カーテン
今日、カーテンを替える。
『晴れた日にカーテンが揺れるのを見るとさ、穏やかな気持ちにならない?』
そう言って微笑む男の姿が脳裏に浮かんだ。
私は込み上げてくる涙を堪えもせず、フックを一つ一つレールから外して行く。
一緒に選んだ家具達は、全て処分した。
あとはこのカーテンだけだ。
白いレースのシンプルなカーテンは、彼が選んだ。
光が適度に入り込むカーテンを、彼はとても気に入っていた。
でも、もう必要ない。
あの日、些細な言い合いから始まったすれ違いは、彼が出て行く事で終わった。同時にお互い共に歩んできた時間も思い出も、全てが終わってしまった。更新される事はない。もう帰ってこない。連絡を取る事もない。
このカーテンを穏やかな顔で見つめる彼を見ることも、もう、ない。
一気に溢れ出した涙は、止まる事を知らず流れ続けた。
散々泣いたのに、まだ彼を思って流れる涙がこんなにあるなんて。
いい加減忘れなきゃ。
もうこのカーテンを捨てたら、彼との思い出は記憶の中だけになる。
それも時間が経てば色褪せてくるだろう。きっと思い出しても、こんなふうに泣く事は無くなるだろう。
あー、そういばそんな事もあったよね。なんて軽く笑いながら友達と語れる日が来るだろう。
だから、この涙で終わりにするんだ。
取り外したカーテンを抱きしめると、全てを出し切るように、私は泣いた。
END.
涙の理由
妻が、泣いている。
それに気付いたのは、毎週欠かさず観ているドラマの終盤だった。CMに入った時、何気なくキッチンに立つ妻に視線を送ると、妻が静かに涙を流していた。
僕は一瞬思考回路がショートした。
というのも、妻とはもう結婚して15年、出会って18年経つが、その間に彼女の泣き顔は一度しか見た事が無かったからだ。その一度は、彼女の母親が亡くなった時。それ以外は見た事がないのだ。
感情が乏しいわけではない。よく笑うし、よく怒るし、よく落ち込む。けど、涙が出そうになっても、彼女は唇の裏をグッと噛み、必死に堪えるのだ。
一度、泣いたっていいのにと声をかけた事があったが、彼女は曖昧な笑みを浮かべて「好きな人に泣き顔見られたくないの」と何ともいじらしく答えたのだ。
涙を見せないのは、彼女の矜持でもある。
そんな彼女がハラハラと涙を流しているではないか。
これは一大事である。何か重大な事が起こったに違いない。
僕は、必死に考えた。
何かしてしまったのだろうか、気付かないうちに彼女を傷付けた?それともドラマの内容?いや、そんな感動するようなシーンはなかった。では、悲しい過去を思い出した?体調が悪い?僕が重要な記念日を忘れている…?
ありとあらゆる可能性を考えたが、いかんせん、彼女は滅多に泣かない為、泣きポイントが不明なのだ。
ドラマどころではない。僕はテレビの電源を切ると、諦めて彼女に尋ねることにした。
「どうしたの?僕、何か至らない所があったかな…?それとも悲しい事を思い出した?お腹痛い?…ごめん。考えてみたけど分からなくて…君が泣くなんて一体何があったんだ?」
僕に悪いところがあれば直ぐにでも直すし、辛い事があったなら全力で慰める。体調が悪いならすぐ様病院へ連れて行くし、記念日を忘れていたならすぐにケーキを買ってこよう。
俯く妻に駆け寄り、肩を抱いた。
すると…
「っ…ふ、くっ…く」
肩が大きく揺れているではないか。
「ど、どうしたの!?しんどい!?」
「ち、ちがっ…ぷっ、あはは!」
!?
泣いていると思った彼女は急にお腹を抱えて笑い始めた。
「え!?へ!?泣いてたんじゃ…」
「泣いてないよっ、これ!」
指を挿された方を見ると、そこには微塵切りされた玉ねぎがまな板の上に散らばっていた。
玉ねぎ………だと…
玉ねぎに振り回されていたのか…!?
何ともアホらしいオチだが、同時に胸を撫で下ろした自分もいた。
「心配してくれたの?」
「いや…まあ……うん。」
「ありがとね!」
「うん…」
何とも言えない気持ちを抱え、ソファに戻ると、再びテレビをつけた。
ドラマのエンドロールだけが流れていた。
END.
