どういう話の流れだったのだろう、もう思い出せないけれど、あるときぽつりと彼がこぼしたのだ。
「……なあ、秋穂サン」
秋穂は彼を見やって、口を開いた。
「どうしたの? 郡司くん」
彼はちらりと彼女を見て、もじもじとしている。辛抱強く答えを待っていると、彼はおずおずと口を開いた。
「……あのさ、幸せって何だと思う?」
秋穂は目をぱちくりさせて彼を見た。仄かに顔を赤らめた彼が、彼女を見つめ返す眼差しは思いの外真摯なものだったので、彼女は居住まいを正して思案する。
ぐるぐると頭の中で言葉が浮かんでは消えていく。
上手に言葉にできる自信はなかった。でも、きちんと伝えておかねばならないとも思った。
「わたしにとっての幸せは――あなたとこうして過ごせることかな」秋穂はそう言うと微笑んだ。「……ありきたりかもしれないけどね」
まだ暗いうちから、トルデニーニャは山頂に向かって走っていた。彼女たち、有翼族が住まう岩山のてっぺんに向かっているのである。
今日は特別な日。どうしてもその時刻に遅れるわけにはいかない。飛んでいけば一瞬のことだが、彼女はみんなのように巧く飛べなかった。しかし、日々の積み重ねで得た、狩りの腕はある一人を除いて、彼女に勝る者はいない。
同朋たちは幼い頃こそ、それを散々からかっていたものだったが、彼女に狩りの腕前が敵わなくなった頃には、彼女の真摯な努力に敬意を表していた。
毎日のように走っている道のりを急いで走り抜け、彼女はとうとう山頂に到達した。まだ空は暗くて、山の端が少し明るんでいる。
(――間に合った)
ほっと胸を撫で下ろして、彼女は崖際に近寄っていく。すると、暗闇に紛れてよく見えなかったが、既に先客がいたらしい。先客は端に座って、眼下の景色を眺めていた。
先客は彼女の足音で気づいたらしく、振り向いた。
「……ああ、トーマ」
彼女の姿を認めて、それが発したのは気のない声だった。冷たいと言い換えてもいいのかもしれないその声音は、リヴァルシュタインのものだ。誰だろうと訝っていたトルデニーニャは、その声を聞いて、緊張を解いた。
よかった。知らない人だったらどうしようかと思ったところだった。
「こんばんは、リヴァ」
にっこりと笑って、彼女は遠慮することなく彼の隣に座った。
「君、きちんと暖かい格好をしてきたのかい」
「もちろん。リヴァたちと違って、わたしは寒さに強くないもの」
見て、と彼女は両手を広げた。毛皮の上着の下に厚手の服を二枚重ねて着ており、耳当てのついた帽子に手袋をしている。走ってきたから、熱いくらいだ。
ぴゅうと冷たい風が吹いた。
くちゅんとくしゃみをした彼女を見て、彼は小さく溜息をつくと、自分の巻いていた襟巻を彼女に巻き始める。
「首元を出していると冷えるよ。しばらく、ここで座って待つんだからね」
「ありがと……」
大人しく為すがままにされながら、トルデニーニャは答えた。
彼が襟巻を巻き終わったので、二人は並んで、前方を眺める。
山の端の明るい色が徐々に下から立ち昇り、暗い空が徐々に明らみ始めていく。山の端から大きな半円が姿を現して――やがて完全な円となる。朝日が昇ったのだ。
(今年もこうやって一緒に見れてよかった)
彼女はそっと彼にもたれかかった。彼は驚いたように彼女を見たが、口許を緩めると、彼女を抱き寄せたのだった。
はっきりと決まっていたわけではなかったが、年末になるとギルドの広間に集まって、各々好きに過ごしながら年を越す。そんな慣習ができていて、ナハトは年が明ける十数分前にようやく戻ってきたところだった。駈け込んで来た彼をメンバーの面々は労った。
時計の針が十二時を指した瞬間、部屋中にクラッカーの音が鳴り響いた。連続して小気味いい音が鳴る。浮かれた雰囲気は嫌いではないが、この音は好きではない。ナハトは耳に指を突っ込みながら、そっとその場を離れて、部屋の一角にある暖炉に向かった。
そこには既に先客がいた。アンネだ。二人掛けソファの肘掛けを枕にして、すやすやと寝息を立てている。どうも暖を取っているうちに眠ってしまったらしい。
他に座るところがないので、仕方なくナハトは空いている隙間に腰を下ろした。彼の体重でソファが沈み込む。そのとき、アンネが身動ぎした。
彼女は重い瞼を薄っすら開けると、あくびを一つこぼした。
「あー……、起こしてごめんな?」
声をかけられたので、彼女は声の方向へと目を向ける。いつの間に帰っていたのやら、ナハトが申し訳なさそうに苦笑して、自分を見ていた。アンネはぱちくりと瞬きすると、慌てて起き上がった。
「な、ナハトさん、お帰りなさい……」
「ん、ただいま」口許を緩めるとナハトは続けた。「ついさっき、年を越したぜ」
えっ、と小さく彼女は声を上げた。初めての年越し、みんなと一緒に迎えたかったのに。
「クラッカーがあれだけ鳴ってたのに、よく起きなかったな」
そう言うと、彼はおかしそうに小さく笑った。
アンネが振り返って、広間の中央付近を見やると、あちこちに紙テープやら紙吹雪やらの残骸が目に入る。ますます、彼女はしょんほりしてしまった。
しゅんと肩を落とす彼女を見て、ナハトは彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「アンネも今日は任務だったんだろ? たぶん、よっぽど疲れてるんだから、早く部屋に戻って休めな」
