってしまうとまたどこかへ消える。
僕はその後を追ったりしない。毎回来るのが同じ猫なのかなんて確かめたりしない。ただあの猫が誠司だったらいいなと思いながら、また次の月命日を迎えるだけだ。
「──俺の墓の前で語りかけられても困るんだよ。お前の言うことが正しかったら、人間の言葉なんか喋られてもわからないからな」
誠司は柔らかく笑っている。
▼言葉はいらない、ただ・・・
こちらで出題されるお題は、どうも一年サイクルで繰り返されているように思う。たまたま、昨年の8月28日も私はこのアプリを利用していた。そして数える程の作品しか書いていなかったので、過去の投稿を遡ることは簡単であった。
一年前に書いた「突然の君の訪問」を読む。
頭の中に、爽やかな記憶の風が吹き抜けた。
私の目は文字を追っているに過ぎない。けれど五感は活発に働きだしている。
あの頃暮らしていた部屋の情景がよみがえる。八畳間を占領する洒落たベッドと40インチのテレビ。正直言って、どちらも買ったことを後悔していた。夏の暑さは依然として厳しいが、窓付きエアコンに助けられている。
私はいまいち効果を実感できないでいる冷感シーツを敷いたマットレスに腹ばいで寝転んでいた。スマホからは下品な歌詞の洋楽が流れ、顎を小さく上下させて、ずれては修正しを繰返しながらリズムに乗っている。
空腹になるとギチギチに詰まった冷蔵庫から添加物まみれの惣菜を引っ張り出して、パックのままレンジでチン。餃子だ。無いに等しい肉汁にはハナから期待せず、ポン酢をびったりと付けてパサついた肉を舌に置く。おいしい。それをスーパーで一番安く売っているペットボトルの緑茶で流し込むまでがワンセット。
満足するとまたベッドに転がり込んで、どんな内容を書こうかスマホに向き合う。
取り留めもない事が、画面に羅列された字を目にしただけで鮮明に思い起こされるのだ。感動さえ覚える。
文字だけでは無い。
匂いもそう、味もそう、風景もそう、音楽もそう。
記憶は思いもよらないものを頼りにして、驚くようなタイミングで私に会いに来てくれる。
それはいつでも颯爽と鮮やかに、優しく寄り添ってくれる。
▼突然の君の訪問
「勘弁してくれよ……」
傘を持っていない時の雨の鬱陶しさといったらない。それが豪雨で、しかも移動手段が徒歩しかないとなればなおさらだった。
駅を出て、菜緒の待つアパートまで歩いて十五分と言ったところ。一時の避難場所として他人の住居の車庫に駆け込んだ僕は途方に暮れていた。
頭を悩ませているのは菜緒の存在だった。付き合いたての頃はおっとりしていて、二人の最善を考えて行動してくれる女の子だったのに。同棲を始めて結婚を意識するにつれ、彼女の嫉妬深さとヒステリックな部分が徐々に顔を出すようになった。
(早く帰らないと)
昔の彼女に戻ってくれることを期待しながら、実はこれが本性ではないかと気づきつつ目を背けて機嫌をとる日々。僕は疲弊していた。
(菜緒にうるさく言われる)
尻ポケットに入った携帯は既にひっきりなしに震えており、彼女の精神が危うい方に傾きだしていることを告げていた。
(……もううんざりなんだよ!)
もちろん本人には言えない。一を言えば百が返ってくるからだ。
「雨宿りですか?」
その落ち着いた声は、乾いた大地に染み込む水のように僕の耳を抜けて全身に広がり、馴染み、吸収されていった。こんな感覚は初めてだった。
「あっ、すみません、貴女はこの家の方……?」
僕は驚きながらも、隣に立つ女性をまじまじと見つめてしまう。自分よりも年上に見えた。派手さとは無縁そうな、淑女と言うのが似合う品のある顔立ち。胸のあたりまで伸ばされた真っ直ぐな髪が、濡れて艶々している。
「いいえ、通りすがりです。要は私に話しかけられてビクビクしている貴方と一緒、なのかしら」
そう言って歯を見せて笑う大人の女性は、子供のような無邪気さに溢れていた。僕はどきまぎして返事が出来なかった。彼女の白いシャツが透けて、すみれ色の下着の輪郭が浮かび上がっていたのがいけなかったのかもしれない。
「通り雨だといいんだけど」
僕の様子に構うこと無く、彼女は呟いた。
そうだ、その通り。こんな雨はさっさと止んでもらわなければ困る。
早く帰って、ただいまと言って、わめく菜緒に遅い帰宅の弁明をして、着替えたらすぐに夕飯を食べて、奈緒の愚痴っぽい話を聞いてあげて──。
僕はポケットに手を突っ込み携帯の電源を切った。微弱な振動を受け続けた尻が痺れている。菜緒との連絡手段は失われた。何故こんなことをしたのか。つまり。そうだ。僕は疲弊している。雨宿りの偶然がそれを決定的なものにした。
「あの、雨、止むまで、ここにいますか?」
「え? うん、そうね、そうするしかなさそう。貴方は?」
ざあっと雨音が強まった。叩かれた地面が水煙をあげている。
「僕も、止むまでここにいます」
「そう」
穏やかに微笑む彼女の身体から、滴るような甘い香りが漂った。やはり鼻を抜けて全身に広がり、馴染み、吸収されていく。
あるいはそれは、今の僕にしか分からない匂いなのかもしれない。
▼雨に佇む