秋は夕暮れ、今日は誕生日!
夏の暑い日のことだった。
風を通すためだろうか、屋敷中の襖が開けられていた。古めかしい日本建築のお屋敷は、襖を開け放ってしまえば、まるで大きな一つの部屋のようだった。
屋敷の中は薄暗くて、縁側の方から差し込む太陽の光が強い逆光を生む。そのせいで、夢花は自分の前に立つ彼が、本当に彼なのか強い確信が持てなかった。
「夢花?」彼が小首を傾げる動作をした。その声音は紛れもなく彼で、不思議そうな色が見え隠れする。「どうかしたのかい」
夢花は首を横に振った。こうすることで、悪い夢からも醒めることができるような気がした。
「何でもない。大丈夫だよ」
「そうかい?」彼女の言葉に返答する彼の声音は、心配げだった。「何だか、顔色が悪いようだけど……」
夢花は微笑を浮かべると、彼の手を取った。
「それはね、部屋の中にいるからだよ!」彼の脇をすり抜けて、ぐいぐいと引っ張る。「松緒さんも籠ってばっかりじゃ駄目。たまにはお日様に当たらないと」
そう言いながら夢花は縁側に向かって歩き出す。彼女の為すがままにされながら、彼は苦笑を浮かべた。
「日の光は、僕みたいな陰の者にはきついんだよ」
「陰だろうが陽だろうが知らないけど、人間だったらお日様に当たっても平気でしょ?」夢花はつないだ手を握り締めた。「わたしより、松緒さんの方が顔色悪いよ。蒼白いもん」
彼がそっと手を握り返してくれたので、夢花は立ち止まると振り返った。今度は彼の顔がよく見える。自分を見る眼差しは穏やかで優しい。
売り言葉に買い言葉という感じで口にしてしまったが、こうやって見ると、本当に彼は蒼白い顔をしている。人の寝静まった夜中に何かをしているせい――寝不足だろう。日中も起きているのに、夜中も起きているからそういうことになる。どちらでも何をしているのか、夢花はよく知らないが、せめてどちらかだけにして、どちらかで眠ったらいいのに。
「夢花?」
ううん、と彼女は再び首を横に振ると、前を向いて歩き出した。
縁側には燦々と日光が降り注いでいる。日が当たらないせいで、薄暗くほんのり冷えた部屋から縁側に出ると、むっとした熱気が顔に当たった。
その熱気に彼はたじろいだ。
「あっつ……」思わずといったように洩らす。「冷たいお茶でも持ってこさせようか?」
外の眩しさに目を細めながら、夢花は頷くと、彼の手を離した。彼は遠くから様子を窺っていた使用人に手を振る。そそくさと使用人が近づいてくるのが見えた。
夢花は縁側に座り込むと、足をぶらぶらとさせた。目の前には庭園が広がるものの、直射日光に当たっていて、いかにも萎れているように見える。小さな池があるが、その池だって干上がりそうだ。
ぎっと床板が軋んだ。夢花がそちらの方に顔を向けたとき、彼が両手に水滴のついたグラスを持って、座ろうとするところだった。彼は夢花と同じように縁側に座ると、持っていたグラスの片方を渡す。
受け取ってすぐに夢花はグラスの中身を飲み干した。中見は麦茶だった。
ことりと背後で音がしたので振り返ると、先ほど彼と話していた使用人が、二つの器を載せた盆を二人の後ろに置いた。その人は夢花ににこりと微笑みを向けると、小さく頭を下げて、空になったグラスと共にまた暗がりの中に去っていってしまった。
「ねえ、松緒さん」
夢花は盆を引き寄せて、器の中身を確かめる。器にはゼリーとシャーベットが盛られていた。彼の指示なのか、使用人の好意なのか、夢花にはわからない。わからないがこれはとても嬉しい。
「何だい?」
夢花は彼に器を渡した。きょとんとしたようにこちらを見る彼に、彼女は言った。
「さっきの人がこれも持ってきてくれたの」
「ああ……あとで礼を言っておくよ」
「松緒さん、どっちがいい?」夢花はもう一つの器の中身を彼に見せながら言う。「こっちはシャーベット、そっちはゼリー」
彼はやわく微笑んだ。
「僕はこちらにするよ。君はシャーベットの方が好きだろ?」