ちらりとアンネはナハトを上目づかいで見やった。彼はアンネの頭を撫でながら、何だとでも言いたげに小首を傾げた。
「わたし……今年の目標を決めました」
「いいじゃん。何にしたの?」
「今年こそ、みなさんと一緒に年越しするんです」
はは、と笑い声を上げて、ナハトはより彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
一歩ずつ、積雪で足場の悪い山道を登っていく。この山を越えた先に、目指す砦があるのだという。
だいぶ標高の高いところまで来たようで、酸素が薄いのか呼吸が苦しい。
ただ――背後に振り返って見下ろすと、一面に広がる景色は見事としか言いようがなかった。
ぼんやりとフィエルテが眼下に広がる景色を眺めていると、頭上から声が降ってきた。
「おい、何をしている」
彼女は振り仰いで口を開いた。
「ミラさま」
彼は不機嫌そうに彼女を見下ろしていた。まるで突き刺さりそうなほど尖った視線だ。
「足を止めるな、辛いのなら進め。進まねば楽にはならんぞ」
「あ、いえ、そういうわけではないのです」そう言いながら、彼女は景色に視線を戻すと、ふっと頬が緩ませた。「……きれい、と思っただけなのです」
そうつぶやくと、フィエルテは再度、彼を振り仰ぐ。
「足止めして申し訳ございません。もう、大丈夫です」
はあ、と彼は溜息をつくと、少し口許を緩めた。
「足を止めたついでだ、構わん。そのまま、前を見ていろ」
彼はそう言いながら、前を――フィエルテの背後を指し示した。
言われたとおりに彼女は振り返った。
すると、山の奥がほのかに明るい。空の色が深い紺色から青みがかった橙色へと移り変わっている。
思わずフィエルテは息を呑んだ。言葉もなかった。
しばらくすると、どんどんと明るくなって山の向こうから大きな丸が姿を現した。
空がにわかに明るくなっていく。丸は徐々に上がっていって、やがて辺り一面がぱあっと明るくなった。
日が昇ったのだ。
「年がまた一つ明けたな」ぽつりと彼は続けざまに独り言を漏らす。「……だからこそ、急がねば」
それは彼女の耳に届く前に、辺りに紛れて消えてしまった。日の出に夢中になっていた彼女には、どちらにしろ届いていなかっただろうが。
「さあ、行くぞ」
彼は日の出に見惚れる彼女の肩を一度掴んで揺さぶった。彼女がうんともすんとも言わぬ間に、さっさと放して踵を返して行ってしまう。
はっとフィエルテが我に返ったときには、ざっざっと雪を踏み分けていく音は既に遠ざかってしまっていた。彼女は名残惜しさを覚えつつも、見失わないうちに彼のあとを急いで追いかける。
どうか、彼が安息できる日々が早く訪れますように、と祈りながら。
ドアベルが鳴らされる。カンと高く耳障りな金属音。予期せぬものに叩き起こされたミラは、眉根をきつく寄せながら、のろのろと体を起こす。
昨晩は全くと言っていいほど寝られてない。昨日から熱を出したフィエルテの看病につききりだったからだ。蒼ざめているのに頬だけが林檎のように紅い。苦しいのか時折呻き声を洩らす様に、少しだけ恐怖を覚えた。
(ひとの看病などいつぶりだろう……)
氷枕を作ってやり、冷やしタオルで汗を拭ってやる。冷たいものを当ててやったときだけ、寄せられた眉が緩んだ。
寝苦しさにほんのひと時、瞼を開けてミラを見る。その目は潤んでいて、ひどくはかなく頼りなげだった。そんなとき、ミラは思い出すのだ。
彼女がまだ年端もいかない少女なのだということを。
己の所業に巻き込むことに罪悪感を覚えなかったわけではない。だが、それでも為さねばならない。そのために何を犠牲にしようとも。己が親類も、己が身も、――そして無垢な少女であろうとも。
再びドアベルが鳴らされた。急かすように響く音に、苛立ちながらもミラは入口へと向かう。ゆっくりと扉を開けると、前に立っていたのはフィエルテと同じ年頃の少女だ。
「……何か?」
見覚えのない来訪者だったが、努めて愛想よく彼は口を開いた。少女は出迎えたミラの姿を見て、怯えたように縮こまっていたが、手に持っていたものを彼に渡した。
「あ、あの……! お母さんからです……っ!」
差し出された物を反射的に受け取ってから、彼は目の前の少女の正体に思い至った。今、泊まっている宿屋の娘だ。よく見れば、目元の辺りが女将に似ている。
「ああ……わざわざ済まないね」渡された物は薬包だ。彼は貼りつけたような笑みを少女に向ける。「ありがとう、お嬢さん」
ぺこりと頭を下げて去っていく背に、女将さんによろしくと声をかけて、姿が消えるまで見送った。消えるや否や、彼は部屋に引き返して、フィエルテの傍に戻った。
「フィエルテ」
囁きかけると、彼女は薄っすらと目を開けた。
「……ミラさま……?」
「起きれるか」
はい、と吐息のような返事をして、ゆっくりとフィエルテは体を起こした。それを手伝いながら彼は彼女の額に手を当てた。わざわざ確かめるまでもなく熱かった。それは赤く火照った頬が物語っている。
彼は水差しを取り、グラスに水を注ぐと、薬包と共に彼女に渡した。
薬包を見て、ぼんやりとしている彼女の表情が少し歪んだ。眉根をきゅっと寄せると、一気に中身を口の中に入れて、水と共に飲み込む。苦いからなのか、辛いからなのか、彼女の目は潤んでいる。
その姿が、再びミラの心臓をじくじくと突き刺すのだ。