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『安らかな瞳』

 君が花を見つめるときの瞳が、好きだった。やさしさと愛おしさが内包された美しい榛は、一瞬で僕の心を奪った。その瞳に僕を映してほしくて、何年頑張ったことだろう。でも、君がその瞳を向けるのは、いつだって花と一人の男だけで、僕はどれだけそいつを妬んだだろう。
 やがて、世界一幸運な男はあろうことにか君のもとを去って、二度と戻らなかった。世界一の幸運を捨てた男のことが、僕はとてもじゃないが信じられなかった。それと同時に、喜びもした。君の瞳を得るチャンスが、僕にも与えられたのだと思ったからだ。僕はまた何年も頑張ったけれど、それでも君はそいつを想い続けていた。
 男が君のもとを去ってから五年が過ぎ、十年が過ぎて、僕はとうとう君の瞳を得ることを諦めた。君の近くにいるのは辛すぎて、当てのない旅を始めた。君を縛った男を死ぬほど恨んだけれど、旅の途中でその男が十年も前に死んでいることを知った。死ぬ直前まで、故郷に残した恋人の話をしていたらしい。男は君を捨てたわけじゃなく、帰りたくても帰れないまま命を落としただけだった。それを知って、まだあの場所で男を憎みきれずに愛したままの彼女を思った。
 僕は今少し旅を続けた。男の足跡を辿って、とうとう遺品を見つけ出した。茂みに引っ掛かっていた鎖のちぎれたペンダントには、色褪せた君の写真が収められていた。周囲には白骨化した人骨が数えきれないほどあって、僕はその男を探すことを諦めた。僕はそこで旅をやめた。
 故郷に戻って君にそれを渡した時、君はあの瞳にペンダントを映して涙を浮かべた。それから、あの瞳に僕を映して、「ありがとう」って、それだけ言って泣き崩れた。僕が何年も渇望したその瞳はやっぱり美しくて、やさしくて、そして途方もなく哀しかった。

3/15/2023, 6:21:59 AM