小さい頃から日記を付けている。書くことがなくて三日で飽きたり、そのときの気分によってノートを変えたり、誰かへの悪口をこそこそと書き連ねたりしながら、なんだかんだ今日まで続けてこられた。積み重なったノートの山を見るとどこか達成感すら抱く。
その中に一冊、特にボロボロのノートがある。ものすごく古いものというわけではなく、どちらかというと最近のものだ。それなのに、そうとは思えないほど傷だらけで真っ黒なのは、それ相応の理由がある。語るほどのことでもないけれど。
手に取ってページを捲る。全体の三分の一しか埋まっていないそれは、ほとんどが同じ四文字で、自分自身に向けた呪詛が並んでいる。その上から殴り書きのように塗り潰そうとした跡も。書いた字がまともに読めなくなった辺りで、このノートは使われなくなる。
次のノートの最初のページには、ただ一言。
「かみさまは いた」
結局このノートもすぐに使わなくなってしまったけど、これを書いたときのことを、僕は鮮明に覚えている。その喜びも、感動も、眩しさも、全部覚えている。
あの日、僕の前に現れた神様は、僕の狭い世界をめちゃくちゃにした。暴力的なまでのそれを、僕は救いと受け取った。それだけの話で、それ以外は必要ない話だ。
だから僕はその日以前の日記をすべて焼くことにする。せっかくなら焼き芋でもやろう。先輩も喜んで来てくれるだろうから。
木枯らしは、終わりの合図だと僕は思う。木々が自分の体の一部を切り落とす。その手伝いをするような風。季節の終わり、生命の終わり。
「木枯らしは始まりなんだよ」
先輩は僕と真逆のことを言った。その目はこれ以上ない慈愛に染まっている。
「それまで枝から離れられなかった葉っぱが、ひとりで風に乗って遠くまで行くんだ。独り立ちするんだよ。旅の始まり、人生の始まり」
葉の一枚一枚に生を見るか。それはずいぶんと大所帯な。
視線の先には一本の木がある。立派な木だ。強い風に揺さぶられ、剥がれた葉が舞い踊る。今まで自分を支えるようにそびえ立っていた木はもう近くにはない。他者から強制的に与えられる独り立ちは、辛く寂しくはないだろうか。
「僕が風に乗って飛んでいっても、先輩は笑顔で見送ってくれそうですね」
そんな呟きには、驚くような顔をした。
「君は葉っぱじゃなくて、ひとりで立つ木だよ」
その言葉がどんなに僕を喜ばせるか、先輩はきっと知らないだろう。でも、だからこそ、僕はやっぱり一枚の葉なのだと思う。ちょっとやそっとじゃ揺れない大樹の、その庇護下にありながら、最後は素敵な旅をと祈ってもらえるなら、それ以上はどこにもない。
美しいものを探している。この世で一番美しいものを。
「先輩、先輩。この世で一番美しいものって何だと思いますか」
「白雪姫の鏡?」
「そうですけど、あれ使ってるの白雪姫じゃなくて女王様ですよ」
いやあ日本語って難しいね。そんなふうにぼやきながら、先輩は考える仕草をする。それだけのことがいちいち様になっている。
「散り際の桜とか?」
「儚いものに美しさを見出すタイプなんですね」
「日本人はだいたいそうじゃない?」
「確かに」
うなずいて答えれば、「君にとっての一番美しいものは?」と先輩が言った。吸い込まれてしまいそうな、色素の薄い瞳がまっすぐに僕を見る。それを見て僕は、美しいな、と思う。思うからこそ、僕は答える。
「探しているところなんです、一番を」
それで先輩は納得したようで、「見つかるといいね」と言葉をくれる。そんな祈りすらどこか美しい。
僕だって、散り際の桜を美しいと思う。儚いものは美しい。でもそれ以上に、先輩はいつだって美しいから。
もしも、僕の人生で一番美しいと思えるものが、死に際の先輩だったらどうしよう。だけど、そんなときまで一緒にいられるのであれば、その未来も甘んじて受け入れようかなとも思う。
「実は、この世界は猫ちゃんに支配されているのだ」
突拍子もなく先輩が言う。何故かドヤ顔の先輩に、僕は「はあ」と曖昧な返事をする。詳しく話を聞けば、この世界はすでに猫ちゃんの支配下にあり、人類は猫ちゃんたちのお世話をするために人型を取っているらしい。なんともかわいい陰謀論である。
「で、なんで先輩はそんなこと知ってるんですか? もしかして猫ちゃん側?」
「そうだよ。今は人間の姿だけど、少しずつ猫に変わってる」
あ、なるほど。人間からも猫に取り立てられるのか。そして先輩はすでに猫ちゃんの世界の上の方にいると。確かに先輩にはどこか猫っぽいところがあると常々思っていた。後天的に変化した部分だったのだろうか。
「じゃあこれは猫舌の先輩にはいらないですかね」
そう言いながらさっき自販機で買ったばかりのカフェオレの缶をちらつかせる。ずっと握っているには熱すぎるそれに、先輩は目を輝かせて飛びついた。その反応は、どちらかと言うと犬っぽい。
手に入れたカフェオレを早速飲む先輩は、さっきまでの戯言をすっかり忘れたみたいにご機嫌で、「やっぱり世界は君のものなのかもしれないね」と言う。僕では分不相応なので、早いところ先輩を後継者に仕立てて引退してしまおうと思う。
先輩にはなぜなぜ期がある。と、言うとやや語弊があるし、そんなに簡単なものでもない。要は先輩は、僕の考え方を知りたいのだ。
天国はある? じゃあ地獄は? 虹の端っこには何がある? 神様はいると思う?
休む間もなく飛んでくる矢のような質問に、僕はひとつひとつ丁寧に答えていく。あったらいいなと思いますよ。天国があるならあるんじゃないですか。行ったことないのでわかりません。……神様は、そうですね、います。
不自然に言葉に詰まる僕を気にせず、先輩は重ねて問いかける。
「君は、どうして私と一緒にいるの?」
今度こそ僕は黙り込む。それをどう思ったのか、先輩は「どうして?」と純粋な眼で聞いてくる。その眼を僕は恨みがましく見つめ返す。そんなの、あなたが僕を救ったからでしょう、とはとても言えない。
傲慢にも軽々しく、何でもないことのように僕を救った神様は、それがどれだけ特別なことかこれっぽっちも理解していない。僕だけが宝物のように大事に抱えている。それがなんだか悔しくて、だけど、だからこそ先輩は僕にとっての神様なのだと思う。
「先輩こそ、どうして僕と一緒にいるんですか」
同じ問いを返してやれば、先輩は小首を傾げて「確かに。どうしてだろうね」と言った。「それと同じですよ。おんなじ」と僕は返す。納得した様子で先輩は笑った。同じなものか。でも、それは僕だけが知っていればいいのだ。