雨が降っている。さああと静かな音を立てて。
レイハは雨に濡れながら中庭を歩いていた。道に迷ったわけではないが、当てもなくふらふらと。
彼女の背後には、いつもならいるはずの護衛はいなかった。もし、いたとするならば、雨が降り始めた時点で、彼女は引っ立てられるようにして屋内に連れていかれたことだろう。
レイハは立ち止まると空を仰いだ。厚く覆われた雲から、まるで涙のような雨が降ってくる。まさに天の涙と形容するに相応しい。雨を顔に受けながら、目を閉じた。
この城はとても窮屈で、自分を縛ってばかりいる。帰る場所は元よりなかったが、籠の中にいたいわけじゃない。どこにも行けないのなら、重荷を捨ててしまうしかない。
今すぐに全てを投げ出したい。全て、この雨に流されてしまえばいいのに。
長く雨に打たれていたせいか、彼女は小さくくしゃみをした。そのとき、近くで大きな溜息が聞こえたかと思うと、背後の藪ががさがさと音を立てた。ぼうっと突っ立っている彼女の肩を誰かが掴む。
「……探したぞ」
レイハは緩慢な動作で振り返る。そこに立っていた人を見て、目を大きく見開いた。夢でも見ているのかもしれないと目を瞬いた。
「……王子様、どうしてここに……?」
彼はそれに答えることなく、彼女の腕を掴んで引っ張っていく。彼女は引きずられるようにして歩き出した。彼は藪を掻き分けて進んでいく。少しすると、妙に開けた場所に出た。大きな樹の根元だ。大きく枝葉を広げているおかげで雨が吹き込んでこない。
「お前は以前、雨に打たれて熱を出したことをもう忘れたのか」
呆れたと溜息が混じった、疲れた声音で彼は言った。何も言えずにレイハは思わず俯いた。
彼は彼女の着ていた濡れそぼった外套を剥ぎ取ると、自分が持ってきた雨避けの外套を羽織らせた。すると、役目は終わったと言わんばかりに、樹の根元にどっかと腰を下ろす。立ち尽くしている彼女を見て、隣をぽんぽんと叩いた。
レイハがおずおず彼の隣に腰を下ろすと、彼は自然な動作で彼女を抱き寄せた。冷えて蒼白かった彼女の頬にさっと赤みが差す。
「しばらくすれば、雨も止むだろう。それまで大人しくしていろ」
彼の言葉を彼女は上の空で聞いていた。早鐘を打ち始めた鼓動の音が聞こえていないことを祈りながら。
今日、アンネとナハトはサンダーバード討伐のため、この山を訪れていた。無邪気にはしゃぐアンネを尻目に、ナハトは山道をひたすら登りながら、徐々に様相の変わっていく風景に悪い予感がしていた。
登り切ったとき、彼女は愕然として立ち尽くした。ギルドからそれほど遠くない場所にある山だが、季節のせいだろうか、標高のせいだろうか、眼前には見渡す限り、真っ白の雪景色が広がっていたのだ。
「通りで景色が白くなっていくなと思ったぜ」
ピュウと口笛を吹いて、ナハトは肩を竦めた。辺りを見回すが、右を向いても白、左を向いても白。地面はもちろん白。
二人はとにかく歩き始めた。さくさくと雪を踏んで進んでいく。
へっくちと隣でアンネがくしゃみをしたので、彼は我に返った。彼は雪国で生まれ育ったせいか、寒さには滅法強かったのだが、隣のアンネはそうでなかったことをすっかり忘れていた。
一度だけではすまなかったのか、二度三度と立て続けにくしゃみをする彼女に、ナハトは自分の上着を羽織らせた。身震いしながらも、彼の方を振り返ったアンネは目をぱちぱちさせた。
「あの……ナハトさん、これ……」
「ああ、オレ、寒いの平気なんだ。いいから、着てな。ないよりはマシだろ」
礼を言いながら、彼女はそれに袖を通した。まだ微かに彼の温もりを感じる。
さやさやと吹いていた風は、やがてピュウピュウと吹き荒れ始めた。
ナハトは風除けになるべく彼女を自分の方に引き寄せながら、どこか風を凌げる場所はないかと辺りを見回した。少し離れた場所にぽっかりと口を開けている洞窟が見えた。彼は彼女を抱き上げると、走ってそこに向かう。
