モールス信号を習得することにした。理由はなく、ただの気まぐれである。だがこれがどうにも性に合ったのか、あっという間にマスターしてしまった。
今日も僕は先輩といるときにせっせとメッセージを発信する。どうやら先輩はモールス信号を知らないらしく、「寝癖ついてますよ」「明日雨降るらしいですよ」と甲斐甲斐しくモールス信号で伝えてみても、先輩は寝癖を一向に直そうとしないし傘も持ってこなかった。こんなこともあろうかと僕が予備の傘を持っていなければ、先輩は今頃風邪を引いていただろう。
そんなわけだから、せっかくなら先輩に対して普段から思っているけど積極的に言葉にしていなかったことをこっそり送ろうと思った。ただの自己満足だ。でも楽しければそれで良い。
何も知らない先輩の前で、僕はモールス信号でひたすら「ありがとう」と送り続ける。怒涛の感謝を浴びせられながら、先輩は全く素晴らしく笑っているので、たとえ届かなくても僕は満足である。
ところで、最近先輩がわざわざ「ありがとう」と口にする回数が増えたような気がする。秘密のメッセージがとっくにバレていて、全部わかって返しているのであれば、恥ずかしいので早く教えてほしい。
月が綺麗ですね、なんて、今となっては割とありふれてしまった言葉だ。夏目漱石がI love you.をそう訳したという有名なエピソードは、しかしその出典は不明らしい。そんな曖昧な言葉に人々は納得し、感嘆し、愛を託しているのかと思うと少し滑稽に見えてくる。
ひねくれた僕がそんな話をしていると、先輩が「じゃあ君ならなんて言う?」と無邪気に尋ねた。ひねくれた僕に愛の言葉なんて求めないでほしい。そう思いながらも反射的に考える。
「……世界で一番、幸せになってください」
「自分がするんじゃなくて、ただ相手がそうあることを望むの? 健気だね」
「そんなんじゃないですよ」
幸せになってほしい。世界で一番、誰よりもずっと。この世に存在する何よりも。この世のすべてはあなたのためのもの。あなたの努力も、願いも、取り巻く環境も。あなたが幸せにしたいと望むものすら、ただあなた自身であってほしい。僕はあなた以外どうだっていい。あなた以外の幸せなんてなくていい。こんなのが愛であってたまるか。
だけど先輩は美しく笑って、「君にそう想われる人は確かに幸せ者だね」と言う。そんなことだから僕のI love you.は、最後まで発することもできずに、暗くて深い穴の中に向けるしかないのだ。
「街へいこうよ」
「僕、どうぶつじゃないんで……」
「プレイヤーの分身は人間でしょ」
「てか古いですよそれ。何世代前ですか」
「私は今でも好きだけどなあ」
ぼやくようなそれに、僕は何と返していいかわからない。先輩は時々、本当はおいくつなんですかと尋ねたくなるようなことを言う。単に幅広い世代のものが好きなだけだろうけど。カフェの新作メニューにだって敏感な人だから。
僕は残念ながら、そのゲームは知っていてもやったことがない。先輩に伝えると、「今度一緒にやろうね」とお誘いされる。先輩と暮らすと優雅なスローライフにはならなさそうだな、と思いながらも僕は快く了承する。きっと楽しいに違いないので。
「ところで本当に街に行こう」
「あ、ちゃんと目的があったんですか。どこに?」
「猫ちゃんカフェ」
「ああ、僕達が会いに行くんですね、なるほど」
「無人島に勧誘しないといけないからね」
「それたぶん最新作の方です」
先輩は優しい。それは慈悲であり、寛容でもある。もし雪山で誰かと遭難したとして、先輩は自分の食糧を一つ残らずその人にあげてしまうだろうし、難破船で救命ボートが足りなくなったら躊躇うことなく自分の分を差し出すだろう。
同時に、先輩の優しさはひどく暴力的でもある。それはやはり慈悲であって、また憐憫とも言う。相手がどう思おうと、たとえ救いを必要としていなくても、その優しさに苦しもうとも、先輩には関係がないのだ。先輩の優しさはそういう類のものだった。
先輩の優しさは、誰にも何も期待していない故のもので、自らがそうしたいと、当然そうするのだと思うが故のものなのだ。
ただかなしいなと思う。どれだけ神様じみていても、先輩はただの人間だ。僕は神様たる先輩の恵みに救われた信奉者でありながら、自らを全くと言っていいほど省みない先輩のことが、時折ひどく恨めしい。
「君は優しいよね」
そんな先輩に言われるその言葉に、価値なんてこれっぽっちもない。先輩の優しさに比べれば、他のすべては微々たるものだ。
「そんな君だから、私も優しくするんだよ」
嘘つき。だけどやっぱり先輩は優しいのでそんなことを言うし、僕は先輩に少しでも優しさを返したいから傷つけるようなことは言えないのであった。
「君に魔法をかけてあげよう。12時には解けるから気をつけて」
「僕が灰かぶりなんですか? 先輩じゃなくて?」
「私は魔法使いだからね」
先輩がにんまりと笑った。そうやって笑う先輩はチェシャ猫みたいだといつも思う。
「何でも出してあげるよ。美しいドレスも、かぼちゃの馬車も、ガラスの靴も。君が望むものは何でもね」
「うーん、じゃあこの間配信が始まった映画と暖かい部屋が欲しいです」
「なるほど、用意しよう」
「おいしいお菓子と飲み物は僕が用意しますね」
「いつにする?」
「明日とか」
「いいよー」
簡単に了承をくれる先輩を見ながら、僕は先輩が隣にいてくれるならそれ以外はいらないな、と思う。12時に解けてしまっては困るから、先輩には頼まないけど。