真澄ねむ

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12/16/2023, 12:08:54 PM

 窓枠に肘をついて、ヘンリエッタはずっと外を見つめている。その視線の先にあるのはどんよりと厚い雲に覆われた曇天だ。窓に当たる呼気で白く曇ってしまうほど、外の気温は低いらしい。
「おい、ヘンリエッタ。お前、何をしているんだ」
 一心に外を眺める彼女を訝しげに見ながら、ローレンスが口を開いた。
「んーと……」彼女は振り返ることなく答えた。「雪が降らないかなって、ずっと見てるの」
 彼の眉間の皺が濃くなった。苦虫を噛み潰したような渋面を作ると、大きな溜息をついた。
 彼の溜息の音を聞いて、彼女は振り返った。渋い顔をする彼を見て、くすくすと笑い声を上げる。彼は寒いのが嫌いなのだというが、話をするのも嫌がるとは。彼女が笑うので、彼はますます眉間の皺を深くした。
 ヘンリエッタは窓枠に面したベッドから飛び下りると、てくてくと暖炉の傍をで本を読む彼の元へと歩いていく。
「ねえ、ロロ」
 すり寄りながら甘えた声を出すと、彼は嫌そうに顔をしかめながら、口を開いた。
「何だ」
「お外、行こっ」
「断る」
 即答すると、ローレンスは彼女を氷のように冷たい眼差しで見やる。その眼差しの冷たさは、おそらく外の気温より冷たい。
「お前、私が寒いのが嫌いなのを知っているだろう」
 だってぇ、と彼女は唇を尖らせた。
「ずっとお部屋の中にいるのつまんないんだもん」
 そうだ、と何かを思いついたらしいヘンリエッタが顔を輝かせた。
「じゃあ、わたし一人でお外行ってくる!」
「馬鹿を言うな。私の目の届く範囲にいろ」
 間髪容れずに却下されて、彼女は頬を膨らませた。けち、と彼をぽこぽこっと叩くと、しゅんとして窓辺に戻っていく。その様子を横目で見ていたローレンスは、彼女があんまりにもしょんぼりとしているので、深々と溜息をついた。
 ヘンリエッタ、と声をかけると、近くのポールハンガーに掛けてあったコートを掴んで、彼女に向かって放り投げる。真正面からそれを受けた彼女は、小さな悲鳴を上げた。
「な、何?」
 困惑したようにコートを握り締める彼女に、ローレンスは自分もコートに袖を通しながら言った。
「雪が降るまでなら付き合ってやる。さっさと用意しろ。全く……好き好んで、寒い中に出たがるとは酔狂な……」
 見る見るうちに顔を輝かせて、ヘンリエッタは満面の笑みを浮かべた。いそいそとコートを着込んで、マフラーを巻く。あっという間に用意した彼女は、扉の前で早く早くと彼を急かした。その無邪気な笑顔を見て、彼は知らず知らずのうちに口許を緩めていた。

12/15/2023, 8:56:45 PM

 今日は久々の練習のない休みの日。史貴と有名なイルミネーションを観に行く約束をした瞳は待ち合わせ場所に急いで向かっていた。
 約束の時間にはまだまだ余裕があるが、いつだって彼はそれより先に待っている。こんな寒い日に外で何十分も待たせるのは、さすがに申し訳ない。彼のことだから、好きで待っているのだから気にしなくていいと言うのだろうけれど。
 待ち合わせの場所は駅前広場の銅像の前。どこぞの犬の像みたいに、ここら辺に住む人間にはメジャーな待ち合わせ場所だ。
「史ちゃん!」
 銅像の台に凭れかかって、文庫本を開いている青年に向かって瞳は声を張り上げた。
 呼ばれた青年はゆっくりと顔を上げて、こちらを向く。瞳の姿を認めて、輝くような満面の笑みを浮かべた。
 文庫本を閉じると、トトトと軽やかにこちらに走ってくる。
「おはよう、瞳」
「ええ、おはよう」にこりと微笑んで瞳は答えると、すぐに眉を八の字にした。「待たせて、ごめんなさい」
「さっき来たところで、そんなに待ってないよ」
 予想通りの答えが返ってくる。瞳はくすりと小さく笑った。
「嘘、頬っぺが赤くなっているわ」
 彼女がそう返すと、彼ははにかんだ。
「楽しみだったから、落ち着かなくってさ。待つのは好きだから、気にしないで」
 むうと瞳は唇を尖らせた。
「史ちゃんと約束すると、時間より早く来ても、それよりももっと早く来ているのだもの。どうせなら、中で時間を潰してくれていたらいいのに」
「入れ違いで瞳を待たせるかもしれないだろ」
「そんなの……別にいつも待たせてるのだから、構わないわよ」
「俺が構うの!」
 ぶんぶんと首を横に振って、彼は軽い笑い声を上げた。瞳は彼をじっと見つめた。急に黙った彼女に気づいた彼は、不思議そうに彼女を見やった。ぱちりと目が合ったとき、彼の顔が別の意味で朱色に染まる。
 その姿を見て、瞳は敵わないなあと息をつく。彼の手を取ると、引っ張って歩き出した。すっかり冷え切っているから、口で言う以上の時間を外で待っていたのだろう。小さな頃は同じくらいだったのに、いつの間にか自分の手よりずっと大きい。
「あ、俺の手、冷たいから……」
 彼女に引きずられるように歩き出した彼がそう言ったとき、瞳は彼の手をぎゅっと握り締めると振り向いた。
「あのね、史ちゃん。わたしのこと、あんまり甘やかしちゃ駄目。こうしたら、ちょっとぐらいあったかいでしょ」
 顔を赤くした瞳はつんとして、そう言い放った。彼ははにかむと彼女の手を握り返す。

