初恋の日
初めて恋をしたのは小学生の時だった。
ただ同じクラスで、仲良くなった男の子。
一緒にいるだけで楽しかった。校庭で遊ぶのも一緒に帰るのも楽しかった。「またね」と互いの家へ続く分かれ道で別れるまで、私と彼は一緒だった。
中学校も一緒だった。小学生から少し成長し、恋愛や異性が気になる年頃に成長したクラスメイト達は、当然のように付き合ってると揶揄われたが、お互いに「こいつとはない!」と同じ答えをして、またそれを揶揄われるを繰り返した。
面倒になりながら繰り返し繰り返し否定し、同じように一緒に帰り、時々、コンビニに寄り道して小腹を満たして、中身が無い話をして、帰る。
それがずっと続くと思っていた。
「好きな子が出来たんだ」
そう、彼が言ったのは私が期間限定の棒アイスを味わっていた時だった。その言葉に、甘いアイスの味は私の口の中から消えた。
「……だれ?」
「同じクラスの佐藤さん」
「ああ」
誰より一緒にいて、誰より彼と付き合いがある私は、彼の異性の好みも知っていた。
彼が名前をあげた佐藤さんは、まさに彼の好みとぴったりだった。たまに、クラスメイトと一緒に話しているのを見たことがある。
「そっか。好きな人ができたか」
私はアイスを齧りながら、考える。
彼は私の言葉を待っているようだ。
「告白して、それからじゃない?好きなんでしょ?彼女にしたいんでしょ?ほら、がんばれ」
に、と笑う。彼は私がそう言うのを待っていたように、笑い返した。
「ありがとう。勇気出た」
「いつする?」
「近いうちに。覚悟はできた」
「それでこそ男だ!」
骨は拾ってやると、背中を叩きながら言うと、思ったより力がこもってしまったらしく、彼は飛び上がった。
「いてぇよ」
「すまん」
「反省してねえ」
「ごめん」
「ごめんで済むなら」
「がんばれ」
言葉を遮る。
私が言うのもなんだが、彼はいい男だ。顔もいい。性格も少し優しすぎるが、それがモテるらしい。欠点は少し運動が苦手なところだが、本人はきっとこれから頑張るだろう。
「がんばれよ」
「おう」
それから、本当に他愛の無い話を少しして、彼は見たいテレビがあるからと先に帰った。
自転車に乗って、彼の背中が遠ざかって行くのをコンビニの駐車場で見送る。
とっくに食べ終わったアイスの棒を齧りながら、一人、コンビニの駐車場で立ち尽くす。
「好きな人ができた、か」
呟くと、急に胸が苦しくなった。わけもなく何かが喉の奥から込み上げてきた。込み上げたものを、言葉にして吐き出す。そうしないと、胸が燃えてしまいそうだった。泣き出しそうで、叫びそうで、でも、出来なくて、口から出たのは、巨大な感情のほんのひとかけらだった。
「私の方が、好きだったんだけどな」
胸の中で、何かが崩れて、足元から消えていく。
あんなに燃えていた火が急に消えて、体が冷たくなった。そして、私は恋が終わったと分かった。
私の初恋の日は、あっけなく終わった。
そして、彼の初恋の日が始まるのだろう。
なぜ背中を押したかなど、簡単な話だ。
好きな人には、彼の好きな人と結ばれて幸せに、笑っていてほしいじゃないか。
隣に私はいなくても、笑っていてほしいほど、私は彼が好きだった。
「失恋おめでとう。私」
家に帰って、部屋で思いっきり泣こうと思った。
そしてやけ食いして、全てを忘れよう。関係がどうなるかなんて、明日考えよう。
そして私は財布の中身を確認し、全財産をスイーツに変えるためにコンビニの中にもう一度入った。
(残酷表現、怪我表現。暴力表現注意)
気がつけば私の体は宙に浮いていた。
酷くゆっくりと感じるのは、今から死ぬという事実を脳が処理できていないからだろう。
壊れたフェンスと共に、私の体はゆっくりと屋上から地面へと落下し始める。宙へと倒れ込む私を、三人は呆気に取られた顔で見ている。
