Open App
4/7/2023, 8:48:24 AM

『君の瞳を見つめると』

 吸い込まれそうな瞳とは、きっとこのことを言うのだろう。君と出会って最初に抱いた感情はそれだった。東北の生まれだという君の瞳は薄青をしていて、それでも曾祖父母の代まで遡っても日本人だという。見た目は完全に日本人なのに、瞳だけが透き通るように青いのだ。そのアンバランスさが不思議な魅力を伴って、僕をまっすぐに見つめてくる。その虜になることは、さして難しいことでもなかった。
 君はその少し異質なアイデンティティを体現したように、シャイで謙虚で丁寧で、でも時々驚くほど大胆で。

4/1/2023, 5:16:14 AM

『幸せ』

 幸せとは一体なんだろうか。愛か?お金か?地位や名声?あるいは自由?
 駆け落ちして生活苦に喘ぐ恋人たちは幸せなのだろうか。孤独な億万長者は不幸なのだろうか。肩書き目当ての人間に囲まれる権力者は幸せなのだろうか。自分で何者かになるしかない、選択の重さを背負った若者は不幸なのだろうか。
 世の中にはいろんな人がいる。十年後の不安で命を絶つ人がいれば、今日のパンを得られずに死ぬ人もいる。その死を悼んだ数万人が献花に訪れるような人もいれば、孤独死の末に骨まで土に還る人もいる。生まれて来なければよかったと叫んで死ぬ人がいて、もっと生きたかったと死の淵で嘆く人がいる。
 世の中はままならなくて、誰だって隣の芝生は青い。自分には得られないものばかり欲しがって、手元にある誰かが喉から手が出るほど欲しいものには見向きもしない。失って初めて価値に気付くことの傲慢さに、果たして何人気が付いているのだろう。
 与えられたカードで勝負するしかないのだと、どこかの誰かが言った。与えられるカードは千差万別で、ロイヤルストレートフラッシュのような素晴らしい手札があれば、役どころかハイカードすらパッとしないゴミのような手札もある。引き直しはできない。努力はそれをどこまで補正できるのだろう。
 努力は報われるとは限らない。報われた人が努力しているとも限らない。世の中にはどうしようもないものが結構あって、運もその一つだったり、そうではなかったりする。たとえば溢れるほどのピアノの才能を持った青年が、絵画の道で成功できずに心を病むように。百年に一度のバスケの才能を持った少女が、陸上競技で挫折しスポーツから離れるように。自分の適性に気が付かなかったり、適性と好きが違ったり。あの子と自分が逆だったらよかったなんて、そんなことは無数にあって。世の中は理不尽で、どうしようもなくて、結局のところ、幸せは自分で見つけるしかないのだ。週末のちょっと高いディナー、ボーナスで買う新しいバッグ。昼過ぎまで寝る休日、昔の仲間と青春時代に帰るフットサル。くだらない話ができる友達、授業がだるいと言える環境。酔っ払って道で寝ても生きていられる治安、そこら中に自動販売機が設置できるモラルの高さ。雨風を凌げる場所で寝られること、明日のご飯の心配をしなくていいこと。死にたいと思うほど生きられたこと、死にたいと言える相手がいること。
 何が幸せかは、あるいはその人が決めるのかもしれない。人の数ほど幸せがあって、人の数ほど不幸があるのだろう。

3/17/2023, 10:42:41 AM

『もう泣かないけれど』

 小さい頃は、同年代の子と比べても体が華奢で小さくて、些細なことにも怯えるくらいに気弱な少年だった。幼馴染の女の子の背に隠れては、その子の袖を握って後ろをついて回っていた。いつだって優しく庇ってくれるその子を、好きになるのは時間の問題だった。
 やがて成長期を経て、背が伸びて筋肉も付き、人見知りだってずいぶん治った。お世辞や建前もそれなりに上手くなって、社交界でもある程度の地位を築いた。その頃になると、まるで手のひらを返すように周囲の態度が様変わりしていることには嫌でも気付いた。かつてのいじめっ子たちは、男はごまでもするようにへりくだり、女は媚びるように猫撫で声で話しかけてくる。吐き気がするような性根の人間ばかりの中で、あの子だけはずっと変わらなかった。幼い頃と、そりゃあ節度は違うけれど、いつだって優しく迎えてくれる。彼女の前でだけは、肩の力を抜いて素の自分でいられた。
 だから、その場所を失うのが怖くて。昔みたいに涙を浮かべたりはしないけれど、もう少しも怖くない犬や雷が苦手なフリをして、理由をつけては彼女のもとを訪れる。呆れながらも笑って受け入れてくれる彼女は、こんなに汚い僕の性根も笑ってくれるだろうか?
 まっすぐ愛を伝えるには、僕はやっぱり臆病すぎて。今日も、彼女の優しさに縋ってばかりいる。