12/14/2023, 9:32:27 AM

 王城の廊下を歩いていたメユールは、石畳の隙間に躓いて前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に手をついたので、顔面から地面に突っ込むことは免れたが、掌を擦り剥いてしまった。大した傷ではないが、広範囲に擦り剥いたので、洗い物などをする際に沁みるだろう。ぼんやりと掌を見つめながら、彼女は大きな溜息をついた。
 最近、気持ちがふわふわと浮き足立っている。地に足をつけなくてはと思ってはいるのに、なかなか浮遊感は収まらない。そのせいで、あちらにぶつかり、こちらに躓きと、ここのところ生傷が絶えない。
(……原因は、わかっているのだけれど)
 ひと月前、彼女は彼にプロポーズされた。とても嬉しかったが、彼と自分では身分が違いすぎる。そう思って丁重にお断りしようと言葉を重ねたが、のらりくらりと躱されて、終いには押し切られそうになった。
 口の巧さでは彼に敵わない。今、国内外共に混乱していることを理由に、時勢が落ち着いて平和になるまで返答を待ってほしいと、苦し紛れにメユールは懇願した。彼はそれを快諾した。それで落ち着くはずだったのだが、それから彼は目に見えて、メユールに構い始めたのだ。嬉しいけど恥ずかしくて身悶えしてしまう。彼の侍女であるメユールに、それから逃れる術はなかった。
 遠くから、足音が聞こえた。彼女は急いで立ち上がった。埃などを掃って、身だしなみを整えると、先ほどのことなどなかったかのような顔をして、彼女は歩き出した。
 明朗な足音はあっという間に迫ってきて、
「メユール!」
 肩を叩かれる。彼女は驚いて、肩が跳ねそうになったのを堪えながら、ぎこちなく振り向いた。
「……ジルベール様。どうかなさいましたか?」
「いや、特に差し迫った用事があるわけではない」彼は快活に笑った。「お前を見かけたから、声をかけただけだ」
 そうですか、と彼女は強張った笑みを浮かべた。
「お前に訊きたいことがあるのだが……」
「何でしょう」
 彼は彼女の腕を掴むと立ち止まった。メユールも仕方なく立ち止まる。
「最近、傷が増えていないか?」
「ここのところ、その……上の空になってしまっていて」
 しどろもどろになる彼女を見て、彼は眉を八の字にした。
「俺のせいか?」
「そ、それは違います!」間髪容れずに否定してから、メユールは俯いた。どんどんと顔に熱が集まってくるのがわかる。「嬉しいです、とても。でも……は、恥ずかしくて……」
 彼は軽い笑い声を上げた。
「俺はお前を愛している。それは変わらない。仕方ないと、慣れてもらうしかないな!」
 そう言うと、林檎のように顔を赤くした彼女を、彼は愛おしげに見つめるのだった。

