過ぎ去った日々
私は生まれた時からこの街に住んでいる。
小学校も中学校も高校も、自転車で行ける範囲の学校に通っていた。友達と遊んだりするために電車に乗って遠くの街まで行ったり、車の免許を取って県外へ旅行することはあったりすることはあったが、基本的に私の行動範囲はずっと変わらなかった。
だが、行動範囲は変わらなくても、目に映る風景はゆっくりとではあるが変わっていった。
小学校の頃、友達に悪戯されて落とされた田んぼは、今はコンビニの駐車場になった。
中学校の頃、遊びに行った友達の家は開発の影響で空き家になり、いまだに買い手募集の看板が雨に打たれている。
高校の頃、通い詰めたゲームセンターはいつの間にか違う店名に変わり、そして今日その場所を通ると百円均一の店に変わっていた。
家までの道も、歩道も車道もどんどん広くなり、近所の優しいお婆ちゃんが住んでいた路地裏の一軒家はお婆ちゃんが亡くなった後、いつの間にか道路に変わっていた。初めてお使いで行ったスーパーは個人経営から有名企業名に変わった。
知っている道を歩く。変わらない建物もある。同じように母校の学校には学生が通う。だが、赤と黒だけだったランドセルは、今はカラフルな色が並んでいた。
この街に大きな違いは見当たらない。だが、時は経ち、街は知らず知らずに変わっている。あの空き地が前はなんだったか、もう知っている人はいないだろう。私も、何があったか思い出せない。
過ぎ去った日々には戻れない。
建物は変わり、道路は広がり、人は成長する。
街も私も、誰にも知られずに変わっていく。
それに気がついたのは、意外と最近だった。
目的地までの途中、私は新しく出来たコンビニに車をとめ、煙草を買うと外の喫煙コーナーで煙草に火をつける。
煙草の煙の向こうで、幼い私が赤いランドセルを揺らしながら走っているような気がした。
大好きな君に
おかえり!
今日も帰り遅かったね。どうしたの?そこで寝たら痛いよ?うん。元気ないね?
君が元気ない時はいつも僕の側に来るね。ずっとそうだから分かるよ。だから僕はじっと黙って、君が元気になるのを待ってる。座って待つのは得意。
ご飯にする?うん。僕もお腹すいたよ。君が置いていってくれたお昼ご飯はちゃんと食べたよ。初めて食べる味だったけど、すごく美味しかった。何?いい匂いがする!
あ、そうだね。いただきます。
美味しい。ね。美味しいね。君は食べないの?美味しいよ?けどいつも君は僕がご飯を食べているのを見ている。その時の君は笑っているから、僕は美味しそうにご飯を食べる。
美味しかった!ご馳走様!
僕は遊んでるね。君がご飯を食べる間は邪魔しないよ。昔邪魔しちゃって君のご飯をひっくり返しちゃって、お母さんにすごく怒られた。君が泣いちゃって、僕は困ってしまったんだ。だから邪魔しない。
どうしたの?ご飯終わった?座る?
僕を撫でてくれる手はいつも温かい。小さい頃からずっと温かい。
なんか水が降ってきた。何?この味。変な味。
君の目からまた水が流れてる。大丈夫。僕が舐めてあげるから。そうしたら君はいつも笑ってくれる。そしたら目から水は止まってる。
舐めていたら、やっと君は笑ってくれた。
「こら、ラッキー」
僕の名前を呼んで、僕の体に抱きついてくる。昔は小さかった君は、いつの間にか僕の体を追い越すくらい大きくなって、僕は君の膝の上に乗るのが精一杯だ。
「わん」
一つ君に声をかけて、僕の定位置の君の膝の上に座る。小さな足では君の体の上に登るのも大変だけど、僕はここが好き。
大好きな僕の妹。大きな僕の妹。大好きな君には、ずっと笑っていていてほしい。
そしてたまには、おやつをちょうだいね。
たった一つの希望
今日も散々な一日だった。
クレームの電話で貴重な休憩時間は潰れ、後輩のミスの修正をし、突然の上司の無茶振りで企画書の見直しになり、おかげで家に帰る頃にはクタクタになってしまった。わずかな気力はコンビニで晩御飯を選ぶエネルギーに消えた。
玄関で倒れ込む。冷たい床が頬に伝わる。このまま眠ってしまったらどんなに楽だろうと考えるが空腹が眠気に勝った。唸り、ゾンビのような動きで玄関から離れる。
「疲れた」
呟いても、部屋には返事をしてくれる人はいなかった。
電気をつけ、コンビニ弁当を温める。温める間にスーツから着替え、缶ビールを飲むとアルコールが少しだけ疲れをとってくれた。
無機質な音。温め終わった弁当を手にし、テーブルに座ると箸を片手に、スマホを片手に食事を始めた。
スマホの画面には今年生まれた息子と、大切な妻が待受で笑っていた。
