静かにそれは訪れる。誰もその足音を聞かない。
ページを繰る手を止めて、ステラは顔を上げた。静寂に包まれる部屋の中、目を閉じて沁むように聴き入る。ちろちろと灯りが揺れて、彼女の影が動いた。
こんこんとノックの音が響く。彼女は目を開けて扉を見やった。この時間に部屋を訪ねる者など限られている。どうぞと返すと、遠慮がちにそれは開いた。
「夜更けに失礼します」
彼――ラインハルトが音を立てないようにして入ってくる。何か持っているようだが、暗くてよく見えない。灯りもなしによく来たものだ。
「どうかしたの?」
静かな問いはまるで氷のような冷たさがあった。大抵の人間ならそこで尻込みしてしまうが、彼はその程度では怯まない。淡々とした喋り口が彼女の平生だからだ。彼女が本当に怒っているとき、彼女は口すら聞いてくれない。話しかけても無反応で存在ごと認知しなくなるのだ。彼女が目に見えて上機嫌になるのは、書庫に入っているときと、新しい書物との出会いがあったときだけだ。
「いえ、特に何かがあったわけではないのですが」彼はそう言いながら近づいてきて、持っていたものをステラに掛けた。温かなブランケットだ。「日付が変わったなと思いましてね」
彼女は栞――その辺にあった書類を適当につまんだもの――を挟んで、本を閉じた。ぱたんと吐息のような音がした。それから、立ったまま微動だにしない彼を見上げた。
影に紛れるというわけではないのだが、彼はすぐにすっと存在感を消して傍らに控え立つ。声をかけない限り、ずっとそこにいる。ステラは気配に敏い方ではないし、本を読み始めると途端に周りが目に入らなくなる。数時間後にふと思い出して周りを見回したらまだ佇んでいて驚いたことが何度もある。
ステラはソファを指差して言った。
「座れば?」
傍でずっと見られているのは気恥ずかしい。
「なら、お言葉に甘えます」
にこりと微笑んで、彼は彼女のソファに腰かける。
「外は雪が降っているみたいね」
彼女は窓の方を見ながら言う。ちらちらと白雪が降っている。
「ええ。そのおかげで、辺りが冷え込んできました」
「あなた……もしかしなくても、だからこれを持ってきてくれたのね」
肩に掛けられたブランケットを見やって、彼女は小さく息をついた。先に寝ていてと言ったところで、彼はたぶん、自分が寝るまでずっと起きているのだろう。
彼女は立ち上がると、彼に近づいた。
「お気遣いありがとう。わたしももう寝ることにするわ」
彼は少し目を見開いてがすぐに目を細めた。
ねえ、と彼に話しかけようとして、横を向いたらいなかった。
一緒に並んで映画を見ていたはずなのに、気づけば彼は部屋の隅で蹲っていた。いつからそうしていたのか、映画に熱中していた秋穂にはわからない。
(……具合、悪いのかなぁ……?)
つい、三時間ほど前に訪ねたときは、元気そうにしていたのだけれど。平気そうにしていてくれたのかな。色んな推測が泡のように頭の中に浮かぶけれど、実のところは彼にしかわからない。とはいえ、気づいたからには放っておくわけにもいかない。
秋穂は立ち上がると彼に近寄った。とんとんと肩を叩くが、彼は微動だにしなかった。
「……郡司くん、大丈夫?」
囁くと、彼はパッと顔を上げた。その顔は赤いとまではいかないが、ほんのり朱が差している。
やっぱり熱があるのだろうか。心配そうに眉を八の字にして、小首を傾げた秋穂に、彼は慌てたように首を横に振った。
「別に何かしんどいとか、そう言うんじゃないから。気にしないでくれ」
「気にしないで、って言われてもね……」
ふふと秋穂は困り顔をしながらも小さく笑った。
「もし、具合が悪いみたいだったら、一度帰るよ。郡司くんに無理してほしくないし……」
彼女の言葉に、彼は余計に首を横に振った。
「ぐ、具合は悪くない!」食い気味にそう言ってから、彼は声を小さくして続けた。「秋穂サンが俺の部屋にいるって思ったら、緊張して頭が真っ白になっちまうだけなんだ」