12/11/2023, 7:12:40 PM

 ぴちゃんと額に水滴が落ちた感触がして、フィオは目を覚ました。起きたばかりだというのに、心臓がばくばくと早鐘を打っている。憶えていないけれど、悪い夢でも見ていたのかもしれない。
 そう、それは例えば――彼がいなくなる夢、とか。
 そんなはずはない。フィオは頭を振って、脳裏に過ぎった考えを打ち消そうとした。深呼吸をすると、意を決して横を向く。そこには、まだ寝ているはずの彼が――いなかった。
 もっと動悸が激しくなってきた。かっと体が熱くなってくる。それなのに背筋は反比例するかのように凍りついて、それでいて冷や汗が伝っていく。
 鈍器で頭を殴られたかのような衝撃が、フィオに降りかかってくる。何も考えられない。考えたくない。じんわりと視界が滲んできたので、フィオは天を仰いだ。目に入るのは洞窟の天井。垂れ下がる鍾乳石からしずくがぽつりぽつりと滴り落ちているのが見えた。
 フィオの目尻に大粒の涙が溜まっていく。ついには頬を伝ってぽとぽとと下に落ちていった。
 諦めたようにフィオは俯いた。顔を両手で覆って、しくしくと泣きだした。
「――おい、何してんだよ」
 泣き濡れた顔を上げて、フィオは声のした方へと目を向けた。洞窟の入口の方に呆れたような表情をした彼が立っている。彼は彼女の返事を待つことなく、中へと入って、こちらの方へとやってくる。
「何で泣いてんの?」
 泣きじゃくるフィオの隣にどっかと腰を下ろすと、彼はフィオの顔を覆う彼女の片腕を掴んだ。放して、と小さな声でフィオが懇願したが、彼の耳には届いていないようだ。見える顔の半分は涙に濡れていて、まだ止め処なく溢れているようだ。
 フィオはせめてもの抵抗だと、そっぽを向いた。唇をへの字にして、ぽつりとつぶやく。
「……だって、目が覚めたら、しーちゃんがいなかったからっ……」
 これ見よがしな大きな溜息が聞こえる。
「あのなぁ、今、外の時間で言うと正午なのわかってる? フツーの奴なら起きるだろ。お前が寝過ぎなんだよ」
「……しーちゃんがわたしのこと置いて、どこかにいっちゃったんじゃないかって……」
 再び大きな溜息が聞こえた。と思いきや、ぐいっと掴まれていた腕を引っ張られて、フィオは体勢を崩した。地面に向かって倒れ込みそうになったところを、彼が抱き留めた。
「お前を置いて、どっかに行くわけねーだろ」
 フィオは彼を見上げる格好になった。自分を見下ろす彼は、相変わらず呆れたような表情をしていたが、彼女と目が合ったとき、にっと笑った。その笑顔に頼もしさを感じて、フィオは彼に抱きついた。

12/10/2023, 2:18:56 PM

 雨の中、アルアは路地裏を走り回っていた。石畳の窪みに溜まった雨水が、あちこちに水溜まりを作っている。雲に覆われた夜空は、いつもに比べて一層暗い。灯りを持たないアルアは、一歩踏み出すたびに、ぱしゃりと音と水飛沫を上げた。靴は元より、スカートの裾もすっかりびちょびちょだ。
(――これも全部、アルフレッドのせいだ)
 アルアは胸中で一人ごちた。
 濡れたスカートは足に纏わりついて鬱陶しいし、何より走ることで受ける風が当たるたびに冷えて寒い。どちらかと言うと、体が弱い方の自分だから、明日はおそらく熱を出して寝込む羽目になるだろう。
 これも全て、突然、雨夜の中を飛び出していったアルフレッドのせいだ。
 何かに気づいたような顔をしてから、泣き出しそうなほど顔を歪めて、出て行った。泣きたいのはこちらの方だ。
 当てもなく路地を右に左にと曲がっているうちに、少し開けた場所に出た。樹が一本植わっていて、その側にベンチが一つ置いてあるだけの簡素な広場だ。そこでアルフレッドが佇んでいた。どうせなら、樹で雨宿りでもしていればいいものを。
 足音に気づいたらしい彼が振り向いた。アルアの姿を認めて、表情を凍りつかせる。逃げ出そうと彼が踵を返しかけたそのとき、アルアは叫んだ。
「待ちなさい、アルフレッド!」
 普段、全く大声を出さないせいか、叫んでからアルアは咳き込んだ。一旦は離れようとしていた彼だったが、彼女を心配して結局戻ってくると、体を折り曲げて咳き込む彼女の背中をゆっくりとさすり始めた。
「……落ち着いて、アルア。ゆっくりと息を吸って……」
 彼の言葉に従って、ゆっくりと呼吸を繰り返すうちに、荒い息が整ってきた。彼女の呼吸が治まってきたのを見計らって、彼はそっとさする手を下ろした。
 アルアは深呼吸すると顔を上げた。その顔は林檎のように赤く、彼の顔色は逆に真っ青になった。彼女の額に自分の掌を当てて、熱を測る。
「……ごめん……」
 すっかり彼女は熱を出していた。自分は彼女をどれだけの時間、雨の中走り回らせていたのだろう。気まり悪そうな顔で俯く彼に、アルアは小さく息をつくと、手を差し出した。
 あなたが何に罪悪感を覚えて、飛び出していったのか、その理由は知らないけれど、それでも傍にいることぐらいはできる。それがあなたの慰めになるかはわからないけれど。
 はっとしたように顔を上げる彼に、彼女は微笑みを浮かべて口を開いた。
「宿に戻りましょう、アルフレッド」
 彼はおずおずと彼女の手を取った。アルアがその手を握り締めると、強い力で握り返された。

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