洞窟の中は魔物も見当たらず、そんなに深くなかった。奥まったところで火を熾すと、それに当たって暖を取る。
ぱちぱちと爆ぜる火の粉を見つめるうちに、アンネはぼうっとしてきた。うつらうつらと舟を漕ぎ始めた彼女に気づいたナハトは、彼女に向かって口を開いた。
「アンネ」名前を呼ぶと、彼女は彼の方に振り向いた。瞼がとろんとしている。「寝るなら、オレの隣で寝な」
どうしてだろうと思ったが、口に出して意味を問えるほど、意識がはっきりとしていなかった。言われた通り、アンネはいそいそと彼の隣に移動すると、彼にもたれかかって、少しもしないうちに寝息を立て始めた。
そんなアンネをナハトはこれ以上ないくらい優しい瞳で見つめている。
気づいた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。ただでさえ迷路のような路地裏なのに、夜闇に沈んでしまっては、もう帰り道はわからないといっても過言ではない。
途方に暮れて、空を仰ぐと、まるで猫の瞳のような三日月がこちらを見ていた。
あれでは夜道の灯りにするにはあまりにも頼りない。
アンネは腕組みをして頭を捻る。彼ならこうするときどうするだろう。しばらく考えていたが、この状況を打破するよい考えは浮かんできそうにもなかった。想像の彼は、いつも携えている大鎌で、辺りを薙ぎ払っていく。これでは参考になりそうにない。
アンネは、とにかく近場の壁を登って、縁の上を歩くことにした。少しでも高いところにいる方が、辺りを見通しやすいだろうと思ってのことだ。
しかし、上手に登れない。いくら人気のない路地裏だとはいえ、必死になって壁を登ろうとする姿は、不審且つ滑稽そのもの。何度も失敗が繰り返すうちに、暢気に構えていたアンネの気持ちに、徐々に焦りが生まれてくる。
夜空に浮かぶ細い三日月が、にんまりと嗤っているように見えた。
ようやく、アンネは壁をよじ登ると、縁に立ち上がった。目線がいつもより高くなる。思ったよりは辺りを見通せなくて、落胆したものの下にいるよりは、迷路を抜ける助けになるだろう。
細い場所だから落ちないように下を見てゆっくりと歩いていく。
やがて、大通りが見えてきた。アンネはそこまでの道をしっかりと頭の中に刻み込んで、地面に降りた。降りるや否や、大通りに向かって走り出す。
アンネが大通りに出たとき、彼女と逸れた――正しくは彼女が逸れたのだが――ナハトが、困ったように眉を八の字にして辺りを見回していた。
何度もアンネの名を呼ぶが、一向に返事がない。彼女は多少は武器を扱えるが、ギルドのメンバーの中ではどちらかというとワーストの方に入る。あからさまに荒れた場所はもちろん、このような小奇麗な街でも難癖をつけて他人に絡んでくる輩はいるのだ。標的にされていないかが心配で堪らない。
「アンネ!」
何度目か、彼がアンネの名を呼んだときだった。
「ナハトさん!」
彼の背後に誰かが抱きついた。ナハトは首だけ動かして、自分に抱きつく誰かを横目で見た。それはアンネだった。見える限りは、特に何事もなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろして、ナハトは彼女を引っぺがした。膝を折って、彼女と目線を合わせる。
「ったく……心配したんだからな。あんまりうろちょろすんじゃねェぜ」
「ごめんなさい……」眉を八の字にして、彼女は頭を下げた。
「ま、見つかったしいいけどさ」ナハトは彼女の手を取った。「しばらくは逸れねェようにしとかなくちゃな」
そう言って笑った彼に、ぎゅっとその手を握って彼女は満面の笑みを返した。
その日は例年にない寒波だった。びゅうと身を切るほど冷たい風が辺りに吹きすさぶ。
立て続けに三度、くしゃみをしたニェナを、メイナードは呆れたような顔をして見ている。そんなあり得ないほど薄い格好をしていれば、くしゃみをするのも当然だろう。一瞬迷ったものの、彼は彼女に自分の着ていた外套を羽織らせた。厚手のものではないが、ないよりかはましだろう。