単身赴任になって早半年。実家が子育てに協力してくれているとはいえ、妻には大変な苦労と迷惑をかけているのはわかっていた。だが、このプロジェクトが終われば妻と子供の元に帰れるのは決まっている。そのために、日々の仕事の辛さも耐えられる。
家族の元に帰る。それが、仕事を続けるたった一つの理由であり、辛い日々を耐える希望だった。
食事を食べ終えたら風呂に入ろう。そして通話をしてみようと思った。
そう思うと少し気力が湧いてきた。手早く食事をする。
早く、妻の温かい手料理が食べたいと強く思った。
欲望
「貴女は色々欲しがる子だったよ」
母親が愚痴とも思い出話とも取れる言葉をポツリと漏らしたのをやけに覚えていた。そして、その自覚は私にはあった。
小学校では友達のキラキラしたペンケースが欲しくてその子と喧嘩をし、中学校では最新のスマホが欲しくて親に駄々をこね、そして現在、高校生の私はスマホの中に広がる綺麗な人達が羨ましくてたまらなくなった。
綺麗に踊る同じ年頃の女の子。
彼女との自撮りをあげる男の子。
高得点を幸せそうに報告する知らない子。
欲しかったものを手に入れた他人。
美味しそうな料理を食べる大人。
楽しそうに旅行している子供。
笑顔で笑っている親子。
可愛いペットと笑っている年寄り。
みんな、みんな、私が持っていないものを持っている。
なんで?なんで?私にはペットも彼氏も綺麗な洋服も可愛い顔もよく出来た頭も何もない。
羨ましい。とSNSに呟くが共感のハートは集まらない。
いいな。いいな。と、見かけた羨ましいものにハートを押す。
画像や動画にハートがつく。だんだんと押しているうちに羨ましいといつもの感情が浮かんできた。
私も、欲しい。
それが承認欲求と言われるものだというのは、SNSの情報の中で自然と聞こえてきた。
だからなんだというのだ。私は欲しい。
キラキラしたカフェのメニューや、少し加工した可愛い自撮りをどんどんとSNSにあげていった。最初は見向きもされなかったが、少しずつ、ハートとフォロワーが増えてきた。
上目使いが上手くなった。小顔に見える撮り方が上手くなった。流行りの服装とポーズが上手くなった。
どんどん、ハートが増えていく。
写真を上げた瞬間は通知が止まらない。だが数時間ですぐ通知は止まってしまう。それがたまらなく嫌だった。
なんで?もっと。もっと。ハートを頂戴。いいね。って褒めて。
あなたには出来ないでしょう?羨ましいでしょ?ねえ。
欲求は止まらない。注目されたい欲望は止まらない。
そして今日も私はカメラに笑顔を向ける。
欲望はスマホ一つで簡単に叶えられる。
現実逃避
北の大地ヘルガーデン。モンスターが蔓延る極寒の大地。歩けば冒険者を餌としか思わない高レベルのモンスター達が牙を剥き出して襲いかかってくる。
私は慣れた手つきで武器を振り回す。私の身長より巨大な両手剣「破壊の帝王」は向かってきた豹のようなモンスターを両断した。血飛沫は飛ぶが、それは地面に落ちるとホログラムとなって消える。両断された体から漏れるのは血液ではなく塵のような演出。ウインドウに表示されるレベルアップの文字。経験値とコインとドロップアイテムが表示される。
息を吐く。風景は吹雪いているというのに私の服装はとても軽装だ。耳当てもフードも防寒具もなく、和風をモチーフにしてはいるが現実世界にはありえないデザインの服装。鎧も身につけておらず、布切れだけの装備だが、寒くもない。何も感じない。
画面越しの私が操作するキャラクターは私が動かす通りに歩みを進める。もうすぐエリアボスに差し掛かる。
ありふれたPCゲームの世界を画面を映し出す。もうこのゲームにログインして何時間になるだろうか。帰ってきてから最低限の食事と入浴を済ませてからだから、数時間はやっていると思う。もう少しプレイしたい精神と裏腹に体は眠気を覚えていた。疲れた目を抑える。もう一戦だけバトルしたら現実逃避のこのゲームをやめて寝ることにした。ずっとこのゲームの世界に入り込んでいたいが、明日も仕事という現実が時計の時刻とともに襲ってくる。
ずっとこのままゲームをしていたいが、ゲームをするための電気代も、ネット代も家にいるための家賃も稼がないとゲームができない。仕方なく、行きたくもない会社に行き、生きたくもない現実世界を生きている。
ゲームはいい。ゲームの中にはムカつく上司も、嫌味な同僚も、人間を苦しめる異常気象も、戦争も誰かの不幸も何もない。
ただ、敵を倒し、強くなる。それだけでいい。
誰も、何も、ない。
いるのは、自分の理想を詰め込んだキャラクターのみ。
仮想世界に逃げ込んだ私は再び画面を見る。
現実逃避はまだまだ終わらない。