ココロオドル
中学生の頃、突然私の心を躍らせたのは「本」という存在だった。
本はすごい。私の浅く狭い知識と視野をどんどん広げてくれた。
自室のベッド、リビングのソファー、教室の席、見た慣れた景色の中でも、ひとたびページを捲れば、もうそこは知らない世界。
本の中では、なんだって出来るのだ。ある時は中世ヨーロッパの公爵令嬢、またある時には世界を救うスーパーヒーロー、なんだってなれる。
その頃の私の心をこんなに躍らせるのは、本以外他に無かった。
新刊が出てないだろうかと、毎日本屋や図書館へ通う事が何よりも楽しかった。
それは今でも変わらない。
私は相変わらずページを捲っている。
あの頃みたいに毎日では無いが、やはり本屋に通っている。
電子も便利だが、あの紙独特の匂いと、指を滑る音、手に乗っかる重さがたまらなく好きなのだ。
私の心を躍らせるものは、あの頃より増えたけど、それでも一番真ん中には「本」がいる。
END.
力を込めて
「俺の力込めといた。」
ぶっきらぼうに言い放ち、俺は少しぬるくなったスポーツドリンクを差し出した。
その子は同じ学校で同学年だが、クラスは一度も一緒になった事がなかった。部活の時間に顔を合わせるくらい。更に思春期真っ盛りの俺たちは、女子と必要最低限しか会話をしなかったので、正直彼女とはあまり話した事もなかった。
ただ、知っているのは、走る事が好きなんだろうなって事だけ。
ひたすら前を見据えて走る姿は、俺の目にはいつも輝いて見えていた。
中学最後の大会。
この3年間の集大成を表す最後の100メートル。
決勝まで進んだ彼女の背中には、予選で敗退した俺なんかには分からないほどの重圧が乗っているんだろう。
ひたすらにトラックを見つめている彼女を何となく眺めていたら、その身体が震えているのに気がついた。
いつもならそこで終わっていたが、その日は何となく声をかけてみようと思った。
「緊張してんの?」
彼女は突然の問いかけにびくりと肩を震わして、こちらを向いた。こんなにしっかりと目が合うのは、初めてかもしれない。
「山田君か…びっくりした。」
「驚かせてごめん。なんか緊張してんのかと思って。」
「そりゃ緊張しまくりだよ〜!最後なんだから。」
彼女はいまだに震える手を俺に見せると、ほら、と笑って見せた。
「カッコ悪いよね。今までこんなのなった事なかったのに…」
少し泣きそうな声で呟く彼女を励ましたくて、咄嗟に持っていたスポーツドリンクを差し出した。
「俺の力込めといた。」
「へ?」
「お、俺の力込めといたから、これで緊張なんて吹っ飛ぶはず!」
今思えば我ながら恥ずかしい。
けれど、この時は目の前の彼女をどうにか勇気付けようと必死だった。
「だって俺この3年間緊張したことねぇし!」
決め台詞を言った所で、限界に達したのは彼女だった。
「ぷっ、あははは!」
「な、なんだよ!」
「うんん、ごめん、面白くてっ」
中3男子の健気な心遣いを笑うなんてとも思ったが、そんな事より、彼女の笑顔に釘付けになった。
走っている姿と同じ、いや、それ以上に輝いて見えたからだ。
「…、そんだけ笑えりゃ大丈夫だろ。」
「うん、ありがとね!」
ちょうどそのタイミングで、女子100メートル決勝の選手を招集する放送が流れた。
彼女は受け取ったドリンクを大事そうに抱えると、軽やかな足取りで俺の横を通り過ぎた。
「あ、ねぇ、山田君!」
少し離れた場所で振り返って俺の名前を呼ぶと、彼女は先程のドリンクを掲げて、悪戯っぽく笑う。
「飲みかけ、いいの?」
思春期真っ盛りの男子に対して酷いからかいだ。
俺は急激に顔が赤くなるのを感じた。
「う、うるせぇバカ!!早く行けよ!!」
小学生並みの語彙力で対抗する俺を、彼女はもう一度おかしそうに笑うと、そのまま今度は振り返らずにトラックへとかけていった。
ーーーーー
ーーー
ーー
「そんな事もあったよね。」
「俺は知らんそんなの。捏造すんな。」
「え、ひどーい。私たちの大切な出会いなのに…」
真っ白のドレスに身を包んだ彼女が、頬を膨らませて睨んできた。
「準備できたか?俺は先に行くぞ。」
「もう!どーぞお先にっ!」
「あ、」
「?」
「忘れてた。これ、俺の力込めといたから。やるよ。」
あの頃と同じドリンクをポンと投げ渡した。
「!!」
見事キャッチした彼女は、みるみるうちに目を潤ませる。
「なに?」
「……っ、飲みかけ、いいの?」
あの時と同じ問いかけ。少し胸の奥が熱くなるのを感じた。
「うるせぇバカ。…早く来い」
今回もうまく返せなかった。
けど、それでも君は、あのキラキラとした笑顔で、俺の手を力強く握った。
END.