秋穂は目を大きく見開いた。それから、ふんわりと微笑んだ。
「わたしも郡司くんのお部屋にいると思ったら、とても胸がどきどきするの」
お揃いだね、と彼女は鈴のような笑い声を上げたとき、思わず彼は彼女を抱きしめていた。理由なんてわからない。たぶん、頭の中が真っ白だったからだろう。
茹で蛸のように真っ赤な彼と同じくらい、秋穂も顔を赤くして、彼の為すがままにされている。
じめじめとした洞窟の中に、アグニムは縛られて地面に転がされていた。時刻はやや太陽が沈み始める頃合いのときだ、洞窟の入口がさっと翳る。誰かが洞窟の入口から中を覗いているようだ。
自分のいる場所から、洞窟の入口まではやや高さがある。自然と彼は洞窟の入口にいる誰かを見上げる格好となった。入口から誰かがこちらを覗いているのが見えるが、逆光でその顔はよくわからない。
それは目を眇めて洞窟の中を凝視していたが、ようやく目当てのものが見つかったらしい。ほっとしたように破顔すると、ゆっくりと洞窟の中に足を踏み入れる。そして、一目散に縛られている彼に元へと向かう。
「アグニム様!」
今、このようなところで聞くことのない声のはずだった。芋虫のような状態になっているアグニムは、緩慢な動作で寝返りを打つと体を起こす。
「……フーリエ……」
ほっとしたような泣き笑いのような表情を浮かべる彼女が目に入った。彼女は持っていたナイフでアグニムのあちこちを縛るロープを順次切っていく。全てのロープが切られて、縛られていたあちこちにようやく血が通い始めた気がする。
「お怪我はございませんか?」
フーリエが眉を八の字にして小首を傾げた。
大丈夫だと返しながらも、彼は感慨深い気持ちで胸がいっぱいだ。
「お前に助けられることがあるとは夢にも思っていなかった」
彼の誰に言うとでもなく洩れた呟きに、フーリエは小さな微笑みを浮かべた。
「何だかいつもと逆ですね」
ふ、と彼も笑った。
「ああ、そうだな」
「今回は、きちんとお役に立てている自負があるので、とても嬉しいです」
フーリエは彼に向かって、手を差し出した。その手を取って、彼は立ち上がる。まだ足元がくらりとよろけるので、彼女の肩を借りることとなった。
きまり悪そうな表情を浮かべる彼に、彼女は言った。
「どうか必要とあれば遠慮せずに頼ってください。アグニム様はご自身でできることが多く、わたしがお役に立てることはほんの僅かですが、それでも何か頼っていただけるとわたしは嬉しいです」
「……そうか。そう言ってくれるのであれば、なるべく頼るようにしよう」
彼の言葉にフーリエが満面の笑みを浮かべた。
「今回は確かに助かった。礼を言う」
だが、と彼は言葉を続ける。彼女の肩を抱く手の力が強くなった。
「お前自身が危ない目に遭うかもしれないことを、今後は絶対にしないでくれ。心臓に悪いから」
彼はほろ苦い表情をしていた。
シータの主人であるミリィは強気で意地っ張りな少女だ。いつも危なっかしくて見ていられない。彼女がしおらしくするときは数えるほどしかないが、彼女が悪夢を見た翌日はいつだってしおらしい。
夜更かしが大好きな彼女は、昼まで寝ていることが多い。そのせいで大学も遅刻しがちなのが難点で、何度言っても直る気配はない。
彼が朝、声をかけに行ったとき、基本的に返事がない。仕方がないので、正午前後にもう一度、軽食を持って、彼女の部屋の扉をノックする。そのとき、返事がなければ寝ているものと、起こしに入る。返事があれば――夢を見たという証だ。
「……シータ……?」
そして今日、彼女は悪夢を見たようだ。ぼんやりとして、それでいて警戒しているような声で彼女は言う。彼は小さく笑って返した。
「俺以外に誰がいると言うんです」
「……入りなさい」
失礼します、と言いながら、彼は部屋の扉を開けた。
彼女は大きなベッドの真ん中で、放心したように座り込んでいる。寝間着のままで、うなされて随分と寝返りを打ったのか髪はぼさぼさだ。
彼はサイドテーブルに持ってきた軽食を置くと、ベッドの縁に腰かけた。
