耳で聞いた言葉を頭の中で咀嚼する。主語と述語と目的語、装飾語。綺麗な言葉かそうでないかも判断は難しい。
生まれた時から耳にしていた言語と違うものに難儀していた。聞き取ることすらうまくもできずに、慣用句か直訳でも問題ないか、ひとつひとつ並べて内で訳していく。
流れていく話題に、皆が一瞬止まってから笑い始める。おそらくなにか面白い話だったのだろうが、ひとつ前に発せられた言葉を分解するのに忙しく、遅れてすら何も分からず。笑顔になった周囲を少し離れた場所から眺めるだけになってしまった。困っている顔で気を遣わせたくなくて、唇を横に引き結んだ。
笑いが収まった後、身内である男が近づいてきて頭に大きな手を乗せてきた。
労りにしては乱暴なその手に押される形で首を俯けたのは別に涙を隠すためではない。
不機嫌そうに相手が向かってくるのにどうしたのかと尋ねると、座っていたベンチに音を立てて座った。
骨に何かないか心配になったが、そうそうやわでもないし、若いからなと一人で納得して頷いた。
話が通じなくて困る。ゆっくりと言葉を選んで伝えてくれた相手は、先ほどまでの依頼者達を親指で指した。
言葉が共通であっても通じない苛立ちに眉を顰めている相手には悪いが、自分だけではなかったのだと嬉しく思って、つい笑んでしまった。
つられたように口の端を吊り上げて、自身の頭に手を乗せてくるのは、あの時と違う大きさだけど、同じ温度のように思えた。
おそらくは他者よりも薄らがない記憶は今も色鮮やかに蘇る。それを優秀というか不幸というかは人生への幸福度によるかもしれないが。
あの頃にはもう少しだけ柔らかかった手は、皮が厚くなり、握り込むとざらりとした感触を返してくる。
握り慣れなかった武器の柄は、すっかり馴染んで、もう新しい豆ができることはない。
人間のことを何も知らずに、首を傾げてなぜなぜなぁにと尋ねた自分を、近しい友たちは、面白がることはあってもバカにするようなことはなかった。好奇心が人並み外れていたからかもしれないが、ありがたいことである。
友も若輩が多かったからか、うまくいかないことも悩みもあった。自分が何かの力になれたかは、今となってはわからない。それでも同じく悩むこともできたし、わからない時には隣にうずくまり、時には暖かな飲み物を差し出した。
無力に寂しく情けなく感じることはあっても、あの頃がなかったらなんて一度も思わない。涙に似た何かを頬に光らせて、あてもなく歩いたあの日、隣にはいつだって相棒がいた。
あの日、並んでぴょこぴょこと歩いていた相棒は、体幹と体重の問題でもう跳ねているようには見えない。
それでも、並んでいるのは今も同じ相手だというのが、より一層あの日を色鮮やかに見せるのだ。
空模様を確認しようとして、吐いた息が視界を染めた。身体が温まっていて気付かなかったが、だいぶ冷えてきていた。
頬を自らの指で触れると鈍い感触で、顔も冷えていた。
チラとみると、先ほどまで相対していた人物の頬も赤くなっている。目を少し丸くし、疑問を口にされたので、天気が崩れるかもしれないことを伝えた。
空に顔を向けて、先の自分と同じく目を凝らして雲の様子を確認している。
外にいるのも頃合いかと並んで宿に足を向けると、黒い粒のように見える鳥が数羽、飛び立っていった。そろそろ冬の始まりが近い。
渡り鳥だろうか。故郷に帰るのかもしれない。なんて、正解も何もわからないただの予想だけで中身のない話をしながら、ゆっくり歩く。
歩調は自然に合っていて、なんとなく相手の好物の甘いものでも作ってやるかな、と揺れる頭髪を見てみた。
暖かな甘いものがいいだろう。食事の後にフォンダンショコラは重いだろうか。
曇天の雲は厚く、雪が降るかもしれない。
切れた息を抑えることもせずに、まばらに草が生えた地面に大の字に寝転がる。汗が地面に濃い影を落としているだろうが、木々の枝に切り取られた青い空しか視界にはない。
人間なども見えないが、近くにいることは知っている。
木剣は離さずに、もうダメだ、無理、鬼だなんだと言って見せても、鳥が囀っている程度としか思ってなさそうだ。楽しそうですらある。自分でもたまにうるさいなと省みるので、豪胆さなのか、包容力なのか、単に耳が悪いのか。
では少し休憩するか、との言葉にようやく息を整えるのに意識を向ける。空気は澄んでおり、肺はめいいっぱい初夏の青臭さを取り込んだ。
喫緊の事態がなければ休むのも重要だと口にする。効率よく休むためには切り替えを体と脳に覚えさせるのが……
言葉は耳を素通りしていく。
目尻を伝う汗は不快だが、睡眠不足と疲労によって瞼が落ちてくる。
そうして一瞬の体感。横にごろりと勢いよく転がった。
自分の頭があった場所に深々と刺さった木剣は、二寸は土を抉っていた。最近は雨の気配が遠く、固まった地面を。
落ち着いた汗が違う理由で額を伝う。
休憩は終わりだと無常に告げる声が澄んだ空気に響き渡った。
行こうと純粋にひかれた手がどれだけ嬉しかったかきっと彼の人は気づかないだろう。自分も、今後一生気づかれないのを望んでいる。
数年前の思い出を繰り返していると、本人が目の前にやってきた。
昔、数年前という人によっては最近と呼称される時の流れの前のことを考えていた。
自身と相手が向かっても向かわなくても構わない、些細なことだったように思う。何か——任務か事件か——があったように思うけれど、そのこと自体は覚えていない。何より、自分たちの力はなく、日常であったもので。とりあえずそんなに悲壮なことではなく、あるいはそう告げられて、好奇心が大半に向かったことは覚えている。
当時の自分は不思議に思うことは多かったが、それ自体が世間一般に疑問に思われることなのか、常識的なことなのか分別がつかなかったので反応に困った。認識の差異自体を自覚するには至った頃だったけれど。
自分が異質なことに対して知識ではなく経験で自覚した頃の呼び出しに、周りが少し見えるようになった呼び出しに。
何も、思惑も衒いも気遣いもなく、当たり前に隣に、ともにあるものだと行動に示されたことにどれだけ自分が涙を堪えたのか一生気付かないてくれと、今の自分は思う。
同行者たちが、困っている人間か、絡んできた人間か、それとも好奇心で首を突っ込んだか。
助けを求めているのは、目の前の人物が訪ねてくる前に耳にしていた。
それでも待っていたのは——
さて、では向かおうかと腰を上げる。
今度は自分が彼の人の手を取るために。