過ぎた日を思う
久々に帰省した。
高校卒業してすぐに家を出た。こんな田舎に自分は収まらない。東京に出てデカい男になるんだと、どっかの売れない漫画の主人公のセリフのような言葉を吐き捨てて、故郷を出た。
それから30年経った。もう両親にも「たまには帰って来い」とも言われなくなった。
しかし、がむしゃらに働く日々に丁度疲れた時、ふと、あの田んぼだらけの田舎を思い出したのだ。
「……帰ってみるか」
そう呟いてみれば、帰りたいと言う気持ちが溢れ出し、その日のうちに飛行機のチケットを取り、3日後には故郷の地を踏んでいた。
30年も経てばそりゃ街は変わる。田んぼだった所もスーパーやマンションになっていたり、大きな道がついていたり、驚いたことにショッピングモールまで出来ていた。
思い出の景色はほぼ消え失せていた。
「……あ、たい焼き屋!あのたい焼き屋はまだあるかな?」
それでも必死に当時の面影を見つけたくて、小学生の頃よく友達と通っていたたい焼き屋を探すことにした。
「あのたい焼き美味かったんだよな〜。しかも美人なお姉さんが焼いてて、半分お姉さん目当てで行ってたっけな。」
よく通っていた店だから道も覚えている。思い出通りに進んでいくと、あの日と変わらぬ店構えでたい焼き屋はそこに建っていた。
しかし、たい焼きを焼いていたのは、面影はあるもののすっかり膨よかになって歳をとった「お姉さん」だった。それに、あんこしかなかった味も、チョコやカスタードといった変わり種も増えているし、たい焼きの値段も変わっている。
「いらっしゃい!」
「……あ、あんこ一つ…」
「はいよ。108円ね。……お兄さんもしかして小学生の頃よく来てくれてた子かい?」
「! え、ええ!そうです!」
「いや〜!すっかり大人になって!」
「大人って、もう僕も48ですよ。」
「そんなになるのかい。まあそりゃアタシも歳取るわけだ!」
そう言って豪快に笑う「お姉さん」からたい焼きを受け取ると、一つ礼をして店を後にした。
そう、お姉さんだけじゃない。僕だってすっかり歳を取った。
たい焼きを一口齧ると、あの頃の思い出が鮮明に蘇ってきた。その時していた会話、当時好きだった女の子のこと、好きだった遊び…
けれど、たい焼きはあの日ほど美味しくない。
お姉さんが製法を変えたのか?
それとも素材を変えたのか?
何故だろうと悩んでいると、目の前を小学生らしき二人組が自転車で通り過ぎる。
「たい焼き屋いこーぜ!おばちゃんとこ!」
「あり!俺チョコ味にしよー!」
……あぁ、なんだ、そうか。
100円玉を握りしめて、友達とくだらない話をして、全力で走ってたあの時だから…
あの日々だから、美味しかったのか。
夢を追ってきた自分を間違っていたとは思わない。
けれど、僕は大事なものを置いてきてしまっていたんだ。
もう30年も経った。経ってしまった。
僕が手放したものは、こんなにも綺麗で尊い物だったなんて…知らなかった。
過ぎた日を思いながら、少ししょっぱくなったたい焼きを一口齧った。
END.