背中に手を当てる。何も持っていない、ひらいた掌にあなたは肩を跳ねさせた。
呼吸が浅くなる。視線がこちらを見て、それから助けを求めるようにそこかしこを見た。
夕方の市街地には遊ぶ子どもの声が響いている。きゃらきゃらと高い声が家々の隙間から聞こえてくる。
向こうのほうから飛び出してきた子どもはあなたを一瞥もせず道の反対側へ走っていって、追いかけて後から出てきた女性はわたしを見るなり「あら!」と頬を緩めた。
ここはあなたにとって異邦。何も知らない場所。けれどわたしにしてみればここは生まれ育った場所だ。いるのは顔見知りばかり。わたしを疑う人なんてひとりも居やしない。
まさか恋人と引っ越すなんてね。あんなに小さかった子が。あはは、今までお世話になりました。
くだらない会話のさなかにあなたは何か言おうとして口を開き、何も言えなかった。
逃げようと思えば逃げられる。目の前の女に何か言うのだって妨げられない。
けれどあなたは何もできなかった。家族を愛しているから。わたしが家族の居場所を知っているから。わたしがあなたのためなら何だってする人間だと理解しているから。
お幸せに! と声をかけられて、わたしは照れながら頭を下げた。促せばあなたも同じようにした。
お幸せに。お幸せにだって。ふふ、幸せになろうね!
話しかけたら、あなたはひどい顔色でわたしを睨みつけた。
何気なくを装って本棚に手を伸ばした。背表紙を掴む寸前であなたの手と触れ合う。
あ、とお互いに声をあげて手をひっこめた。きっとわたしの声はわざとらしかったし、手を戻す仕草は少し遅かった。
対照的に、あなたの声は偶然の産物で、手を戻すのは早かった。
視線を向けた先にある表情はいつも通りに微笑む……ように見えて、その実ほんのちょっと歪んでいる。隠しきれずひきつっている。
あなたは何でもないような仕草でひっこめた手をもう片手で撫でた。恋に似たそれは本当は嫌悪感だった。
立ち去ろうとするのに気づかないふりをして「偶然だね」と笑いかける。
こうしたらあなたは会話をしなくてはならなくなる。真面目でいい子ちゃんなあなたはクラスの誰にも冷たくできない。話しかけられたらお喋りしなきゃいけないと自分に言い聞かせている。
図書館の静けさを破らない程度の囁き声の会話。あなたのつまさきはずっと出口のほうを向いていた。
放たれた弾丸はあなたを刺して、その体はあっけなく崩れ落ちた。
傾いで、地面に手をつきもせず無抵抗に横たわる。
わたしは一瞬目の前が真っ白になって、震える脚をむりに動かしてあなたのもとへ駆け寄った。
膝に力が入らない。冷や汗が止まらない。どうすればあなたは助けられる。待ってくれ、死なないで、死んじゃだめだとそればかりが脳を支配する。
適切な処置の仕方は教わったはずなのに、いちばん大事な今、その記憶は霞んでしまっていた。
手が落ちつかない。止血さえうまくできやしない。
最悪なことに弾は貫通しなかった。胸の中に鉛が沈んでいる。背中側のどこにも傷はない。せめて貫いていたなら助かる確率もあがったかもしれないのに。
恐怖に息があがるわたしに、あなたは焦点のあわない瞳を向けた。その掌がゆっくりとわたしの頬を撫でた。
そこにいるんだね、と言うのに頷いて「いるよ」と返事する。
助からない。ふたりとも理解した。
やっと幸せになれると思ったのに。わたしとあなたで自由に生きて、好きなことをして、二人きりで、愛しあって、
ぼやけた瞳のあなたがつぶやいた名前は、わたしのものではなかった。
ずっと前に眠った人。あなたはもう一度名前を呼んだ。
迎えに来てくれたんだね、と笑ったその表情はわたしに向いていて、わたしに向いていなかった。
ああ。あなたは。あなたは、わたしよりも。
力を失った掌が滑り落ちる。しあわせそうな微笑みが血溜まりに沈む。
開いたままの瞳を見つめ、わたしは懐から取り出した拳銃を頭に突きつけた。
玄関のドアが開いて閉じる。鍵をかける音に、わたしは我に返った。
くつくつ煮えた鍋からは白い湯気がたちのぼっていて、ぼうっとしていたせいで熱しすぎたかもしれない。慌てて火を止める。
出来たてのカレーにはごろりと大きめな肉が入っていて、じゅうぶん美味しそうに見えた。味付けもちゃんと好みのにしてある。
エプロンを解いて、スリッパの足音を立てながら玄関へ向かう。あなたに「おかえり」と微笑む。
ああ、夢見た幸せだ。
靴を脱ぐために俯いていたあなたは弾かれたように顔をあげた。その目が見開かれる。
なにか言おうとした唇が「ぁ」と短く声を上げたきり何も発せず、はくはくと開閉した。
もう一度おかえりを言って、わたしは思わず笑ってしまった。そんなに見つめられたら照れてしまう。
あなたも幸せを噛み締めているのだろうか。一緒にいられる幸せを。
鍋の中でカレーができている。
シンクには赤くなった包丁が置かれている。赤く濡れた壁や床は綺麗に拭いた。結婚指輪は嵌めようと思ったけれどサイズが合わなくて、とりあえずポケットに入れてある。
何も言わず後じさり、ドアノブに手をかけたあなたの腕を掴んだ。
どこへ行くの。まだ「ただいま」も言ってないのに。
ごっ、とぶつかる音がして刃先が止まった。
体の芯まで衝撃がひびく。目の前が真っ白になる。息は荒く、汗がどっと噴きでて手がぬめった。
一瞬何もかも忘れてしまいそうになる。慌てて自分をひきもどす。
思考がぱちりと止まってしまったのは痛みだけのせいじゃない。いいや、痛みなんてほとんど感じていない。脳の中で物質が飛び交っていて、わたしの感情はほとんどよろこびに傾いている。
あなたの頬に血が飛ぶ。青ざめた頬に赤色が映えて、その赤がわたしのものだと思えば嬉しくて、けれどやっぱりそんなもの付いていないほうがあなたは綺麗だ。
包丁を放り投げて、こちらを見つめて固まってしまったあなたの手を取った。血の気がひいて冷たい指先を、わたしの胸の中へ導く。肋の隙間を通して、やわいところへ。
早鐘を打つ、という言葉通りにわたしの心臓はすさまじいスピードで脈打っていた。あなたに触れられているから。まだ冷たい気がするけれど、きっとすぐにあたたかくなる。
ねえ、これでわたしの想いは分かってくれるよね。