今まで散々、「落としてやる」「飛び降りろ」「動画撮るから早く落ちて」と楽しげに高い声で私に迫っていたが、いざ私が抵抗して、一人が私をフェンスへ突き飛ばしたら、思ったより勢いがあって、私はバランスを崩してフェンスに倒れ込んだ。
そこがたまたま錆びたフェンスで。
たまたま私の体重を支えきれず根本から折れて。
酷く耳障りな音と共に私の体は宙にあっさりと投げ出されて。
とても青い空が、目に映って。
三人のポカンとした顔がとても面白い顔で。
『あ』
その場の全員が同じ言葉を口にした。
刹那。
風を切る音が耳元で流れる。体が、落ちていく。
屋上が遠くなる。景色が流れる。
死ぬな、と思った。嫌だ、とは思わなかった。
いつも、死にたいと思っていた。
一人でこっそり首を吊ろうとした。
一人で刃物を手首に当てた。
一人で川の上の橋から川面を見下ろした。
だがいつも、出来なかった。
あと一歩が踏み出せなかった。
それが、こんな、簡単に、しかも、誰かの手で死ぬとは。
落ちる。
ああ。死ぬのは案外簡単なのだと思った。
最後に見たのが、私を苛めていたあの三人の間抜けな顔で、笑えた。
そう思った刹那。
潰れる音。割れる感覚。折れる音。裂ける。折れる。砕ける。潰れる。裂ける。鉄の味。激痛。激痛。痛い。痛い、いた、赤い。あか。あか。黒。くろ。
ヒュ、と、無意味な息が、最後だった。
夢を見たことは誰にでもあるだろう。
昔は漫画家になりたかった。かっこよくて綺麗な女の子が主人公の漫画を描いて、有名になりたかった。
小さい頃に読んだ漫画に憧れて、という簡単な理由で私の夢は決まった。
夢中で絵を描いた。プリントの裏、チラシの隅、百均で買ったノートを一冊丸々絵で埋めた。そして、大きくなって持たせてもらったタブレットで、デジタルイラストも描き始めた。それはとても楽しい時間で、夢を見るようだった。ここに私の漫画があった。
だが、夢は現実には叶わなかった。
部活で入った漫画研究部には、私より上手く絵を描ける人間が大勢いた。楽しみで入った漫画研究部は、突然居場所のない針の筵のように変わった。そして、色々な画法を使えるタブレットを通じて知った電子の世界には、私より、漫画研究部の人達より、遥かに画力もストーリーもある人物が絵を描いていた。それも、趣味で。片手間の暇つぶしで描いた落書きが、バスって日の目を見る。そんな光景が当たり前のように広がっていた。
その現実を知った時私はスマホの画面から目を離せなかった。感動ではなく、敗北感だった。
私の絵を比べた。比べたくなかったが、比べてしまった。
バランスがおかしい。
色の配色がおかしい。
有名漫画家のキャラと同じようなキャラ。
よくあるストーリー。
突出したもののない、非凡な漫画。
好きだからこそわかってしまった。私には漫画の才能がなかった。その現実を、自分でも驚くほど私は理解した。いや、ネットに投稿し、誰にも見られず消えていく自分の投稿を見ている時から、察していた。
いつの間にか、ネットに投稿するのもやめ、人前で絵を描くのはやめてしまった。
だが、不意に、無性に描きたくなる時がある。
頭に浮かんだキャラクターが喋り出す。どこか遠くの異世界の光景が浮かぶ。現実の綺麗な景色を見た瞬間、これを描きたいと思う。
それは長年描き続けた絵を描くのが好きという感情だった。夢は諦めた。だが、絵を描くのはやめられなかった。
一人、部屋で誰も見せないフォルダに、イラストがまた一枚増える。描き終わった時に思うのは、達成感と、ほんの少しの胸の痛み。私の絵は誰の心にも響かない。
夢を見る心はもう死んでしまった。
現実に、殺されてしまった夢が、まだこのペイントアプリの中でわずかに息をしている。まだ死んでいない夢が、私を動かす。
私は今日も、誰にも見せないイラストをデジタルペンで描いている。
大切なものなどなかった。
自分のものは全て管理され、テレビもゲームも読書も親の監視が酷く許されなかった。交友関係も制限された。クラスメイトと遊びに行くことすら親は「恥知らず」と罵り、私は家へ帰るとひたすら勉強し、ご飯を食べ、就寝するという生活を繰り返した。
