エムジリ

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 小心者の僕が、普段なら絶対に立ち寄らないであろうカジュアルバーのカウンタースツールなんかに腰かけているのは、他でも無い。恋人と別れた直後で、独りで部屋の隅っこに座っていられるような気分じゃなかったからだ。
 呪文みたいな名前をした紅いカクテルを一息に飲み干すと、喉の奥と後頭部の辺りがカッと熱くなった。脳にぼんやりと広がっていくアルコールが、僕に、精神的に少し難しいところのあった彼女に投げつけた言葉を思い出させる。

「君の求める幸せの中に、僕の幸せは含まれていない!」
 愛らしいぬいぐるみがいくつも並べられたベッドのある彼女のワンルームで、僕は叫んでいた。
「君の言う事はころころ変わる、僕はいつだってそれに合わせようと努力した。君が大切だったからだ! なのに君は怒る! 私の事なんてもう好きじゃないんだねと言って泣きわめく! どうしたらいいんだよ! 僕は君の奴隷じゃない!」
 大声で捲したてると、彼女はみる間に目を充血させてシクシクと泣き出した。
「……昔はそんなこと言わなかった……あなた、変わっちゃった……」
 その涙声は僕の神経を存分に逆撫でした。この期に及んで対話すらしようとしない彼女には苛立ちしか感じられなかった。だから冷たく突き放したのだ。
「あくまで僕だけのせいにするんだな」
「だって…」
「いい、もう聞きたくない」
 僕の声も彼女の声も、クレシェンドしていく。
「なんで…? 聞いてよ! 前はちゃんと私の話聞いてくれたじゃん!」
「昔話にしか二人の幸せが見つけられないって言うんなら、僕らの関係は、もう本当に終わってるんだよ!」
 大泣きする彼女を無視して、僕は部屋を飛び出した。

 さっきとは別の呪文を唱えて、差し出されたエメラルドグリーンに浮かぶレモンを見つめる。店内には陽気なジャズが流れ、男女入り雑じった笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
 それらの音に、僕は無感動に無関心に、しかし一心に耳を傾けていた。雑音が余計な思考を追い払って、心の隙間を埋めてくれるからだ。
 正直ほっとしている。けれど後悔していないと言ったら嘘になる。
 ……ああ、こんな考え事はしたくない。心にあいてしまった穴の大きさに、気づきたくない。
 僕は再び酒を煽って、浮遊感と騒々しさで孤独をやり過ごそうとする。


▼喪失感

9/11/2023, 8:53:29 AM