時間よ止まれ
時間よ止まれと念じても時計の針は止まらず、待ち合わせに遅刻する現実が押し寄せてくる。
約束の時間はとうに過ぎ、待ち合わせの駅前のカフェまでの道を俺は全速力で走っていた。待ち合わせ相手はやっとデートまで漕ぎ着けた憧れのクラスメイトの女子。走る脳内で走馬灯のように映像が流れてくる。
友人に頼んで大人数で遊んで話すきっかけを作って、少しずつ、少しずつ、話題を増やして、やっと笑ってもらって、やっと、彼女が見たい映画も俺も見たいとこじつけて、一生に一度の覚悟で誘った映画に奇跡的に一緒に行けるようになった。
それなのに当日に寝坊したのは俺だ。
緊張していたから寝つきが悪かったなど言い訳にしかならない。駅まで全速力で走ったが虚しくも目の前で電車のドアは閉まった。その時の俺の絶望感を生涯忘れない。
慌てて遅れる旨をLINEで伝えると、可愛いスタンプで大丈夫。待ってると返ってきた。クラスメイトを待たせる罪悪感が絶望感を上回った。
次に来た電車に飛び乗る。早く早くと念じても電車は早くならず、定刻通りに目的地の駅に着いた。ドアが開くと同時に飛び出す。ホームを走らないでくださいというアナウンスも無視した。
外へ飛び出すと、駅前のからくり時計が丁度待ち合わせ時間を示して、クラシックのオルゴールをかけていた。行進曲に合わせて人形が踊っているのを横目に、俺はカフェを目指した。人混みをすり抜けて見えてきたカフェの窓際の席に彼女はいた。
制服ではない私服の彼女は、とても綺麗だった。
急いでいたのも忘れて、見惚れる。本当に、一瞬時間が止まったと感じた。
彼女が俺を見つけて、手を振ってくれる。止まっていた俺は手を振り返し、頭を何度も下げた。
「大丈夫」の口パクと手招き。俺はやっとカフェの入り口へと歩き出す。
まずは遅れた事を謝ろうと、俺は無数の謝罪の言葉を頭に浮かべ始めた。
今日の気温は本日も今年最高気温を更新していた。
夏真っ盛り。熱中症警戒アラートは全国で鳴り響き、外を出るのも命懸けになったのも当たり前になってきた。人々が自然と涼しさを求めて様々な商業施設や公共施設を利用し始めている。
今の私もフードコートの1席をアイスコーヒー1杯で2時間程粘っている。天気アプリが示す現在の気温は38度。ちょっと人間には危険な気がする。今、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。やはり危険だと、もう氷も溶け切っているアイスコーヒーを誤魔化すように飲んだ。
お昼を過ぎて暑さも最高潮なフードコートはかなり賑わっている。家族連れや学生の姿も見える。もちろん、私のように占領している人も見られる。お互いに気にしてはダメだがそろそろ移動したほうがいいかと良心が痛み出す。
家の立地とバグのような電気代の高騰と少ない給料のせいで私はよくこのフードコートを利用している。無料Wi-Fiと充電スポットと居座る根性さえあれば今の人間は無限に時間潰しができるのだ。ここのおかげで、私はまだ今年は熱中症になっていない。
クーラーを効かせ、私達を守っているこの商業施設はまるで鳥籠のように私達を閉じ込める。自主的に逃げないようにし、ご飯も与えてくれ、水分も与えてくれる。
だが私達には帰る家がある。もう少し夕方になり、気温が下がってくれたら家に帰るのだ。
早く安心して家でゆっくりしたいが、人類が温めた地球はそうしてくれない。
ぶぶ、とスマホの通知が震える。天気アプリが数分後にゲリラ豪雨の確率があると伝えていた。ガラス窓の向こうを見ると、奥から黒い雲が動いていくのが見えた。気象知識の無い私でもこれは強い雨が降るのが分かった。
まだ鳥籠から出られそうにない。私は観念し、2杯目のアイスコーヒーを注文するために席を立った。
「もしもタイムマシンがあったらあなたはどうしますか?」
駅の広告にそんな文句が書かれていて、思わず足を止めた。
もうすぐ始まるドラマの広告文だった。綺麗な女の人が手を伸ばして何かを掴もうとしている構図。何かを取り戻したいのか、その何かはポスターからは分からない。ドラマのお楽しみというやつだ。
当たり前の構図。よく見た構図。引き込まれたのは、ただ、とても綺麗な色使いだったからだ。無機質な駅の構内に、そのポスターは綺麗な色をして目立っていた。
「タイムマシンねえ」
ショルダーバックを持ち直して、そのポスターから目を逸らして駅の中を急ぐ。いつもの電車には間に合いそうだ。
過去に戻れたら。未来に行けたら。タイムマシンがあったらどうする?