3/17/2023, 10:41:59 AM

『怖がり』

 あなたは昔から怖がりだった。小さな頃はどこに行くにも私の後をついて回っていたっけ。少しの物音にもびくりと金の巻き毛を揺らして、震える睫毛から覗く青い瞳も揺れていた。あの頃は私の方が背が高くて、人見知りで怖がりなあなたをよく背に庇っていたわ。しがみついてくる細い腕が、まるで弟みたいで愛しかった。
 いつしかあなたが私の背を追い越して、輝くような金の巻き毛は落ち着いたダークブロンドに変わって、人見知りもずいぶん治って、貴公子様なんて呼ばれるようになって。あなたはずいぶん遠くに行ってしまった。社交界でも中心に近い位置にいるあなたは、私の背で震えていた小さな少年とは違うのに、私の目はまだあなたを追ってしまう。あんなに立派な青年になって、それでもまだ私の前では臆病な少年みたいに気弱なまま。えへへと幼く笑うその顔を、知っているのは私だけ?他の人といると疲れるなんて言うあなたは、私の前で見せる怖がりが素の表情だっていうの?私を見つけるとパッと笑顔になるのは昔から変わらないのに、昔と違って私の胸はときめいてしまう。
 叶わないとわかっている想いを捨てられなくなる前に、どうか私から離れて行ってほしい。思うばかりであなたを拒絶できない私の弱さに、あなたは甘えているのかしら。本当は犬も雷も怖くないのでしょう?いじめっ子だった彼らにも簡単に勝てるくらい強くなったのでしょう?気付かないフリをしていることも、あなたは知っているのかしら。猫を被るのが上手になったあなたの本心は、私にだってわからない。このまま行き遅れになってしまったら、誰が責任を取ってくれるのだろう。それでも私は、訪ねてくるあなたを笑顔で迎える他はないのでしょうね。私にだけ見せるあなたの弱さだなんて、甘美な蜜を捨てられないのだから。

3/15/2023, 6:21:59 AM

『安らかな瞳』

 君が花を見つめるときの瞳が、好きだった。やさしさと愛おしさが内包された美しい榛は、一瞬で僕の心を奪った。その瞳に僕を映してほしくて、何年頑張ったことだろう。でも、君がその瞳を向けるのは、いつだって花と一人の男だけで、僕はどれだけそいつを妬んだだろう。
 やがて、世界一幸運な男はあろうことにか君のもとを去って、二度と戻らなかった。世界一の幸運を捨てた男のことが、僕はとてもじゃないが信じられなかった。それと同時に、喜びもした。君の瞳を得るチャンスが、僕にも与えられたのだと思ったからだ。僕はまた何年も頑張ったけれど、それでも君はそいつを想い続けていた。
 男が君のもとを去ってから五年が過ぎ、十年が過ぎて、僕はとうとう君の瞳を得ることを諦めた。君の近くにいるのは辛すぎて、当てのない旅を始めた。君を縛った男を死ぬほど恨んだけれど、旅の途中でその男が十年も前に死んでいることを知った。死ぬ直前まで、故郷に残した恋人の話をしていたらしい。男は君を捨てたわけじゃなく、帰りたくても帰れないまま命を落としただけだった。それを知って、まだあの場所で男を憎みきれずに愛したままの彼女を思った。
 僕は今少し旅を続けた。男の足跡を辿って、とうとう遺品を見つけ出した。茂みに引っ掛かっていた鎖のちぎれたペンダントには、色褪せた君の写真が収められていた。周囲には白骨化した人骨が数えきれないほどあって、僕はその男を探すことを諦めた。僕はそこで旅をやめた。
 故郷に戻って君にそれを渡した時、君はあの瞳にペンダントを映して涙を浮かべた。それから、あの瞳に僕を映して、「ありがとう」って、それだけ言って泣き崩れた。僕が何年も渇望したその瞳はやっぱり美しくて、やさしくて、そして途方もなく哀しかった。

Next