満点の星空。月も明るい。懐中電灯も必要ない気がしてくる良い夜だ。今にも流星群が降りそうな。
山の中の空は、木々がフレームになって絵画のようにも見える。
こういう日はこういうことをするには不向きだった。
まだ涼しい季節なのにわたしたちは二人揃って汗だくだった。お互いに肩で息をする。
顔を見合わせて、わたしは笑った。あなたはつられたようにぎこちなく唇の端を持ちあげた。
今しがた掘った穴は、その内側にひとを飲みこんで閉じられていた。掘り返した土の様子が露わになっている。落ち葉とか小枝とか、手当たり次第にかき集めてぶちまける。これで違和感も少しはマシになるだろうか。
シャベルの持ち手を握りしめ、歯をがたがたと鳴らしてあなたはわたしを見つめた。無意識に手をズボンへ擦りつける。もう付いていない赤色をなするように。
頼れるのはお前だけ。服も手も真っ赤に染め、それとは正反対に青を通り越して白い顔のあなたが数時間前に言ってくれたことを反芻し、わたしは小さく笑い声を零した。
訝しげに、怯えた顔をするあなたに上を指差す。星が遠くで瞬いている。
いい夜だ。この空も、あなたがわたしを選んでくれたという意味でも。
視界が歪む。頭が痛くなる。いてもたってもいられなくなって踵が何度も床を叩いた。椅子の上で縮こまる。丁寧にセットした髪を両手がぐしゃぐしゃにする。
今しがた食べ終えたばかりの昼食が喉から出そうになって、さすがに吐くのはまずいと口元を押さえたはずがいつのまにか爪を噛んでいた。切り揃えた爪がガタガタになっていく。
今日はあなたとのデートの日だった。
あなたが恥ずかしがるから同じテーブルには座れなかったけれど、近くの席でお互いを眺めながら同じものを食べて、一緒に帰るはずだった。
わたしはあなたとならそれでいいと思っていたのに。距離の空いたお付き合いでも、あなたがわたしのものでいてくれるなら。
その人は誰。ううん知ってる、同じ大学の人だ。同じ講義を受けてる、同じサークルに入ってる人。
わたしが言いたいのはそういうことじゃなくって、そう、つまり、どうしてその人がここにいて……あなたと同じところに座ったのかって言うこと。
すうっと胸が冷えていく。浮気された? そんなはずない、だってあなたもわたしのことを好きでいてくれている。ならあの人が、……あいつが誑かしている。
わたしは震える手でスマートフォンを掴んだ。
情報収集は一週間もあれば完璧にできる。
一週間後、邪魔者はあなたの側からいなくなる。待ってて、わたしの恋人。もう一度ふたりきりになろうね。
ひとつだけ願いが叶うなら、あなたの好きな人になりたい。
恋人なんてそんなことは言えない。
わたしとあなたでは釣り合わないし、愛も恋も賞味期限がある。捨てられたくないし捨てたくない。だから付き合わなくたっていい。
ただ、この視線に気づいてもらえたら。同じ目を向けてくれたら。わたしが眠れぬ夜を過ごすようにあなたも朝を迎えてくれたら。
そうしていつか思い出にしてくれたなら、きっとあなたの死出の旅にもついていける。
なんだか落ち着いていられなくなって無意味に部屋を歩き回った。本棚の本を確かめる。机の影、ベッドの下。コンセントの内側。
わたしがそうしているように、あなたもこちらを見てくれているんじゃないか。声を聞いてくれているのかな、なんて思って、何も見つけられずに肩を落とした。
……願い事は願うだけでは叶わない。勇気を出して前に進まなければ夢は夢のままで終わってしまう。
少しでも、進まなければ。
ぎゅっと拳を握って覚悟を決める。あなたに好きになってもらいたいから!
まずは顔と名前を知ってもらうところから始めよう。あなたの好みなら何だって知っている。好きな人になってみせる。待っていてね、大好きな人。
ぜんぶあなたのために捨てた。
家族、居場所、経歴、潔白。名前や顔でさえ。
どれもこれもこの世界で生きていくためには手放してはならないものだった。しっかり抱えてゆくべきものだった。
それを捨てて、ここへ来た。
その意味がわからないほど馬鹿じゃないだろう。
わたしをわたしたらしめるものはもうあなた以外には何もない。
あなたを苦しめるものはすべて消してあげた。だから匿ってよ、と青ざめて今にも倒れそうなあなたに言う。
部屋の中、ついたままのテレビは連続殺人犯の逃亡と指名手配のニュースを垂れ流している。被害者の共通点はわたしとあなただけが知っている。
別人の顔をしたわたしを、優しいあなたは黙って部屋に引き入れた。
閉め切っていたカーテンを開放する。窓を少し開けたら暖かくなりかけの風がわたしとあなたの髪を揺らす。
久々の日光に、あなたは目を瞬かせた。手をかざして光を遮る、その手首を回るようにくっきりと跡がついている。
「ごめんね。もう好きじゃなくなっちゃった」
できる限りの笑顔であなたに告げた。
あなたの動きがぴしりと固まる。表情が抜け落ちる。いいや、わたしにはわかる。あなたは怯え、嘆き、怖がって────嬉しがっている。
ほんとう、の「ほ」を言う前にもう一度窓を閉めた。鍵をかけてカーテンも閉めて全部元通りに。
あなたの目の前にカレンダーを差し出した。ずっと放置しっぱなしのそれをめくって四月に変え、一日を指差す。今日、何の日だ。
肩を掴んで押し倒す。手錠を取り出せばあなたは顔をひきつらせてわたしを突き飛ばそうと必死に暴れた。ごめんなさいと悲痛な叫び声が部屋に響く。
なんで今嬉しいと思ったのかな。怖がるのはわかるよ。死にたくないんだよね。でもなんで嬉しがるの。
些細な嘘でもつくものじゃないな、とわたしは痛む胸を宥めながらあなたを押さえつけた。