目の前にある猫は体から血を流している。赤黒い液体はその個体の周りに水溜りをつくっている。間違いなく死んでいる。そのすぐ側に、そいつは両手をだらんと投げ出しうなだれていた。その指先と地面の間には、テレビかなんかで観たことのある獣を捌くようなナイフがぬらぬらと輝いている。そいつの顔は長い前髪に隠れていた。奥からのぞいている熱く充血した瞳と目があう。まずい、と本能が言った。はやく、ここから離れなければ。
俺は足に力を込めようとする。だが、上手くいかず、それどころかその場から一歩も動けなかった。瞬間、世界から現実味が消えた。ゆっくりとした動作でそいつはナイフを掴み、こちらに近づいてくる。赤黒い液体を滴らせながら。
「やめてくれ」
案の定、哀願は届かない。聞く耳を持たないタイプなのだろう。こうなれば、もはや殺戮機だ。殺戮機は最期にこういった。
「俺は、お前に潜む好奇心だ」
白光する画面を睨みつけて数分。時間はすでに日付を跨いでいる。
顔を上げればそこはまるでスラム街のように荒んだ気配に満ち、私の血走った眼光は数時間遅れの時計を捉える。
いったい、いつから、ここは時間が止まっているんだ。ぐるりと視線を這わせれば、飲み差しのペットボトルが途方にくれ、靴下は床でまるまり、あまたの紙類の骸が転がっているではないか。
片付けようと気持ちが先行するばかりで、お尻は椅子にくっついて離れようとしない。
「あと、で、やろう」
ぼさりと呟いたものの、そんな余力など毛頭なかった。こない。何度も確認するが、電波はある。ボタンひとつで電波にのせてどんな距離も楽々と飛び越えられる時代で、場所で、私のスマホは何も受診しない。
「今年は閏年なのになあ」
ぼやく。あいかわらずお尻は椅子にハマったままだ。
オリンピックが開催されるのとまったくおなじ周期で誕生日がやってくる。いや、きっと閏年のほうがまえに制定されてるはずだから、むしろオリンピックが閏年に合わせている。しかしこんなに静かな誕生日は日本中くまなく探してもそう見つかりはしない。
ピコン、とやけに大きくスマホが鳴った。どうじに画面上方あたりで通知が控えめに顔を出して、消えた。
「って、公式かい!」
おもわず大声で叫んだら、その反動で勿忘草色の一輪挿しがカランと音を立てた。
鴨川は言わずと知れた散歩道だ。
「ちょっと歩く?」
言われてすぐ、気を遣われてるのだと僕は思った。
「そうですね」
映画を観たその足で出町柳まで歩くことになった。川はぬらぬらと黒光りしながら横たわっている。
それが恰も自分の心を映しているかのようで思わず目をそらす。
「マーベルおもろいなあ、やっぱ」
気まずい空気を断ち切るように先輩は言った。
「面白かったです」
落ち込んでる僕を励ますため映画に誘ってくれたうえ、こうして優しい言葉をかけてくれる。
まったく、人生の先輩には頭があがらない。
「……あの、いつもありがとうございます。気にかけてくださって」
先輩はなにも言わない。しだいに葦が生い茂り、水面が見えなくなった。
たまには散歩もいいな。いろんな気づきを与えてくれる。
夜空って、黒いんだな。こんどは青い空を眺めにくるとしよう。
流行りの病がどんなふうに辛いのか彼女は話した。それは一方通行の語り口で、傾けられた耳は疑いにそばだった。
「ただのかまってちゃん……」
どこか腑に落ちないふうに、僕は首をかしげる。なぜ彼女はこんな投稿をしたのか。
「べつに心配してなんて言ってない」
「なら、どうしてこんな真似を」
「発信することで、辛いときに誰かが救いの手を差し伸べてくれるかも」
なるほど病気の報告をソーシャルネットワークでするのはかまってちゃんがすることのようで、実際には益のあることかもしれない。
「君の言うとおりだ。ごめん」
彼女の家のドアノブにかけられたコンビニの袋を、僕は熱い瞼に浮かべた。気をかけた彼女の友達が持ってきてくれたものだ。
「あなたは大丈夫?」
瞼を開く。熱い涙が頬をつたう。
僕はひとりだ。たったひとりきりだ。病に伏せているという投稿をしなかったのは、やったとて救いの手どころか温かみのある言葉ひとつ届かないから。
でも……
「僕は」
「何回殺そうと思ったか」
ゴミ箱のように醜悪な言葉だ。まだ目を合わせづらい僕はしかし、彼に同調した。
「わかる」
これは紛うことなき本心だった。同意するのは確実に自分を落とすような真似だ。けれど彼の口をついてでたのはまるまる僕の言葉だったからしかたない。
「この仕事向いてないわ」
どちらともなく愚痴は溢れる。ふだん仲悪いくせに、こういうときつくづく同期だなと思えた。
「あとちょっと、頑張ろうぜ」
そう言って、それぞれの仕事に戻る。
この業界ではそこかしこでこんな場面が生まれている。