親の理想通りの礼儀正しく、素直で、どこに出しても恥ずかしくない娘に育った私は、有名大学に合格し、「大人になったのだから」という理由で、思ったよりあっさりと一人暮らしを許された。自立するために、と、物件は一人で選んだ。
荷物の少ない引越しを済ませると、私はまず、親との繋がりを片っ端から消した。電話番号とメールアドレスを変更し、市役所に行って情報を開示出来ないようにした。親に連絡した住所は、こことは全く関係ない出鱈目な住所を知らせてある。
大学は三日で辞めた。すでに就職先は見つけてある。今はネットで面接も仕事も出来るので大変便利である。苦労してネットカフェを梯子した甲斐があった。
連絡用にと渡されたスマホで、少しずつ情報を調べ、私の親が普通でないのは知っていた。娘を監視し、服も食事も好きなのを選ばせない。娘の交友関係も監視し、成績が落ちると食事もさせない。時には暴力も振るう。そういう親は、普通ではないのだ。
力になってくれた中学の生活指導の先生には、感謝しても仕切れない。確実に親と縁が切れるようにアドバイスしてくれたのは生活指導の先生とその他の市の職員さんだった。私には、こちらの方々の方が大人に見えた。
親に知らせず逃げることにしたのは、母親も父親も自分が何をしているか自覚がなく、大ごとにすれば確実に暴れ、怒鳴り、また私を縛り付けるのがわかっているからだ。だから私は大学進学と同時に上京し、逃げることにした。そして私は逃げ切った。
小さな部屋。今は何も無い部屋。
ここが私の部屋。私だけしかいない。
もう怒られない。もう時間を気にしなくていい。もう好きな時にコンビニでスイーツを食べてもいい。もう夜中に酔った父に殴られない。もう朝早くに両親の朝食を作らなくていい。もう勉強を無理やりしなくていい。もう着たくもない服を着なくていい。もう似合わない髪型をしなくていい。もう好きにテレビを見ていい。もう、何をしてもいい。
私の大切な部屋。私の居場所。
ようやく私は大切なものを手に入れたのだ。
平穏な日常
職場の近くには比較的大きな公園がある。晴れた日は俺は職場ではなく、この公園で昼飯を取ることにしている。公園の側に美味い弁当屋があるのと、木陰の下にベンチが多いのが気に入っている。晴れた日にここで買ってきた弁当を食べるのが、忙しい業務の中のささやかな楽しみだ。
勝手に自分の席にしているお気に入りのベンチに座る。出来立ての弁当が冷めないうちに俺は膝の上をテーブルにして弁当の蓋を開けた。
白いご飯の上にのる黒い海苔。
その上に主張する白身魚のフライ。卵焼きも隣にきちんといる。
そっと控えめに盛られたひじきの煮物に高野豆腐。
そして外せない漬物。
完璧なのり弁だった。のり弁の種類は弁当屋によっていろいろあるだろうが俺はこののり弁が好きだった。
「いただきます」
作ってくれた人とレジのお姉さんに感謝して、箸を動かした。白身魚のフライにかぶりつく。出来立てのフライがサクリと口の中で音を立てる。午前中から忙しかった身にはカロリーが嬉しい。
続けて米を口に運ぼうとした時、仕事用のスマホが鳴った。反射的に手を伸ばし、通話ボタンを押す。
「俺だ」
「警部。殺人事件が起きたと連絡がありました。これから現場へ向かいます」
「わかった。俺もすぐ行く」
ゆっくり弁当を食べる時間は無くなった。美味い弁当をお茶で流し込むようにして素早くかきこむ。ゴミを片付け、公園を走るようにして後にする。
公園には家族連れがいた。犬の散歩中らしき中年の女性がいた。若い男女が笑いながら歩いている。子供が数人。俺の横を走り抜けて公園へと入っていた。
楽しそうな笑い声が聞こえてくる。平穏そのものの光景。俺はこの光景を守るために、日々働いている。
その平和が、脅かされている。
平穏な日常を守るため、俺は職場に戻る。
一人の警察官として、この日常を壊させはしない。