「海の底に楽園はあると思う?」
先輩が言った。目の前には海がある。先輩の瞳はその水面のようにキラキラと輝いている。光を吸収し、反射して、あたたかな輝きを持つ瞳。
「竜宮城の話ですか?」
「そうだね。そこにちょうど亀もいることだし」
「それさっき先輩が作った砂の亀じゃないですか」
「助けたら連れて行ってくれるかもよ」
イジメられてもいない亀をどうやって助けると言うのか。先輩が鼻歌交じりに作った小さな亀は、ニコニコと楽しげに笑っている。先輩は彼に「ノア」と名付けた。また大層な名前だ。このちっぽけな亀では人間ひとりだって救えないだろう。そもそもノアは船を作った人であって、船そのものではないのだが。
「ね、本当にあるのかな、海の底に」
先輩の言葉に、海の底を空想する。そこは静かなのか、賑やかなのか。寒くはないのだろうか。あたたかければいいなと思う。先輩が寂しくなければそれでいい。
なんにせよ、僕に言えることはひとつだけだった。
「先輩があると思うなら、あるんじゃないですか」
先輩はその答えに満足そうに微笑んだ。僕もそれを見て満足する。海の底の楽園は、きっと、この人の瞳の中にある。
突然、先輩に呼び出された。平日の、朝の4時に。
「日の出見に海に行かない?」
着信音に叩き起こされて耳に当てたスマホの向こうで先輩が言う。言葉の意味をひとつも理解できないまま、僕は準備をして家を出る。
波の音は静かで、空気は冷たくて、僕達以外には誰もいなかった。冬は太陽も寝坊助になる。呼ばれてからすぐに来てしまったせいで、日の出まではまだ時間がかかりそうだ。
先輩はいつもどおりだった。こんな時間に呼び出すから何かあったのかと心配したのだが、別にそんなことはないらしい。まだ薄暗い空の下で、波を避けて遊んだり砂に文字を書いたりしている。その後ろ姿を見た僕はホッとして、同じくらい腹が立った。だから黙って隣に座り込む。先輩はにんまりと嬉しそうに笑うだけで何も言わなかった。
じわじわと浸透するみたいに明るくなっていく空を眺めながら、ぽつりと尋ねる。
「なんで日の出見たかったんですか」
先輩は僕を見て、一瞬ぽかんとして首を傾げる。その横顔が、あたたかい光に包まれる。神々しいとまで思えるその景色。
「君に会いたかったから」
何を当たり前のことを、というような顔で、先輩は言った。僕は信じられなくて、思わず深いため息をついた。
もう一度言うが、今日は平日である。当然学校もあるし、放課後には必ず先輩に会う。何もしなくたって、わざわざこんな時間に海に呼び出さなくたって、日の出なんて見なくたって、僕は先輩に会いに行く。
日が昇る。素敵な光景だ。これを先輩は、意味もなく僕に会うためだけに使った。その事実がたまらなくて、「今日は学校サボりませんか」と提案する。先輩は怪訝そうな顔をしながら、それでも笑ってうなずいた。
小さい頃から日記を付けている。書くことがなくて三日で飽きたり、そのときの気分によってノートを変えたり、誰かへの悪口をこそこそと書き連ねたりしながら、なんだかんだ今日まで続けてこられた。積み重なったノートの山を見るとどこか達成感すら抱く。
その中に一冊、特にボロボロのノートがある。ものすごく古いものというわけではなく、どちらかというと最近のものだ。それなのに、そうとは思えないほど傷だらけで真っ黒なのは、それ相応の理由がある。語るほどのことでもないけれど。
手に取ってページを捲る。全体の三分の一しか埋まっていないそれは、ほとんどが同じ四文字で、自分自身に向けた呪詛が並んでいる。その上から殴り書きのように塗り潰そうとした跡も。書いた字がまともに読めなくなった辺りで、このノートは使われなくなる。
次のノートの最初のページには、ただ一言。
「かみさまは いた」
結局このノートもすぐに使わなくなってしまったけど、これを書いたときのことを、僕は鮮明に覚えている。その喜びも、感動も、眩しさも、全部覚えている。
あの日、僕の前に現れた神様は、僕の狭い世界をめちゃくちゃにした。暴力的なまでのそれを、僕は救いと受け取った。それだけの話で、それ以外は必要ない話だ。
だから僕はその日以前の日記をすべて焼くことにする。せっかくなら焼き芋でもやろう。先輩も喜んで来てくれるだろうから。
木枯らしは、終わりの合図だと僕は思う。木々が自分の体の一部を切り落とす。その手伝いをするような風。季節の終わり、生命の終わり。
「木枯らしは始まりなんだよ」
先輩は僕と真逆のことを言った。その目はこれ以上ない慈愛に染まっている。
「それまで枝から離れられなかった葉っぱが、ひとりで風に乗って遠くまで行くんだ。独り立ちするんだよ。旅の始まり、人生の始まり」
葉の一枚一枚に生を見るか。それはずいぶんと大所帯な。
視線の先には一本の木がある。立派な木だ。強い風に揺さぶられ、剥がれた葉が舞い踊る。今まで自分を支えるようにそびえ立っていた木はもう近くにはない。他者から強制的に与えられる独り立ちは、辛く寂しくはないだろうか。
「僕が風に乗って飛んでいっても、先輩は笑顔で見送ってくれそうですね」
そんな呟きには、驚くような顔をした。
「君は葉っぱじゃなくて、ひとりで立つ木だよ」
その言葉がどんなに僕を喜ばせるか、先輩はきっと知らないだろう。でも、だからこそ、僕はやっぱり一枚の葉なのだと思う。ちょっとやそっとじゃ揺れない大樹の、その庇護下にありながら、最後は素敵な旅をと祈ってもらえるなら、それ以上はどこにもない。
美しいものを探している。この世で一番美しいものを。
「先輩、先輩。この世で一番美しいものって何だと思いますか」
「白雪姫の鏡?」
「そうですけど、あれ使ってるの白雪姫じゃなくて女王様ですよ」
いやあ日本語って難しいね。そんなふうにぼやきながら、先輩は考える仕草をする。それだけのことがいちいち様になっている。
「散り際の桜とか?」
「儚いものに美しさを見出すタイプなんですね」
「日本人はだいたいそうじゃない?」
「確かに」
うなずいて答えれば、「君にとっての一番美しいものは?」と先輩が言った。吸い込まれてしまいそうな、色素の薄い瞳がまっすぐに僕を見る。それを見て僕は、美しいな、と思う。思うからこそ、僕は答える。
「探しているところなんです、一番を」
それで先輩は納得したようで、「見つかるといいね」と言葉をくれる。そんな祈りすらどこか美しい。
僕だって、散り際の桜を美しいと思う。儚いものは美しい。でもそれ以上に、先輩はいつだって美しいから。
もしも、僕の人生で一番美しいと思えるものが、死に際の先輩だったらどうしよう。だけど、そんなときまで一緒にいられるのであれば、その未来も甘んじて受け入れようかなとも思う。