夢花は目をぱちくりさせてから、嬉しそうにはにかんだ。
「えへへ、ありがと! 松緒さん」
どういたしまして、と彼は答えながら、ゼリーを口にした。夏蜜柑のゼリーだった。凍らないように、しかししっかりと冷やされたそのゼリーは、ほんのりと苦かった。
花束を抱えた千春はどきどきしながら、インターホンのベルを鳴らした。ピンポーンという音が鳴ってしばらくすると扉が開いた。
「いらっしゃい、久住さん」
そう言いながら彼女を出迎えたのは、バイト先の所員であり、千春の恩人である葛西瑞生だった。彼は彼女の姿を認めると、口許を綻ばせた。
大きく扉を開けると言う。
「どうぞ」
お邪魔しますと口にして、千春は彼の家の中に足を一歩踏み出した。玄関の三和土の隅っこに自分の履物を置いて、床に足を下ろした。
所在なげに立つ彼女を、彼はリビングへと案内した。そこはまるでモデル部屋のようで、整頓されたすっきりとした部屋だ。必要最低限の家具しかなく、その他は何もない。
部屋を見た千春は別の意味で目を瞠った。不躾とは思いながらも、部屋の中を見回す。この部屋には家主の生活がわかりそうなものは何一つ置いていなかった。敢えて、そうしているのか、そうではないのか。
「最近、帰っていなかったもので、散らかってますけど……」
千春の様子に気づいてか、そう言う彼に、彼女は微笑んで返した。
「充分に片付いてますよ! これで散らかってるなんて言われちゃ、わたしの家なんてゴミ屋敷になっちゃいます」
欲しいなと思った瞬間に買ってしまう悪癖のせいで、千春の部屋の中はもので溢れ返っている。この様を、世間の人は『ゴミ屋敷』というのだろう。そう言われても過言ではないほど散らかっているのだ。
そう、だからこそ千春はこの花束をここに持ってきたのだった。
バイト先のお客さんに貰った紫陽花の花束。落ち着いたペールブルーの花を基調に、濃い青、藤色、黄緑色などの多種多様な紫陽花がまとめられている。せっかくだし挿し木をしたいなと思っていたところ、彼が場所を貸そうかと申し出てくれたのだ。
彼が花瓶を持ってきた。それに花を入れると、千春は彼を見つめた。
「本当にいいんですか? ここに置いてもらって」
ええ、と彼は頷いた。
「挿し穂作って、しばらくしたら鉢植えにしたいと思っているんですけど……」
「どうぞ。部屋は余っていますから」
即答で快諾する彼に若干気が引けながらも、千春はおずおずと言った。
「頻繁にお邪魔することになると思いますけど……」
彼はくすりと笑った。
「久住さんなら構いませんよ」そう言うと、彼はポケットに手を突っ込んで鍵を取り出すと、千春に手渡した。「好きに使ってください」
深夜、拠点に戻ってきたコンラートが宿舎へ向かう最中に図書室の前を通りがかったとき、そこにはまだ灯りがついていた。誰かがいる可能性もあれば、最後の使用者がランプを消し忘れた可能性もある。念のため、中を覗いた彼は、ランプをつけて机に向かう後ろ姿に目を剥いた。
「お、おい、シルヴィア! こんな時間にここで何してんだ!」
人影がその声に反応して振り向いた。人参のような色をした赤毛が動きに合わせて揺れる。
彼女はコンラートの姿を認めて、大きく目を見開いた。
「ぼ、坊ちゃん。ど、どうしてこんなところに?」
そう言いながら、彼女は机の上に広げていた本を閉じると、そそくさと片づけ始めた。
「俺が訊きたいよ。何してたんだ?」
彼女は顔を赤くすると恥ずかしそうに口を開いた。
「その……会議をされる際に、いつも同席させていただいておりますけれど、恥ずかしながら坊ちゃんたちが仰っていることがよくわからなくって……」ぼそぼそと言うと、はにかんだ。「いけませんね。同じ学院にも通わせていただいていたのに……」
コンラートは彼女をまじまじと見た。自分を追い回してくるときと違って、恐縮したように小さくなっている姿を見ると、本当に恥じ入っているのだということがわかる。