人生で何回か問いかけた事はある。誰だって一度は考える話題だろう。
未来の子供の姿が見たい。未来の結婚相手が初恋のあの人なのか知りたい。
過去に戻ってやり直したい。過去の失恋をやり直したい。過去に戻って子供の頃に死んだ両親に会いたい。
戻れるなら、進めるなら。
だが私は、時の流れが止まらないことを知っている。過去は戻らず、未来はその瞬間になるまで分からない。一秒ごとに過去になる。一秒ごとに未来が来る。
不意に、戻りたい過去を思い出した。
虐められていた学生時代。笑われ、涙し、悔しがり、憎み、助けられず、何も分からず、ただ耐えていた学生時代。今でこそ、ネットの海に火種を放り込めば炎上するような壮絶なものだったが、誰も彼も見て見ぬふりをし、影で笑っていた。
現実を忘れるように、勉強した。勉強すればするほど、それをネタにまた笑われたが、人生を点数で見る社会では、結果的にそれが良かった。
必死に勉強したおかげで、大学に行け、さらに勉強した。そして、今はスーツに身を包み、公務員という立場になれた。
ホームにたどり着くと、ちょうど電車がやってきた。乗り込み、職場に着くまでの間にメールやネットニュースをチェックする。
電車の窓に、私の姿が映っている。
マスクの下で微笑む。
「大丈夫。なんとかなってるよ」
過去の私に届けるように、呟いた。
死ななければ、未来は来るのだ。
「あの頃の私へ」
あの頃の私へ。
あの酒癖の悪い男に殴られ怒鳴られて泣いていた私へ。あいつは5年後に酔っ払って階段から落ちて死ぬよ。
あの頃の私へ。
私に食べ物をくれなかったあの女にあの寒い台所で狭い地下収納に押し込まれていた私へ。あの女は頭の悪い男に捕まって7年後にどっかへ行ってしまうよ。
あの頃の私へ。
私の傷だらけでボロボロの姿を揶揄っていじめていた男達はSNSで炎上して6年後に社会的地位を失ってるよ。
あの頃の私へ。
私の事をくさい汚いと便所に閉じ込めて水をかけたり、影で私の事を笑っていた女達は8年後にはパパ活とかで私より汚い事をして警察のお世話になってるよ。
あの頃の私へ。
今必死に勉強している私へ。必死に本を読んでください。必死に内容を覚えてください。テストの点数しか見ない人達が、推薦してくれます。学歴はなんとかなりますから。
会社では事情を知らない人達が仕事を叩き込んできます。最初はわからないでしょうが、覚えましょう。一人でなんでも出来るようになりましょう。人を頼ったり、褒めたりするのを覚えましょう。そうしているうちに、流れるように仕事ができるようになるから。
お金が手に入ったら、それで楽しいことをしましょう。
お酒は飲まず、美味しいものを食べましょう。温かい布団で寝るのもいい。旅行もいい。
好きな事をしよう。やっと心から楽しいと思えるし、笑っていい。
あの頃泣いていた私へ。
今私は心から笑ってるし楽しいから
あと10年だけ。がんばれ。
「透明」
私はいつも、いてもいなくてもいい存在だった。
親は出来のいい弟の面倒ばかり見た。元々男の子が欲しかったらしい。すぐに私の衣食住は子供でもわかるほど弟の方が良かった。親は弟が90点を取ると天才と褒めた。私が100点を取っても当たり前でしょと言った。そのうちテストを見せなくなった。
クラスでも一人だった。本が好きだったのもあるが、親に喋りかけても欲しい言葉は返ってこないので口を開かないでいたら学校でも口を開かなくなっていた。ただ勉強と委員の仕事は真面目にしていたので、先生の目には止まっていた。
学生時代は、クラスでたまに真面目だったり、明るい子だったりが一人の私を気にかけたり、面白がって声をかけてくる。その子達が私と最低限の人間との付き合い方を教えてくれたが、頻繁に遊びに誘ってくれるわけでもなく、彼女達曰く、私は「数合わせ要員」だったそうだ。
社会に出ると、いてもいなくてもいい存在である私はそれが強く出た。
社会の歯車として働くが、私の代わりは誰でもいる。たまたま入社して、あてがわれた位置に私という歯車がはまっただけだ。
今日は一人、休みが出て、その人の分まで仕事をする。誰かが休んだ社員を恨んでいるがインフルエンザは仕方がない。
そうすると、仕事とか社会というものは案外歯車が一つかけてもなんとかなるという事実がわかる。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
自分の分の仕事を終わらせ、挨拶をするが、返事は誰からも返ってこない。キーボードの音が虚しく会社の中に響いている。
私は一人、会社を後にする。いつもの道を通って駅に向かう。たまたま私と帰る時間が一緒だったという人達が同じような顔で電車を待っていた。
その人達に混じる。途端に、私がどこにいるかわからなくなる。雑踏に紛れた私に誰も気が付かない。気を向けない。スマホの画面に同じように視線を向けている。左右を見ても同じだった。同じようにスマホに目を向けていると、自分の輪郭が無くなって、透明になってしまった気がした。人の海に溶けた私は、波に流されて電車に乗る。
私がここにいる実感がなかった。酷く自分の感覚が朧で、透明だった。人に圧迫されて、どこからどこまで私か分からなくなる。
ぼんやりと外の景色を見る。灯りの下には誰かがいて、生活している。仕事をしている。私の知らない世界がある。私がいなくても、回る世界が広がっている。この電車の中にも、私の関係なく自分の世界を回している人がいる。
社会の歯車の私は、酷く透明で小さい。それをいつも感じて生きている。
微かに、バレないように息を吐く。
それだけが、私がここにいる証だった。