「どうして雨がふるの?」
それはねえ、うーん、お空が泣いているからかもね。
「かなしいの? いたいの?」
そうだなあ、どっちかなあ。いたいのかなあ?
「お空さん、いたいのいたいの飛んでいけー」
握った手のひらはいつも湿っている。
大人よりずっと高い体温、早い呼吸、丸まった背中の小さいこと。
抱きしめれば両腕の中にすっぽりと収まってしまうのに、しがみつく力は驚くほど強い。
笑い声は甲高く、小さな口をいっぱいに開いて、小さく丸めたおにぎりを一生懸命にほお張る。桃色の頬っぺたは、ぷくぷくと柔らかい。
まだ器用に動かせない指先で玩具をいじり、壊し、怒り、泣いて、叱られ、どうにか納得し、次は壊さぬようにいじり、少しずつ大きくなっていく。
子どもの純粋さは見ていて悲しくなるほど。悲しいほど非力で、脆くて、時に残酷で、実は賢くて、一途だ。
後ろをヨチヨチついてまわって、キャアキャアはしゃいでかわいいね、とってもかわいい。
真っ白い純真な心に、どうか無償の愛を。
「また雨ふってるよ。また泣いてるの?」
そうだねえ、また、お空が泣いているんだねえ。
「そっかあ。じゃあぼくが良い子良い子してあげる」
涙が出そうになる。
▼空が泣く
天寿を全うするまでに襲いかかるであろう、あらゆる困難を想像する事は簡単だ。その妄想にいちいち焦り、絶望し、自ら命の火を消してしまった方が楽だと思うことは、誰しも経験があるのではないだろうか。
どういう選択をするのが最良なのか、生きている瞬間瞬間ではとても気づけない。後悔することもある。
後悔を経験として受け止める事ができたり、できずに心の傷として残ってしまったり、自分を許す事ができたり、他人の力を借りて慰めてもらう事もある。
精神がどれだけ疲弊しても、一晩中眠れなくなっても、明日が来て欲しくないと願っても、それでも心臓が脈打つことを知っている。
だから鼓動を打ち続けている間は、せめて自分という人格を他人に預けず、自身で手綱を握り、できうる限り、真っ直ぐ生きて行きたい。
最期の時、恨みや未練を残すのではなくて、自分はあの時ああして良かったと思えるように、自身にとっての最良の選択をしていきたい。
▼命が燃え尽きるまで
夜明け前、というタイミングに出会えることは少ない。だいたいは寝ているし、もし会おうとするなら意図的に、私の場合は目覚まし時計でもかけなければいけないのだが、最近は冷えか、はたまた歳のせいか、トイレに起きることが多々ある。
まだ日の昇らない、動物達がひっそりと息を潜めているあの静けさが好きだ。薄ら寒い、きりっと引き締まった空気も好き。暗いけれど仄かに、もうすぐそこに、朝の気配が迫っている。そんな静寂の中に人工的な光を入れるのが嫌で、私はいつも一階のトイレまで電気をつけずに行き、二階のベッドに戻るまで、薄暗い室内を歩くことになる。
カーテンに指をかけてほんの数センチだけ開くと、空は半分以上が深い闇色で、まだ眠っていられるとほっとする。しかし東側はもう白み始めて稜線がくっきりと見えている。そのさまが美しいのでぼけっと見つめてしまうのだが、そうしていると時計の針がどんどん進むので、私は慌てて布団にもぐりこむ。
ずっと夜明け前ならいい。
大気と植物と自分の気配しかしないあの寂しさが好きだ。
言い様のない懐かしさがこみ上げて、胸がきゅっとなるあの瞬間が好きなのだ。
▼夜明け前
日付を気にしない生活を送るようになって久しい。時たま壁に掛けられたカレンダーを見ると、いつも同じ言葉がでる。
「今月ももう、こんなに日が過ぎてしまったのか」
今の私には、ひと月のあいだに一つか二つしか予定がない。一年前は違った。毎日が時間との勝負で、一日の中でどれだけの要望に応えられるかが重要で、カレンダーを見てはスケジュールを調整し、自分と人をどう動かすかに躍起になっていた。休日は寝るためだけに存在し、それを害されると非常に不愉快だった。
あの頃に比べると自由な時間がたんまりと持てるようになった。本を読み、気になった記事をタイプし、冒険心の欠片もない料理を作って、笑う為と泣く為に映画を見る。服装もだらしない。何年も前に買ったTシャツと短パンがあればそれでいい。まずいとは思いつつも、宅配便やご近所の訪問者にもこの格好で出てしまう。もっとまずい事を書くと、風呂に入るのも、髪に櫛をとおすのさえ、気分次第と言った具合だ。
しかし時が過ぎるのは以前よりずっと早くなった。何故だろう。ハリのない日々を送っているから? 実は一分一秒が充実しているから?
どちらも正解な気がするが、間違いないのは今、とても幸福だと言うことだ。
つまり、話をお題に戻すと、こと私の人生において予定なんてものは無いに限る。
生まれた姿そのままの、数字やら日干支やら六曜やらが書かれただけの、白いカレンダーが好ましい。
カレンダーの存在意義は、世間から乖離しすぎないよう、最低限の時の流れを知らせてくれる程度で良いのだ。
▼カレンダー