真澄ねむ

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 王城の廊下を歩いていたメユールは、石畳の隙間に躓いて前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に手をついたので、顔面から地面に突っ込むことは免れたが、掌を擦り剥いてしまった。大した傷ではないが、広範囲に擦り剥いたので、洗い物などをする際に沁みるだろう。ぼんやりと掌を見つめながら、彼女は大きな溜息をついた。
 最近、気持ちがふわふわと浮き足立っている。地に足をつけなくてはと思ってはいるのに、なかなか浮遊感は収まらない。そのせいで、あちらにぶつかり、こちらに躓きと、ここのところ生傷が絶えない。
(……原因は、わかっているのだけれど)
 ひと月前、彼女は彼にプロポーズされた。とても嬉しかったが、彼と自分では身分が違いすぎる。そう思って丁重にお断りしようと言葉を重ねたが、のらりくらりと躱されて、終いには押し切られそうになった。
 口の巧さでは彼に敵わない。今、国内外共に混乱していることを理由に、時勢が落ち着いて平和になるまで返答を待ってほしいと、苦し紛れにメユールは懇願した。彼はそれを快諾した。それで落ち着くはずだったのだが、それから彼は目に見えて、メユールに構い始めたのだ。嬉しいけど恥ずかしくて身悶えしてしまう。彼の侍女であるメユールに、それから逃れる術はなかった。
 遠くから、足音が聞こえた。彼女は急いで立ち上がった。埃などを掃って、身だしなみを整えると、先ほどのことなどなかったかのような顔をして、彼女は歩き出した。
 明朗な足音はあっという間に迫ってきて、
「メユール!」
 肩を叩かれる。彼女は驚いて、肩が跳ねそうになったのを堪えながら、ぎこちなく振り向いた。
「……ジルベール様。どうかなさいましたか?」
「いや、特に差し迫った用事があるわけではない」彼は快活に笑った。「お前を見かけたから、声をかけただけだ」
 そうですか、と彼女は強張った笑みを浮かべた。
「お前に訊きたいことがあるのだが……」
「何でしょう」
 彼は彼女の腕を掴むと立ち止まった。メユールも仕方なく立ち止まる。
「最近、傷が増えていないか?」
「ここのところ、その……上の空になってしまっていて」
 しどろもどろになる彼女を見て、彼は眉を八の字にした。
「俺のせいか?」
「そ、それは違います!」間髪容れずに否定してから、メユールは俯いた。どんどんと顔に熱が集まってくるのがわかる。「嬉しいです、とても。でも……は、恥ずかしくて……」
 彼は軽い笑い声を上げた。
「俺はお前を愛している。それは変わらない。仕方ないと、慣れてもらうしかないな!」
 そう言うと、林檎のように顔を赤くした彼女を、彼は愛おしげに見つめるのだった。

12/14/2023, 9:32:27 AM