エムジリ

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9/17/2023, 1:54:37 AM

「どうして雨がふるの?」
 それはねえ、うーん、お空が泣いているからかもね。
「かなしいの? いたいの?」
 そうだなあ、どっちかなあ。いたいのかなあ?
「お空さん、いたいのいたいの飛んでいけー」

 握った手のひらはいつも湿っている。
 大人よりずっと高い体温、早い呼吸、丸まった背中の小さいこと。
 抱きしめれば両腕の中にすっぽりと収まってしまうのに、しがみつく力は驚くほど強い。
 笑い声は甲高く、小さな口をいっぱいに開いて、小さく丸めたおにぎりを一生懸命にほお張る。桃色の頬っぺたは、ぷくぷくと柔らかい。
 まだ器用に動かせない指先で玩具をいじり、壊し、怒り、泣いて、叱られ、どうにか納得し、次は壊さぬようにいじり、少しずつ大きくなっていく。

 子どもの純粋さは見ていて悲しくなるほど。悲しいほど非力で、脆くて、時に残酷で、実は賢くて、一途だ。
 後ろをヨチヨチついてまわって、キャアキャアはしゃいでかわいいね、とってもかわいい。
 真っ白い純真な心に、どうか無償の愛を。

「また雨ふってるよ。また泣いてるの?」
 そうだねえ、また、お空が泣いているんだねえ。
「そっかあ。じゃあぼくが良い子良い子してあげる」

 涙が出そうになる。


▼空が泣く

9/15/2023, 7:59:39 AM

 天寿を全うするまでに襲いかかるであろう、あらゆる困難を想像する事は簡単だ。その妄想にいちいち焦り、絶望し、自ら命の火を消してしまった方が楽だと思うことは、誰しも経験があるのではないだろうか。

 どういう選択をするのが最良なのか、生きている瞬間瞬間ではとても気づけない。後悔することもある。
 後悔を経験として受け止める事ができたり、できずに心の傷として残ってしまったり、自分を許す事ができたり、他人の力を借りて慰めてもらう事もある。

 精神がどれだけ疲弊しても、一晩中眠れなくなっても、明日が来て欲しくないと願っても、それでも心臓が脈打つことを知っている。
 だから鼓動を打ち続けている間は、せめて自分という人格を他人に預けず、自身で手綱を握り、できうる限り、真っ直ぐ生きて行きたい。

 最期の時、恨みや未練を残すのではなくて、自分はあの時ああして良かったと思えるように、自身にとっての最良の選択をしていきたい。


▼命が燃え尽きるまで

9/14/2023, 2:34:46 AM

 夜明け前、というタイミングに出会えることは少ない。だいたいは寝ているし、もし会おうとするなら意図的に、私の場合は目覚まし時計でもかけなければいけないのだが、最近は冷えか、はたまた歳のせいか、トイレに起きることが多々ある。

 まだ日の昇らない、動物達がひっそりと息を潜めているあの静けさが好きだ。薄ら寒い、きりっと引き締まった空気も好き。暗いけれど仄かに、もうすぐそこに、朝の気配が迫っている。そんな静寂の中に人工的な光を入れるのが嫌で、私はいつも一階のトイレまで電気をつけずに行き、二階のベッドに戻るまで、薄暗い室内を歩くことになる。

 カーテンに指をかけてほんの数センチだけ開くと、空は半分以上が深い闇色で、まだ眠っていられるとほっとする。しかし東側はもう白み始めて稜線がくっきりと見えている。そのさまが美しいのでぼけっと見つめてしまうのだが、そうしていると時計の針がどんどん進むので、私は慌てて布団にもぐりこむ。

