美しく、柔和で、可愛らしく。
鋭く、冷たく、近寄りがたく。
強かで、悠然と、神々しく。
それが、先輩の笑顔だった。
作られた笑顔の何と素敵なことだろう。誰にでも平等に向けられるその表情には天上の価値がある。完璧なバランスでもってたたえられた微笑みは、さながら聖母像のようだ。神の母、いや、あの人は神そのもの。誰をも救う神様。完全無欠、欠けたところのない存在は何よりも美しい。
ところで先輩は、僕の前ではひどく適当な表情ばかりしている。すぐに拗ねるし呆れるし怒る。大口を開けて笑うことだってある。完璧な神様は一体どこへ? だけど僕はそれを見て、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケだってため息が出るほど美しいものな、とも思う。
世はまさに大SNS時代である。日常の些細なこと、日々の何もかも、人生を切り売りしてガラス瓶に詰め、人々はネットの海に放流する。詰められたものに油が染み込んでいれば海上で火炎瓶さながらに燃え出し、漏れ出た油は海を汚す。触発されて投げ込まれた瓶もまた燃えて、辺りは地獄絵図の様相を見せる。
環境汚染を防ぐためには、最初から燃えそうなガラス瓶を流すのをやめるしかない。今や現実では言いにくいことをネットに書き込むのではなく、ネットに書きにくいことを現実で言う時代なのである。
「というわけで、証拠の残らない現実でしか言えないこと大暴露大会をしよう」
先輩が言った。頭のおかしい大会が始まったなと思った。そのまま言った。なんで? という顔をされた。それはこちらのセリフなんですが。
「普段からたくさん我慢してる後輩に、言いたいこと全部言ってすっきりしてもらおうっていう先輩の優しいはからいだよ?」
「先輩自身が言いたいことあるわけじゃないんですか? 大会なのに?」
それは大会ではなく命令なのでは。
「私は言いたいと思ったときに全部言ってるからね」
なぜか得意げに言ったあと、先輩は軽く目を伏せた。その目が慈愛の色をしていてなんだか落ち着かない。
「君は優しいから、何でも溜め込んでしんどい思いしてないか心配なんだよ」
それを言うなら目下あなたへの気持ちだけが行き場なく仕舞いこまれていますが、僕はこれを一等綺麗なガラス瓶に詰めてどこの海にも流さないまま抱いて墓の下まで持っていこうと思っているので気にしないでください。
なんて言えるわけもなく、僕は「優しい先輩が気遣ってくれるからしんどくなんてないですよ」と息をするように嘘を吐く。「そっか」とすんなり受け入れた先輩の横で、僕のガラス瓶の中身がさらに増えた音がする。
「1000年先まで残るものって何だろう」
先輩が言った。視線はぽかりと浮かんだ雲に向いていて、たとえば今が夜なら、その先に散らばる星の光なんかはその代表ではないだろうかと思った。1000光年離れた星の、1000年前の輝きを僕達は今見ている。
だけど、それだと何だか寂しい気がした。どう足掻いたって、1000光年先の星が今生きているという証を受け取ることはできない。1000年前に必死に輝いていた星は、500年前にはもう失われているかもしれない。発された光だけを見ている僕達に、それを知る術はない。
だから僕は考え直して、「人の想いとか」と言ってみる。予想外だったのか、先輩は驚いた顔をして「移ろいやすいものの代表だと思うけど」と言った。
「万葉集は、1000年以上も前の、今でも鮮明な人々の想いですよ」
僕の答えに先輩は納得したらしい。「じゃあこんな日々も歌にしてしまわないとね」と笑う。僕はうなずきながら、世界中のどんなものより美しい歌にしなければ、と密かに意気込む。叶うなら、遠いどこかで今頃生きている星の光が、1000年先もこの想いを照らしてくれたらいい。
「一番好きな花は何ですか」と問うと、先輩は「勿忘草」と答えた。即答だ。そんなに手慣れた質問だったか。
花言葉で有名なのは「私を忘れないで」。中世ドイツ、騎士が恋人のために花を摘もうとして川に落ち、恋人に向けてこの言葉と勿忘草を残したという。なるほど、置土産とは卑怯なことだ。目の前で失った愛する人の、最期の言葉と、最期の贈り物。忘れられるはずがない。もはや呪いとしか思えない。
「先輩も、忘れられたくないんですか?」
重ねて問うと先輩は強かに笑う。
「置いていくくらいなら、手でも掴んで引きずり込むよ、私は」
先輩が由来となっていたら、この花の花言葉はもっと物騒なものになっていただろう。僕はそちらの方が断然好きだったので、まだ花言葉のない花を見つけたら川岸に植え直して、先輩に取ってほしいと頼もうと思う。
「たとえば私が罪を犯して逃亡するとして」
「なんですかそのイカれた導入は」
「そのときは君も付いてきてくれる?」
イカれた導入をイカれたままに続けた先輩は言う。僕は一瞬だけ考える素振りを見せてから「いいですよ」と快諾する。
「どこに逃げるんですか」
「世界中、いろんな国に行こう。時々警察に追いかけられたりしながら。いざとなったらどっちかが囮になろうね」
「国際指名手配犯なんですか?」
一体どんな規模の犯罪をする想定なんだろうか。先輩はにんまりと笑っていて、その脳内ではきっと完全犯罪が計画されている。何でもうまくやる人だからきっと計画は成功して、僕との逃避行もきっと実現はしないんだろうと思う。
それでも、少しだけ好奇心が湧いて、先輩にそっと近寄る。囁くようにしながら「どんな犯罪をする予定なんですか」と尋ねてみる。先輩は内緒話をする子供みたいな目で笑う。
「あのね、君を誘拐して海外に連れ去っちゃう計画なんだ」
僕は呆れて、うつむき、顔を手で覆ってため息をついた。そりゃあ大変な犯罪だ。計画はスムーズに完遂され、僕達は警察に追われることなく無事にこの国を脱出し、笑っちゃうくらい愉快な旅路の果てには、きっと楽しい思い出だけが残ることだろう。