セーターといえば冬だろう。半年ぶりに衣装ケースを開けて、太い毛糸で編み込まれたその姿を見るたびに「寒い季節がやってきた」と思う。
サマーセーターなんて物もあるが、あれは好みではない。袖が短かろうが生地が薄かろうが、外で着るには暑すぎるし、冷房の効いた室内では露出した腕が冷えるし、活躍の場がいまいち分からないのだ。
そう言いながら私は、もこもこと着ぶくれする暖かなオーバーサイズのセーターよりも、体にぴったりと張りつくタイトなタートルネックセーターのほうが断然好きである。男女かまわず、美しいスタイルを持つ者が着ていると、ついチラリと盗み見てしまう。決して素肌をさらそうとはしないのに、肉体のラインをことごとく主張してくる様がなんとも淫靡な雰囲気を醸しており、その矛盾に惹かれるのだ。
無論、私もタイトセーターを着用する。先の矛盾が人目を引くことを承知で、あまつさえ期待すらして。
例えるなら、誰にも知られてはならない秘密を抱えながら、できるだけ強引に暴かれたいと渇望しているような烈しい矛盾を、優しい毛糸の内側に隠して人ごみを歩いている。
だから矛盾に満ち満ちた冬の日には、私はときどき恋と呼ぶにはふさわしくない、投げやりな愛を結ぶ。一年と言わず半年も持たない、超期間限定の、冬季限定のよこしまな感情だけで成り立っている愛を、私は結んでいる。
▼セーター
「どうして雨がふるの?」
それはねえ、うーん、お空が泣いているからかもね。
「かなしいの? いたいの?」
そうだなあ、どっちかなあ。いたいのかなあ?
「お空さん、いたいのいたいの飛んでいけー」
握った手のひらはいつも湿っている。
大人よりずっと高い体温、早い呼吸、丸まった背中の小さいこと。
抱きしめれば両腕の中にすっぽりと収まってしまうのに、しがみつく力は驚くほど強い。
笑い声は甲高く、小さな口をいっぱいに開いて、小さく丸めたおにぎりを一生懸命にほお張る。桃色の頬っぺたは、ぷくぷくと柔らかい。
まだ器用に動かせない指先で玩具をいじり、壊し、怒り、泣いて、叱られ、どうにか納得し、次は壊さぬようにいじり、少しずつ大きくなっていく。
子どもの純粋さは見ていて悲しくなるほど。悲しいほど非力で、脆くて、時に残酷で、実は賢くて、一途だ。
後ろをヨチヨチついてまわって、キャアキャアはしゃいでかわいいね、とってもかわいい。
真っ白い純真な心に、どうか無償の愛を。
「また雨ふってるよ。また泣いてるの?」
そうだねえ、また、お空が泣いているんだねえ。
「そっかあ。じゃあぼくが良い子良い子してあげる」
涙が出そうになる。
▼空が泣く
天寿を全うするまでに襲いかかるであろう、あらゆる困難を想像する事は簡単だ。その妄想にいちいち焦り、絶望し、自ら命の火を消してしまった方が楽だと思うことは、誰しも経験があるのではないだろうか。
どういう選択をするのが最良なのか、生きている瞬間瞬間ではとても気づけない。後悔することもある。
後悔を経験として受け止める事ができたり、できずに心の傷として残ってしまったり、自分を許す事ができたり、他人の力を借りて慰めてもらう事もある。
精神がどれだけ疲弊しても、一晩中眠れなくなっても、明日が来て欲しくないと願っても、それでも心臓が脈打つことを知っている。
だから鼓動を打ち続けている間は、せめて自分という人格を他人に預けず、自身で手綱を握り、できうる限り、真っ直ぐ生きて行きたい。
最期の時、恨みや未練を残すのではなくて、自分はあの時ああして良かったと思えるように、自身にとっての最良の選択をしていきたい。
▼命が燃え尽きるまで
夜明け前、というタイミングに出会えることは少ない。だいたいは寝ているし、もし会おうとするなら意図的に、私の場合は目覚まし時計でもかけなければいけないのだが、最近は冷えか、はたまた歳のせいか、トイレに起きることが多々ある。
まだ日の昇らない、動物達がひっそりと息を潜めているあの静けさが好きだ。薄ら寒い、きりっと引き締まった空気も好き。暗いけれど仄かに、もうすぐそこに、朝の気配が迫っている。そんな静寂の中に人工的な光を入れるのが嫌で、私はいつも一階のトイレまで電気をつけずに行き、二階のベッドに戻るまで、薄暗い室内を歩くことになる。
カーテンに指をかけてほんの数センチだけ開くと、空は半分以上が深い闇色で、まだ眠っていられるとほっとする。しかし東側はもう白み始めて稜線がくっきりと見えている。そのさまが美しいのでぼけっと見つめてしまうのだが、そうしていると時計の針がどんどん進むので、私は慌てて布団にもぐりこむ。
ずっと夜明け前ならいい。
大気と植物と自分の気配しかしないあの寂しさが好きだ。
言い様のない懐かしさがこみ上げて、胸がきゅっとなるあの瞬間が好きなのだ。
▼夜明け前