「お嬢、どうしたんです。また怖い夢でも見たんですか」
そう言いながら、彼は子供をあやすように彼女の頭を撫でた。彼女は大人しく為すがままにされている。まだぼんやりと虚空を見つめていた。
「お嬢、聞こえていますか」
「……聞いているわ」
彼が顔を覗き込むと、彼女はそっぽを向いて、か細い声で返事をした。憔悴しきっているその様を見るに、今回の悪夢は酷い内容だったみたいだ。目の下には隈もできている。あまり眠れなかったらしい。
「軽食、お持ちしたんですけど要りますか」
彼の言葉に、彼女はぎこちない動作で振り向いた。真正面から見ると、ぼさぼさの長い髪が顔を覆い隠すように垂れ下がっているせいで、まるでおばけのようだ。
「……うん、食べるわ。今日は何?」
彼は手を伸ばすと、彼女の髪を掻き分けた。怪訝そうな表情の彼女と目が合う。
「パンケーキです。お嬢、お好きでしょう?」
そう言いながら彼はにこりと笑った。彼女も小さな笑みを浮かべた。生憎とその笑顔は引き攣っていたが。
「……ええ、好きよ。嬉しいわ、ありがとう」
どういたしましてと返しながら。彼は頬を掻いた。こう殊勝に礼を言う彼女を見るのも、滅多にないから調子が狂って仕方がない。明日は槍でも降ってくるかもしれない。
(ハグでもしてやれば、いつもの調子に戻るかな?)
そんな仕様もないことを考えながら、彼は彼女に皿を手渡した。
そのとき、ニェナは果てしない暗闇の中にあった。影すら見えない真っ暗闇の中、自分だけがぼんやりとした薄明かりに包まれている。自分の手足や着ている服、髪の毛の先まではっきりと見ることができるけれど、影は見えなかった。
どこかに立っているようだけれど、どことなくふわふわとしている。
自分の体は思うように動いた。歩けるのならばとにかく歩いてみよう。そう思って、ニェナはどこへともなく足を動かし始める。前へ前へ、自分の顔が向いている方向へと、ずっと進み続ける。途中に遮蔽物は何もなく、障害物も何もない。ただひたすらに前へと足を動かしているうちに、段々と疲労を感じてきた。
立ち止まったとき、自分の爪先が闇に紛れかけているのに気づいた。暗闇はニェナの脚にまで立ち昇っていた。ニェナは自分の腕を前に伸ばした。あっという間に闇に呑まれそうになったのを、引っ込める。自分の近くにあるときだけ、辛うじて見えた。
しかし、もう自分の体は、爪先は言うに及ばず、脚から腰あたりまで暗闇に包まれてしまっていた。じわじわと暗闇は這い上がっており、指先はもちろん、肘から肩がもう見えない。完全に闇に呑まれたとき、果たして自分はここに存在しているのだろうか――。
ニェナは強く肩を揺すぶられて目が覚めた。瞬きしながらよろよろと体を起こす。
長い夢を見ていたような気がする。久しく感じていなかった感覚が戻ってきた。自分の肩を掴む彼の手は、少し指が食い込んでいて痛い。痛みを感じるのだって久々な感じがする。
名前を呼ばれたのでニェナは彼を見上げて、首を傾げた。
「ひどく魘されていたが……大丈夫か?」
心配そうな声音が返ってくる。まだ夜が明けきっていないのか、彼の姿は薄闇に紛れてはっきりとしない。
ニェナは笑みを浮かべて頷いた。自分の肩を掴む手に、自分の手を重ねる。彼の手は大きくて骨張っていて、温かい。
夢の余韻がまだ残っている。あれが夢だったのか、もしかすると今、“現実”だと認識しているこれが夢なのかはわからないほどに。
「……手をつないで寝てもいいですか?」
ニェナの懇願に呆れたような溜息が返ってくる。ニェナの手をそっと振り解かれ、肩を掴んでいた手が離れていく。と思うと、彼女は抱き寄せられていた。
「今晩だけだ」
メイナードの姿がようやく見えた。何だかとても安心できた。
緊張が解れたせいか、するするとニェナに眠気が降りてくる。お礼を言わなくてはと思っていたけど、言う前に意識が遠くなっていく。
ことんとニェナが意識を失う前に、彼がおやすみと言った気がした。