「メイナードさん……?」
口許をハンカチで拭いながら、ニェナは小首を傾げた。
「ないよりはましだろうから、羽織っていろ」
「メイナードさんは……?」
彼女の心配そうな問いに、彼は肩を竦めて答えた。
「お前よりは着込んでいるから、そう問題はない。気にするな」
本当に? と言いたげに彼を見つめていた彼女は、はっとしたように顔を背けると、口許をハンカチで覆った。くちゅんと肩を震わせてから、彼女はおずおずと言った。
「……ありがとうございます」
そう言いながら、ニェナは済まなそうにしゅんと肩を落とした。
ここで生まれ育って、もう両手では数えきれないほどになる。今までこんなに寒い日はなかった。ここは大陸の中でも温暖な気候の地域で、冬の季節でもこんなに冷えたことはなかったのに。
ニェナのしょげた姿を見て、メイナードはふっと口許を綻ばせた。大きな掌を彼女の頭に載せると、ぎこちなく撫でた。
「この寒波がすぐに去るとは思えないから……まあ、しばらくはその上に、少なくとももう一枚は着ておくべきだな」
こくりとニェナは頷いた。
ぽとりと鼻先に水滴が落ちたような気がして、彼女は空を仰いだ。
「どうかしたのか?」
頭上には曇り空が広がっているものの、雨粒は降っていない。気のせいだったかと、彼女は空を見上げたまま首を横に振った。
そのとき、ちらちらと白いものが雲の隙間から舞い落ちてくる。それは始めはちらちらと、徐々に量を増して降り出した。
彼は空を仰ぐと口を開いた。
「ああ……雪だな」彼女を見やると、きらきらした目をして、それをじっと見つめている。「初めて見るのか」
ニェナは彼の方に振り向くと、満面の笑みで頷いた。その彼女の笑みに釣られたように、彼も穏やかな微笑みを浮かべたのだった。
修道院の近くにはドナという小さな街がある。牧畜業を営む何てことないありふれた田舎だが、各地から訪れる巡礼者が大勢宿泊するので、思いの外活気があった。
旅の道中だったが、久々にドナに戻ってきたマーシャは、街の中央にある噴水広場で人を待っていた。約束の時間よりだいぶ早く着いてしまった。近くのベンチに座って、ぼうっと高く吹き上がる水流を眺めていた。
「――遅くなって済まない、マーシャ」
声と共に肩に手を置かれて、思わず彼女は肩を跳ねさせた。早鐘を打つ心臓の上に手を置いて、一度深呼吸をすると彼女は笑顔を浮かべて、声の方へと振り向いた。
「いいえ。わたしが早く着き過ぎたの。むしろ、どちらかというと、あなたの方が早過ぎるわ」
そこに立っていたのは、マルスだ。少し息が上がっているのは、急いでこちらに来たらしい。約束の時間まで、まだ一時間もあるのに。思い返せば、五分前、十分前……三十分前に着いても、彼は先に来ていたっけ。
「少しでも君を待たせるのが嫌なんだ」
穏やかな笑みを浮かべて、事もなげにそういう彼に、彼女は咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
「それにしても、手紙が間に合ってよかったよ」
「ええ、本当に」彼女は頷くと、気づかわしげに彼を見やった。「お誘いは嬉しかったけど……あなた、忙しいんじゃないの?」
彼は修道院長代理やら、騎士団長やら、何やかんやとあれこれ引き受けている。手紙の返事を読んでいる限り、マーシャはあれこれ引き受け過ぎているのではないかと心配していた。仕事中毒の気がある彼に、あまり仕事をし過ぎないようにと、口を酸っぱくして言うものの、治る気配はない。
「あれぐらい大したことないさ」
からりと笑って、彼は彼女に手を差し伸べた。その手を取って、彼女は立ち上がる。
「今日はどこに連れていってくれるの?」
彼に手を引かれながら、彼女は問う。彼はちらりと振り返った。
「君はどこに行きたい?」その声音は優しくて、見えなくても微笑んでいるのがわかった。「君と一緒ならどこへでも」