彼はふっと口許を緩めた。
「お前、俺に似ず、本っ当、真面目な奴だよなあ」
しみじみとした調子で言うと、彼女の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「ぼ、坊ちゃん?」
困惑したように彼女は小首を傾げた。
「言ってくれたら、それぐらいいつでも教えてやるよ」
「でも……夕方くらいから深夜ぐらいの間の時間って、坊ちゃんが一倍お忙しい時間帯でしょう? お邪魔したくはありません」
彼女の言葉にコンラートの顔が引き攣った。溜息をつくと、あのなあ、と彼女の額を指でついた。
「ひとの厚意は素直に受け取っとけって」
でも、と彼女は目を伏せた。彼の従者として、彼の遊び好きなところには辟易としているが、それが彼の息抜きであるのならば、その邪魔をしたくはない。
「お前が俺に色々と尽くしてくれるように、俺もお前に何かしてやりたいんだよ」
そう言うとコンラートは彼女の頭を再び撫でた。
「ありがとうございます……コンラート坊ちゃん」
彼女は花のような笑顔を彼に向けた。できればこの顔をずっと見ていたい。そんなことを思いながら、コンラートはしばらく彼女の頭を撫で続けていた。
あのときが、人生の岐路だったのだと思う。朝日が降り注ぐ中、玄関前を箒で掃きながら、千春はしみじみとそう思った。
(良い道を選べてよかった……)
その日、千春はどうしても家に帰りたくなくて、ふらふらと夜の街を歩いていた。ぴろんぴろんとひっきりなしにケータイが鳴っていたが、鬱陶しいので電源を切った。
この辺りはバイト先に近いので、ある程度馴染みはあったが、日が落ちてから出歩くのは初めてだ。夕方にはまだシャッターが下りていた店が、あちこち開いて明々としている。
物珍しく周囲を見回すうちに、夜はますます深くなっていく。深夜を越えた頃、雨が降り始めた。しとしとと雨は辺りを濡らしていく。千春は急いで一番近くの軒下に避難した。
ここは何かの事務所のようだ。民家ではなく、シャッターも閉まっているので、しばらくいても邪魔にはならないだろう。あと数時間、始発が出るまでは、雨宿りも兼ねてここで過ごさせてもらおう。彼女はシャッターにもたれて蹲った。
少しもしないうちに雨足が強くなった。地面に打ち付けられた水滴が飛沫となって足元を濡らした。
濡れた体はすっかり冷えた。寒さに震えながら、千春は眠気と戦っていた。何度も振り払っていたが、いつの間にかうたた寝していたらしい。誰かに肩を揺すぶられて、ようやく我に返った。
激しかった雨音が、すぐ近くで雨が何かに遮られているような音に変わっていた。
「――大丈夫ですか?」
はっとなって千春が顔を上げると、見知らぬ男性がしゃがんで心配そうに自分を見つめている。彼は己が濡れるのも構わずに、自分に向かって傘を差し掛けていた。
「一体、いつからここに……」そう呟くと、彼は目が覚めた千春に傘を持たせると立ち上がった。「とにかくここでは何ですから、事務所の中へどうぞ」
「ありがとうございます……」
シャッターを開ける彼の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、千春は言った。男性の後に続いて中に入る。彼は千春にシャワーと着替えを貸してくれ、更には話まで聞いてくれた。
千春がどうしても家に帰りたくなかったのは、束縛が酷くて殴ってくるようになった彼氏に別れ話を持ち出したら、家の前で待ち伏せされ身の危険を感じるようになったからだった。彼は穏便に別れる方法を考えてくれるという。
「その代わり――と言っては何ですが、よかったらうちでバイトしませんか? 丁度、事務員を募集していたと思うんです」
願ってもない提案だ。千春は一も二もなく頷いた。後日改めて面接を受け、晴れて採用された。
今、本当に毎日が楽しい。