こんな夢を見た。
先輩が笑っている。いつもどおり、明るく、にんまりと、いたずらっ子のような目で、時折神々しく、恐ろしいまでに美しく、笑っている。僕が隣で見てきた笑顔。僕だけが知っているその表情。
それなのに、先輩の隣に、僕がいない。僕がいるのは、先輩の隣じゃない。先輩の隣にいるのは、僕じゃない。
それを目にした瞬間、僕は隣のそいつを地面に引き倒す。馬乗りになり、顔を殴りつける。何度も何度も。目が潰れ、鼻がひしゃげ、僕の手が血だらけになり、それでも、何度も。
そいつが誰なのかは結局わからなかった。僕ではないというその事実だけが重要だった。
その体がピクリとも動かなくなった頃、僕はようやく隣を見る。先輩はまだそこにいる。何事もなかったかのように、変わらず悠々と微笑んでいる。
先輩に手を伸ばす。指の先が真白い肌に触れそうになる。真っ赤な指が目に入って、思わず動きを止めた。先輩はそれを見ながら、不思議そうな顔をした。
先輩の手が、僕の手を誘導する。細い首だ。絞め殺すのは簡単だろうと思った。自分が何をしたいのかはわからなかった。
「いいよ。君なら、いいよ」
先輩がそう言って、笑った。神様からの赦しだった。僕の手が先輩の首にかかる。先輩には似合わない、鮮やかな赤が先輩を染める。笑っている、笑っている、先輩が笑っている。
だから、先輩は僕だけのものになったのだ。
そんな、夢を見た。
そうだ、と世間話を始めるくらい軽やかに、先輩が言う。
「タイムマシーンが完成したら、君を一番乗りにさせてあげよう。いつに行きたい?」
なるほど、先輩はタイムマシーンを作っている最中らしい。相も変わらず先輩の話は突拍子もない。それでも、その人はどんな願いも叶える神様のように笑っている。
「たとえば、入学前とか。君がひどい思いをする前とか」
ああ、試されていると思った。
だから僕は微笑んで、先輩の目を見つめ返す。
「過去に戻るのであれば、先輩に初めて会ったときにします」
「……その心は?」
「あのときの先輩の姿をもう一度見たいので」
先輩が僕を救ったとき。夢が現実になったような衝撃ばかり頭に残っていて、僕の記憶は少しだけ曖昧だ。喜びも、感動も、眩しさも覚えているのに、それ以外はかえって抜け落ちてしまったらしい。そのことがもったいないといつも思っていた。
先輩は「ふーん」と低い声で呟く。その瞳が少しばかり暗くなる。
「じゃあ君には使わせてあげられないな」
「あれ、どうしてですか」
「私が隣にいるのに、昔の私のためにタイムマシーンに乗るなんて許せないから」
その言葉で僕はすっかり嬉しくなってしまって、「なら、遠い未来を見に行きましょう、一緒に」と先輩に笑いかける。「それならいいよ」とけろっとした顔で先輩は言った。もうその瞳は凪いでいて、でも僕は、一瞬だけそこに現れた怒りの色をきっと忘れられないだろう。
夜が好きだ。もっと言えば、夜の静かな空気が好きだ。街のみんなが寝静まって、いつもとは違う世界のようになったそこを、ひとりきりで歩く。異世界を旅している気分になる。勇者にでもなったような心持ちがする。
月を従え、星を辿り、知っているのに知らない道を進む。暗闇の中で一際光るコンビニだって未知の場所だ。通い慣れた場所なのに、どうしてこんなに胸が踊るのか。僕は肉まんを買って、辺りの空気を白くさせながらかぶりつく。
やがて冒険の旅は終わり、僕は公園に足を踏み入れる。ゆらゆらと揺れるブランコには先輩が座っていて、まるで戦利品かのようにカフェオレを飲んでいる。目が合い、何も言わずに隣のブランコに腰掛けて、さっきそこの自販機で買ってきたあったか〜いお茶のキャップを開ける。無言で乾杯し、僕達は無事の帰還を讃え合う。「コンビニのホットスナックに新商品入ってました」「向こうの道に猫ちゃんがいたよ」と、重要な情報交換も忘れない。
勇者は忙しいので、すぐに次の旅に出なければならない。先輩に「また明日」と言うと、「もう今日だよ」と笑い声がする。「では、また今日に」と手を振って、僕は家への旅を始める。次に先輩に会うときは、その旅路の話をしてあげようと思う。
「海の底に楽園はあると思う?」
先輩が言った。目の前には海がある。先輩の瞳はその水面のようにキラキラと輝いている。光を吸収し、反射して、あたたかな輝きを持つ瞳。
「竜宮城の話ですか?」
「そうだね。そこにちょうど亀もいることだし」
「それさっき先輩が作った砂の亀じゃないですか」
「助けたら連れて行ってくれるかもよ」
イジメられてもいない亀をどうやって助けると言うのか。先輩が鼻歌交じりに作った小さな亀は、ニコニコと楽しげに笑っている。先輩は彼に「ノア」と名付けた。また大層な名前だ。このちっぽけな亀では人間ひとりだって救えないだろう。そもそもノアは船を作った人であって、船そのものではないのだが。
「ね、本当にあるのかな、海の底に」
先輩の言葉に、海の底を空想する。そこは静かなのか、賑やかなのか。寒くはないのだろうか。あたたかければいいなと思う。先輩が寂しくなければそれでいい。
なんにせよ、僕に言えることはひとつだけだった。
「先輩があると思うなら、あるんじゃないですか」
先輩はその答えに満足そうに微笑んだ。僕もそれを見て満足する。海の底の楽園は、きっと、この人の瞳の中にある。
突然、先輩に呼び出された。平日の、朝の4時に。
「日の出見に海に行かない?」
着信音に叩き起こされて耳に当てたスマホの向こうで先輩が言う。言葉の意味をひとつも理解できないまま、僕は準備をして家を出る。
波の音は静かで、空気は冷たくて、僕達以外には誰もいなかった。冬は太陽も寝坊助になる。呼ばれてからすぐに来てしまったせいで、日の出まではまだ時間がかかりそうだ。
先輩はいつもどおりだった。こんな時間に呼び出すから何かあったのかと心配したのだが、別にそんなことはないらしい。まだ薄暗い空の下で、波を避けて遊んだり砂に文字を書いたりしている。その後ろ姿を見た僕はホッとして、同じくらい腹が立った。だから黙って隣に座り込む。先輩はにんまりと嬉しそうに笑うだけで何も言わなかった。
じわじわと浸透するみたいに明るくなっていく空を眺めながら、ぽつりと尋ねる。
「なんで日の出見たかったんですか」
先輩は僕を見て、一瞬ぽかんとして首を傾げる。その横顔が、あたたかい光に包まれる。神々しいとまで思えるその景色。
「君に会いたかったから」
何を当たり前のことを、というような顔で、先輩は言った。僕は信じられなくて、思わず深いため息をついた。
もう一度言うが、今日は平日である。当然学校もあるし、放課後には必ず先輩に会う。何もしなくたって、わざわざこんな時間に海に呼び出さなくたって、日の出なんて見なくたって、僕は先輩に会いに行く。
日が昇る。素敵な光景だ。これを先輩は、意味もなく僕に会うためだけに使った。その事実がたまらなくて、「今日は学校サボりませんか」と提案する。先輩は怪訝そうな顔をしながら、それでも笑ってうなずいた。