エムジリ

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「勘弁してくれよ……」
 傘を持っていない時の雨の鬱陶しさといったらない。それが豪雨で、しかも移動手段が徒歩しかないとなればなおさらだった。
 駅を出て、菜緒の待つアパートまで歩いて十五分と言ったところ。一時の避難場所として他人の住居の車庫に駆け込んだ僕は途方に暮れていた。
 頭を悩ませているのは菜緒の存在だった。付き合いたての頃はおっとりしていて、二人の最善を考えて行動してくれる女の子だったのに。同棲を始めて結婚を意識するにつれ、彼女の嫉妬深さとヒステリックな部分が徐々に顔を出すようになった。
(早く帰らないと)
 昔の彼女に戻ってくれることを期待しながら、実はこれが本性ではないかと気づきつつ目を背けて機嫌をとる日々。僕は疲弊していた。
(菜緒にうるさく言われる)
 尻ポケットに入った携帯は既にひっきりなしに震えており、彼女の精神が危うい方に傾きだしていることを告げていた。
(……もううんざりなんだよ!)
 もちろん本人には言えない。一を言えば百が返ってくるからだ。
「雨宿りですか?」
 その落ち着いた声は、乾いた大地に染み込む水のように僕の耳を抜けて全身に広がり、馴染み、吸収されていった。こんな感覚は初めてだった。
「あっ、すみません、貴女はこの家の方……?」
 僕は驚きながらも、隣に立つ女性をまじまじと見つめてしまう。自分よりも年上に見えた。派手さとは無縁そうな、淑女と言うのが似合う品のある顔立ち。胸のあたりまで伸ばされた真っ直ぐな髪が、濡れて艶々している。
「いいえ、通りすがりです。要は私に話しかけられてビクビクしている貴方と一緒、なのかしら」
 そう言って歯を見せて笑う大人の女性は、子供のような無邪気さに溢れていた。僕はどきまぎして返事が出来なかった。彼女の白いシャツが透けて、すみれ色の下着の輪郭が浮かび上がっていたのがいけなかったのかもしれない。
「通り雨だといいんだけど」
 僕の様子に構うこと無く、彼女は呟いた。
 そうだ、その通り。こんな雨はさっさと止んでもらわなければ困る。

 早く帰って、ただいまと言って、わめく菜緒に遅い帰宅の弁明をして、着替えたらすぐに夕飯を食べて、奈緒の愚痴っぽい話を聞いてあげて──。

 僕はポケットに手を突っ込み携帯の電源を切った。微弱な振動を受け続けた尻が痺れている。菜緒との連絡手段は失われた。何故こんなことをしたのか。つまり。そうだ。僕は疲弊している。雨宿りの偶然がそれを決定的なものにした。
「あの、雨、止むまで、ここにいますか?」
「え? うん、そうね、そうするしかなさそう。貴方は?」
 ざあっと雨音が強まった。叩かれた地面が水煙をあげている。
「僕も、止むまでここにいます」
「そう」
 穏やかに微笑む彼女の身体から、滴るような甘い香りが漂った。やはり鼻を抜けて全身に広がり、馴染み、吸収されていく。
 あるいはそれは、今の僕にしか分からない匂いなのかもしれない。


▼雨に佇む

8/28/2023, 12:09:26 AM