 ずっと夜明け前ならいい。
 大気と植物と自分の気配しかしないあの寂しさが好きだ。
 言い様のない懐かしさがこみ上げて、胸がきゅっとなるあの瞬間が好きなのだ。


▼夜明け前

9/13/2023, 2:18:15 AM

 昼夜問わず気楽に電話し合える相手がいるのは幸甚だ。それが同性で、思いやりを持ちつつ明け透けな言葉を言い合えればもはや言うことはない。
 明美は私にとって唯一の、そういう存在だった。
「どうしたの? 理沙、明日も仕事でしょ」
 時刻は午後十一時。電話口の明美は少し眠そうな声で言った。
「ゴメン、ちょっと聞いて欲しくて」
「あーわかった。我が友、理沙サンは、恋の悩みをお抱えというワケね」
「……さすが我が親友」
 ひとしきり二人で笑いあってから、私は内緒話を打ち明けた。
「好きな人ができたの。しかも妻子持ち」
「やめときな。あたし、絶対応援しないから」間髪入れずに明美に釘を刺される。
「わかってるー、でも本気になっちゃったんだもん。もう二回寝たし」
 駄々っ子のように生意気な声で抗議すると、明美は呆れ半分、傍観者として面白半分といった様子で息を漏らした。
「本気じゃない恋なんかしたことないでしょ。誰だって恋したら、それはいつも本気よ」
 私は彼との夜の感想を長々語りたかったのだが、明美がさらに口を開く気配があったので譲ることにした。
「いい? まず、二回寝たことを自慢話にするのは止してよね。恋の病だの恋は盲目だの、先人はよく言ったものよ。理沙、あんたは今、恋にやられて正気を失ってるわ。平日の深夜近くに友達に電話をかけて、不倫していることを楽しそうに話してる。それ、人としてどうなのか客観視したことある?」
 思わぬ正論に、私はちょっとムカッときて、でもグッと押し黙った。そのとおり。ゴメン、明美。
「まあ、こんな事あたしが言ったところで無駄でしょうね。あんたはこれからも、コソコソと家庭のある男との関係を喜んで続けるだろうし、あたしとの約束よりも男との約束を優先するでしょうね。そんなもんよ、恋した人間なんて」
「うん……」私は叱られた子供のようにしゅんとなる。
「でもさ」明美は明るく言った。「いくら本気でも、結局冷める瞬間がくるのよ、恋って」
「……それは、確かに」
 私は、今まで熱烈に好きになっては興味を失った男達の顔を思い浮かべた。
「好きって気持ちが失くなった途端、それまで我慢できてた彼の嫌なところと現実的な問題がどんどん明らかになっていくわ。その壁に、二人で正面から向き合って、乗り越える力があれば、恋が愛に変わる可能性もあるけどね。とりあえず今は止まれないんでしょ、理沙の好きにしたら?」
「……うん」
 私は頷くしなかった。彼に恋する気持ちは残っているが、それは燃え盛るキャンプファイヤーの炎から、仏壇に慎ましく供えられた線香ほどの大人しさになっていた。
「理沙、あんた若いのよ。ともかくね、経験者かつ信頼できる女友達の忠告は真実として受け止めておくべきよ」明美はずいぶんと得意気に言った。
「え?」思わず聞き返す。線香の火が、蝋燭の火くらいの大きさに変わり始めている。
「……ちょっと、聞かせてよ、明美先輩の話」私は意地悪な笑みを浮かべて先を促した。
「いいわ。大変だったんだから、あの時は」
 話は明日に続きそうだ。やはり持つべきものは、心許せる同性の友人である。


▼本気の恋

9/12/2023, 1:17:24 AM

 日付を気にしない生活を送るようになって久しい。時たま壁に掛けられたカレンダーを見ると、いつも同じ言葉がでる。
「今月ももう、こんなに日が過ぎてしまったのか」

 今の私には、ひと月のあいだに一つか二つしか予定がない。一年前は違った。毎日が時間との勝負で、一日の中でどれだけの要望に応えられるかが重要で、カレンダーを見てはスケジュールを調整し、自分と人をどう動かすかに躍起になっていた。休日は寝るためだけに存在し、それを害されると非常に不愉快だった。

 あの頃に比べると自由な時間がたんまりと持てるようになった。本を読み、気になった記事をタイプし、冒険心の欠片もない料理を作って、笑う為と泣く為に映画を見る。服装もだらしない。何年も前に買ったTシャツと短パンがあればそれでいい。まずいとは思いつつも、宅配便やご近所の訪問者にもこの格好で出てしまう。もっとまずい事を書くと、風呂に入るのも、髪に櫛をとおすのさえ、気分次第と言った具合だ。

 しかし時が過ぎるのは以前よりずっと早くなった。何故だろう。ハリのない日々を送っているから? 実は一分一秒が充実しているから?
 どちらも正解な気がするが、間違いないのは今、とても幸福だと言うことだ。

 つまり、話をお題に戻すと、こと私の人生において予定なんてものは無いに限る。
 生まれた姿そのままの、数字やら日干支やら六曜やらが書かれただけの、白いカレンダーが好ましい。
 カレンダーの存在意義は、世間から乖離しすぎないよう、最低限の時の流れを知らせてくれる程度で良いのだ。


▼カレンダー

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